プロローグ - 僕らの最期
命乞いをするなら死んでからにしろ。かつての教官からそう教わり、そのように勇敢でありたいと彼は願っていた。だけどもいざその時になって口から出たのは、最も単純な欲求だった。
「死にたく……ない……」
地面にうつ伏せに倒れた男は、絞り出すようにそう呻いた。金属の鎧と具足、腕甲。騎士の装備に身を包んだ彼の命は、今まさに尽きようとしていた。
倒れた騎士の傍には、漆黒のローブに身を包んだ男が立っていた。その男が口元に笑みを浮かべながら呟く。
「そうかそうか、それは結構。活きの良い奴じゃないとな」
しわがれた声でそう呟くと、続けて一言、二言と詠唱する。やがて周囲から渦巻くようにして黒い魔力の波動が集まってきた。
辺りの空気が急激に冷え込む。黒い魔力は煙のように立ち登り、回転しながら地に伏す騎士の男を包み込んでいく。
「あ、あ……ッ! ああぁあぁぁぁ……‼︎」
どす黒い霧から、わずかに突き出て見える騎士の手。その皮が徐々に剥がれ、肉が削ぎ落とされていく。血溜まりが広がる。壮絶な痛みにより、おぞましい叫び声が辺りに響き渡る。
その異様な儀式が進んでいるにも関わらず、ローブの男はもはや興味など失ったかのように洞窟の外へ向かって歩き出していた。
苦悶に満ちた騎士の叫び声は既に聞こえなくなった。すっかり皮や肉は蒸発し、もう骨だけになった手が見えている。それでも生きたいと願うかのように、その骨の手は震えながら動き、洞窟の地面に爪痕を残した。
骸骨が、ゆっくりと黒い渦から這い出してくる。頭蓋骨に続き肩口まで見えたところで、その空っぽの眼窩に二筋の赤い光が灯る。
からり、からからと、乾いた音が洞窟の中にこだまする。
金属鎧の中で、彼の肋骨は崩れずにその形を保っている。その胸部に、禍々しく光る魔力が集まっている。拳大ほどのエネルギーの塊が左胸に灯り、それはまるで脈打つように光を放ち始めた。
もう、黒い渦は消えかけようとしている。一体の骸骨が地面に手をつき、やがておもむろに立ちあがった。
辺りを見渡すと、洞窟の脇に自分の剣が落ちていることに気づいた。骸骨はゆっくりと近づくと、確かめるようにその剣に手を伸ばした。
白骨化した己の手が視界に入り、一瞬その動作が止まる。だが、すぐに思い直したかのように剣に触れ、持ち上げた。しばらく眺める。やがて、何かを決意したかのように、骸骨が一歩踏み出す。
剣は鋭い金属音を立てながら腰の鞘へと収められた。
◆
そこはまた、どこか別の洞窟の内部。
黒い大蛇のような霧がぐるぐると渦巻いていたが、やがて獲物を痛ぶるのにも飽きたかのように霧散していく。
霧が晴れたところに、一人の女性が横たわっていた。辺りに強く漂う腐臭。肉がただれ落ちる臭い、腑がその中身ごとぶち撒かれたような臭いが、地面に倒れた女性から発されていた。
女性は革鎧に身を包んでいる。赤髪い髪に浅黒い肌。胸や腰、関節部などの最低限の部位に防具をつけており、身軽な装備だ。ところどころ現れている肌はしっかりと筋肉がついているように見える。腰には何本かのナイフを下げており、旅慣れた軽戦士を思わせる出立ちであった。
「うぅ……あぁ、あ……?」
喉が渇く。声がうまく出ない。やがて身体を引きずるように立ち上り、のそのそと歩き出た。運よく側にあった水辺に辿り着き、その水面を覗き込む。
映し出された顔に生気はなく、肌は土気色に染まっている。赤く渇ききった髪の周りには何匹か蝿がたかっている。唇の色も悪く、猫目がちで力強い瞳だけが今も燃えるような輝きを放っている。
思わず頬を掻きむしると、指があたった肉が削げてびちゃりと水面に落ちた。
「あ、あ、ぁぁぁ……ぃや……ぁぁぁぁ……」
力無い絶望の叫びが、長く辺りにこだました。
◆
禍々しい黒い風がやがて過ぎ去ると、男は猛烈な寒気を覚えた。悲しみ、絶望、飢え。あらゆる負の感情が胸いっぱいに押し寄せてくる。
