11話 - 骨の記憶
第七階層の途中で休憩を挟んでいたときだった。
「そういえばアンタ、アレは?」
いつの間にか隣に来ていたニャスカが急に尋ねてくる。
(……アレって、なんだろう?)
首をかしげていると、焦れたようにニャスカが僕の頭を小突く。
「もう! 手帳! なんか書いてんのかっつってんの!」
あぁ、交換日記! そうだ、最近は鬼人との修行なんかで忙しくてすっかり忘れてしまっていた。いや、何か書こうとは思ってたんだ、ただなかなか時間が取れなくて……!
そんなことを思って、慌てた様子が伝わったのだろうか。ニャスカがため息をつきながら立ち上がる。
「ったく。アンタは喋れないんだからさ、なんか書きなよね」
そういうと立ち上がり、パシンと僕の頭蓋骨をはたいて部屋の反対側に行ってしまった。
よし、今は時間もあるし、僕のことをもっと詳しく書いてみよう。記憶を掘り下げるようにゆっくりと生まれた村のことを思い出し、大切な手帳の一ページに文字を刻んでいく。
◆
僕が生まれた村の名はリネ。王国の北東、レムリアの街から馬車でさらに一週間、ユルヴェール山の麓にひっそりと佇む、小さな集落だった。春になれば丘は野の花に埋もれ、風がポプラの梢を震わせる。村そのものが囁き合うようなその音を、母さんは「森の子守歌」と呼んでいた。夜、静けさの中で聞くと、本当に誰かが子供をあやしているような気がしたんだ。
リネ村の名産は玉ねぎだった。拳より一回り大きく、それでいて焼けば蜜のように甘くなる。普段は交易に回されるけど、収穫祭の夜だけは村中に振る舞われた。まるごとの玉ねぎを湯気の立つボウルに入れ、惜しみない塩とベーコンの旨みを溶かしたスープに沈めるんだ。大人たちは葡萄酒を傾け、夜が明けるまで浮かれ騒いでいた。僕はあの祭りの日を一年でいちばん楽しみにしていたんだ。
父さんは木こりだった。大柄で無骨で、余計なことは言わない人だったけれど、「迷ったら動け」とだけは、よく口にしていたよ。騎士になると言った僕を最初に殴ったのも、最後に背を押したのも、父さんだった。母さんも厳しかったけど、根は優しい人だった。裁縫が好きで、村を離れる日には、僕のために防寒のマントを縫ってくれた。少し不器用な仕上がりで、縁の部分がちぐはぐだったことを覚えている。でも、あれほど温かい布は、あの後二度と手に入らなかった。
十五の春、村を出て王都へ向かった。父さんは僅かばかりの稼ぎからお金を貯めてくれていた。しめて金貨三枚。自分には才能がないと分かっていたし、人一倍、いやそれ以上に努力して、無事に入隊が叶った。けれど結局、稼いだ分でそれを両親に返すことは叶わなかった。
ある日、村の襲撃の報が届いた。急いで指揮官に頼み込んだが、新米の僕が向かうことは許されなかった。調査に向かった部隊が戻ったときには、村はすでに灰と化していたという。何に襲われたのか、誰が生き残ったのか。問いただしても、誰も答えようとはしなかった。ただ「全滅した」と、それだけ告げられた。
◆
やっぱり、ここを書くのは辛いな。同情して欲しいっていうのも違うし。でも…… 過去を含めて、僕がどんなヤツかを知ってほしい気持ちもある。心の中で深呼吸して、また筆を進める。
◆
村を失ったあと、しばらくの間、僕は荒れていた。訓練で理不尽にぶつかってくる同期に拳を振るい、指導官に噛みつき、何度も懲罰房送りになった。けれど、誰かに心配されることはなかった。騎士団は王国の盾であり、そこにあるのは友情や優しさではなく、ただの戦力だったから。
そんな僕を叱りつけて、飯を奢ってくれたのがロック隊長だった。「死んだ奴らのために生きろ。それが、戦う意味ってやつだ」。酒臭い息でそう言われた時は反発したけれど、やがて彼の言葉がじわりと沁み込んできた。
夜の食堂は、そんな僕にとって唯一の安息だった。灯りの下、湯気を上げる鍋の匂いが甲冑の間に漂い、隊員たちは大笑いしながら硬い黒パンを齧っていた。熱いスープを啜りながら、誰が最初に戦場に立つかを競い合う。剣技の天才もいれば、貴族の息子でコネを持つ者もいた。僕には何もなかった。あるのはただ、積み重ねた訓練だけ。だから、皆が夜遅くまで騒ぐ中、僕は黙々と木剣を振り続けた。
そんな僕を気にかけたのか、隊長は王国の姫の護衛――プリンセス・ガードの話をしてくれた。王家に仕える誇り高き騎士、王都最強の盾。
「お前、変に真面目だろ? 妙な下心もねぇ。だったらいっそ、姫様をお守りするために生きるってのはどうだ」
軽く言われたことを、僕は本気にした。いや、本気にするしかなかった。そこに至る道は限りなく遠く、誰もが「お前なんかがなれるわけがない」と笑ったけれど、それでも僕は足を止めなかった。貴族のしがらみも、才能の壁も、すべて努力で覆してやるつもりだった。
