第一部 エピローグ
もうすぐ、この果てしない階段の先に空が見えるんだと思うと、不思議な気持ちになるよ。
あの日、冷たい石の上で目を覚ましたときは、誰とも会わずにただ朽ちていくだけだと覚悟していた。それが今じゃ、皆と歩き、語り合い、笑ってさえいる。もっとも、僕は笑う表情が無いのだけれど。
……夢みたいだね。いや、夢よりもずっと手応えがある気がする。
僕は、少しは強くなれたと思う。かつての僕ではとても耐えられなかったような戦いの中でも、なんとか立っていられるようになった。
君が最初に、そばにいてくれたからだ。本当に有り難う。光も温もりもないこの世界で、君や皆を背に立って戦えること――それが今の僕の、誇りなんだ。
さて。地上に出たら、何が待っているのかな。
生きている人たちは、僕たちをどう見るだろう。怖がられて、怒られて、追われるかもしれない。
だからできるだけ、最初は静かにしていようと思う。騒ぎはごめんだし、何より、皆を危険な目に遭わせたくない。
……でも、もしも世界が少しだけ優しかったなら。
皆が「こうありたい」と思えるような生き方を、叶えられるといいな。僕は、そのそばにいたいと思ってる。
ニャスカ。君は、これから何をしたい?
◆
あー、たしかに。言われてみりゃ、ヘンな気分だな。
最初はただ、ワケの分かんねぇ洞窟から出られりゃそれでいいと思ってたけど…… まさか、こんなヘンな連中と一緒に歩いてるとはな。
ま、アンタがちょっとはマシになってきたのも、このニャスカ様のおかげってわけだ。感謝しな。
正直まだまだだけど、ちったぁ頼りにしてるぜ。アタシの家来としてな。
それに……アンタがいなかったら、アタシ、どっかで頭ぶっ壊れてたかもしれない。
ありがとよ。言っとくけど、何回もは言わねーからな。
さて、と。地上に出たら何をするかって話だけど、アタシは決めてる。
冒険者ってやつも悪くない。腕を試せるし、宝探しもけっこう楽しいしな。
そんで、稼げるだけ稼いで、マッドキャッツを復活させるんだ。でっけぇ盗賊団に戻すのさ。
でもって、盗っていいもんと、盗っちゃいけねぇもんの区別がつかねぇようなクズどもを、片っ端からぶっ飛ばす。
死んでようがなんだろうが、アタシの流儀は変わらねぇ。
……だから、ジル。アンタもちゃんとついてこいよ。途中でくたばったりすんな。
このニャスカ様が、もう一度、この腐った世界を叩き直してやるんだからさ。
◆
あぁ、もちろんだよ。僕も、ニャスカの夢を手伝いたい。
ただその……マッドキャッツがまた暴れまわって、騎士団が頭を抱えるようなことになったら、ちょっとだけ手加減してほしいとは思うけど。
でも、騎士団だけじゃどうにもならない悪が、この国には確かにある。
少し複雑な気持ちだけど、君の目指すものを、僕は応援したいと思ってる。
みんなの夢も、気になるよね。
例えばロラン。彼のいう「貧しい人向けの商売」って、実際にどうなるのか見届けてみたい。
シュエのことも。時々口にするお兄さんのこと、きっとすごく大事なんだと思う。困ってるなら、力になってあげたいよね。
フリードは、まだ真祖の吸血鬼になる夢を諦めていないみたいだ。彼の研究熱心さには頭が下がるよ。
もしかしたら、そのうち僕らの身体の秘密も、解き明かしてしまうかもしれない。
一番気がかりなのは、やっぱりナルルースかな。
彼女がエルフなのは分かったけれど、どこから来たのか、どこへ向かっているのか……まだ何も分かっていない。
いつか、エルフの国にだって行ってみたいな。
それはそれとして、ところで――僕たちの変装、本当に大丈夫かな?
骨とか、青白い顔とか、道行く人にバレないといいんだけど……
とにかく、誰にも見破られないことを祈ろう。
無事に街に着いたら、まずはゆっくり休もう。
外はもう春になっている頃だろうか。暖かい風が吹いてるといいね。
――― ◆ ―――
そこは王宮の中でも、ごく限られた者しか知らない地下三階の一室。
僅かな灯りしかない石造りの長い廊下、その最奥にある、一部の宮廷魔術師のみが立ち入りを許された研究室。
室内には天井まで積まれた書物と、幾種もの薬品、魔術具、そして白骨化した人体標本が安置されている。
不気味な静けさのなか、小さく液体が揺れる音だけが空間にこだましていた。
壮年の男がひとり、その中心に立っていた。
白髪の乱れた頭。落ちくぼんだ目元には生気がない。
だがその奥には、全てを見透かすような、冷たい意志の光が宿っていた。
男は、棚に整然と並ぶ瓶を見つめていた。どの瓶の中にも、揺らめくような小さな炎がひとつ、浮かぶように灯っている。
それは魂の残滓か、それとも何かを模した術式なのか――。
だが、そのうちのひとつの瓶だけが、空虚だった。
灯は、消えていた。
「……将軍が? ふむ、あり得んことだ。だが、それは起こった……」
男は誰に向けるでもなく、低く呟く。
「あれが持ち出されるのは不味い。……いや、それよりも――一体、誰が?」
言葉を失いかけたその口元に、僅かな苛立ちが浮かぶ。
この国には、そんなことを成し得る者はいないはずだった。
彼自身の計画は、もっと長い時間と、数え切れぬほどの試行錯誤を要するはずだった。
数千、数万の屍の中から、ただ一度だけ芽吹く可能性。それが、あまりにも早く現れた。
「……まさか、あいつらが?」
ひときわ長い沈黙。
男は静かに首を振った。
「あまりに早すぎる。しかし…… 可能性が皆無というわけでも、ない……か」
男の指が、分厚い扉のノブをゆっくりと回す。
軋む音が、廊下の奥で反響した。
「いずれにせよ――生かしてはおかん」
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
瓶の中の炎だけが、ほのかに揺れていた。
まるで、まだ目覚めぬ意志たちが、夢の中で呼吸しているかのように。
第一部はこれで完結となります。
次回更新まで少し間が空きますが、ぜひ楽しみにお待ちいただけると嬉しいです。