どんなに馬鹿にされてもその夢を曲げたことは無かったけれど、遂にそれが叶うことはなかった。
十九の冬、僕はザビアティル洞窟での演習に参加した。戦闘経験を積むための実践訓練。班で一緒になったのは、僕を面白く思わない連中だった。
「よぉ、お前は優等生だからな。先陣を切ってくれよ」
皮肉まじりの笑い声。だけど、誰よりも前に立つことは僕の信念でもあった。だから迷いなく剣を構えて奥へと進んだ。第二階層まで進むだけの安全な演習のはずだったけど、洞窟の暗闇から這い出たのは教本にも載っていない魔物だった。
盾を構えようとした瞬間、僕は背中を突き飛ばされた。体勢を崩した僕の足元に、影が広がる。咄嗟に振り向いたけど、仲間たちは既に背を向けていた。逃げるための囮として、僕はそこに捨てられたんだ。剣を握りしめ、最後の瞬間まで戦った。でも、そんなものは何の意味もなかった。圧倒的な暴力の前では、騎士の矜持などただの幻想だと思い知らされたよ。
そして目を覚ましたとき、僕はスケルトンになっていた。
それが神の罰なのか、偶然なのか、誰にも分からない。ただ、僕は「生きて」いた。剣を持ち、盾を握り、あの時果たせなかった戦いをこうして続けている。
でも、それが正しいことか今も分からないんだ。仲間を庇って前に立った僕は、本当に騎士だったのだろうか。結局、僕は何者にもなれず、ただ骸骨としてここにいるだけじゃないのか――?
……そんなことを考えていたらまた気が狂いそうになる。けれど、僕はまだ歩ける。僕はまだ、盾を構えられる。そう思わせてくれたのは、貴女だ。
だからニャスカ。ありがとう。
◆
そこまで書いて、日記を閉じた。見回すと、ニャスカとシュエは小部屋の隅の方で寝入っている。ロランは…… ふと背中に寒気を感じて後ろを振り向くと、青白い頭が洞窟の壁から突き出て、僕の手元を見ている……!
慌てて彼の頭を振り払うと、素早く頭を壁面の中に引っ込めた。
「あっと、これはこれは。いや失敬。全てを見るつもりはなかったのですが、あの、なかなか読ませる文というか、つい読み耽ってしまいました…… ハハハ、続きを楽しみにしてます」
他の二人には聞こえない程度のごくごく小さな声で、言い訳にすらなっていない弁明が聞こえてくる。僕の過去については別に構わないが、最後の部分を読まれたのはさすがに恥ずかしいな。
(笑われたらどうしよう…… あるいはうっとうしがられたら?)
日記を渡すかどうか躊躇する。いっそ、このまま日記を焼いてしまいたい衝動にもかられる。けれど。
(いいや、考えすぎだ。今の僕を知ってもらうだけでいいんだ!)
誤字がないか確認して閉じる。不安になってもう一度開いて、頭から読み直す。読んでもらえるだけの分量は書けたはずだ。盗み見されて気まずいが、ここまで書いたからには引き返せない。
ニャスカが横になっている側に閉じた手帳をそっと置いて、見張りに戻る。
もう一度部屋の中央に陣取って座ったとき、置いたはずの手帳は既にニャスカの手の中に収まっていた。
(もう⁉︎ しかも目の前で! まだ心の準備が……)
内心でたじろぐ僕を尻目に、ニャスカは次々とページを読み進めていた。
しばらく日記を読んだ後、彼女は少し間を置いてから手帳を閉じ、こちらを見ないまま「ふん……」と鼻を鳴らした。その後少しの沈黙。そして、洞窟の壁に向かって唐突に呟いた。
「はぁ、ばっかだねぇー……」
僕のことだろうか。確かに、僕は馬鹿なまま、何も成し遂げられないまま死んでしまった。
だが、そう言って起き上がると、彼女もまた何かを書き始めた。横がをがチラっと見える。真剣な表情をしているように見える。
聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、続けて呟く。
「でもそういうとこ、嫌いじゃないけど、な……」
手帳に目を落として俯きながら、彼女は彼女の物語をページに綴り始めた。炭のペンを取った彼女の指先が、わずかに震えていたような気がした。
いや、気のせいかもしれない。そもそも、彼女が何を考えているかなんて、僕に分かるわけがない。ただ、こんな風に気持ちを真っすぐに伝えてしまって、本当に良かったのだろうか……?
どうしても彼女の様子が気になったが、ずっとじろじろと見ているのも悪い気がする。僕は魔物が近づいてこないか見張るため、洞窟の闇に眼を凝らすことに決めた。
彼女がペンを走らせるカリカリという音と、雫が滴り落ちる音だけが洞窟内にこだましていた。