男は高所から突き落とされて息絶えたはずであった。重症を負って目が覚めたのだろうか、だが溢れ出す負の感情とは裏腹に、不思議と身体が軽い。
彼の身体は、実際のところ宙に浮いていた。それだけではなく、彼は自分の存在そのものが希薄になったように感じていた。
ゆっくりと周囲を見渡した後、自分の手や足を見る。見ようとするが、霧がかかったようになってうまく見えない。目を擦ろうと手を頭にやると、手が頭を通り抜けた。足はない。下半身の感覚は消失しているが、なぜか前後左右に移動できる。
ややあって、青い僧侶の形をした靄の男はつぶやいた。
「あぁ…… また死ねなかった。神よ……」
男はついいつもの癖で、両手を胸の前で組んで祈った。
と、周りから騒がしく声が聞こえる
「あいつ、あそこから飛び降りたんです!」
大勢が集まってくる。直感的に、霊体となった男はまずいと感じた。ここは教会、大勢やってくるのは全員が聖職者。
考えるよりも先に大理石の壁をすり抜け、夜の街へと出る。と、たまたま外を歩いていた街の娘と目が合う。
「あ……ぁ……!」
互いに似たような声をあげ、それぞれが反対方向に逃げ出した。娘は叫びながら教会に、そして青白い靄の男は街外れにあるダンジョンの方角へ。
◆
冷たい地面に少女が横たわっている。唐突に目を覚ますと、彼女はむくりと上体を起こした。
はじめ、少女の視界に入ってきたのは、自分のすぐ鼻先に垂れ下がっている黄色い何かだった
「……ん? ……んん?」
右を向いても左を向いても、視界を遮るように紙のようなペラペラしたものがついてくる。彼女はつばの丸い帽子を被っており、その前方に奇妙な札がくっついている。
邪魔だとばかりに取り払おうとするが、札に手を触れた瞬間に体を強張らせる。帽子にも触らない方が良さそうと判断したのか、ゆっくりと手を引っ込める。指先を走った痛みだけでなく、今まで感じたことのない不気味な感覚がよぎり、身体が本能的に危機を告げていた。
彼女は見覚えのない服を着せられていた。ゆったりとした袖の道士服。黒目黒髪の少女は辺りの状況を確認する。
暗い洞窟のように見える。暗いことは分かるが、同時に遠くまでよく見通せている。細長い空間。いまいちいまの状況が飲み込めないし、前後の記憶も曖昧であった。
「……うん、まあいいか」
ふと思い出したように彼女は呟く。もともと細かいことを気にしない性格であった。起きたらまた鍛錬の続き。腹が減ったら食べ、眠たくなったら寝る。物心ついたときからずっとその繰り返しだ。今は腹は減っていない…… ならば。
少女は立ち上がると、両手を広げるようにして上げながら息を深く吸う。頭の上にある両手を開き、身体の中心を通るようにして掌を下げながら一層深く息を吐く。半歩、前へ。脊髄から捻り出すようにして拳を前に突き出すその瞬間、激しく地面を踏み締める。
ズン、という地鳴りとともに辺りに衝撃が走り、洞窟の天井から砂つぶが落ちる。激しい振動に驚いた蝙蝠達が、慌てて洞窟の更に奥深くへ飛び去っていった。
◆
洞窟の小部屋で、魔導士風の男が頭を抱えていていた。その手の爪は鋭く伸びており、目は赤く輝いている。口の犬歯も、凶暴な牙に姿を変えていた。
「……成功した……のか……?」
部屋の中央に、大きく描かれた魔法陣。細かな模様が張り巡らされ、それを囲むように何本も蠟燭が立っている。その中央に彼は佇んでいた。
と、急に、男が自分の喉を押さえて苦しむ。
「……くっ、乾く……ッ! まさか!」
部屋の脇に置いてあった水桶を覗き込む。そこに映った自分の赤い瞳と牙。それは一見、儀式に成功した証に見えた。だが、男は猛烈な血への欲求を自覚し、それにより自分が決定的な過ちを犯したことを悟った。
「くそっ、失敗か……! ああぁぁぁ……!」
男は完全に狼狽した様子で、その側の机に置いてあった魔導書を部屋の隅へ投げ捨てる。
と、隅に投げ捨てた魔導書から、赤い光が繰り返し発されていることに気がつく。ぼわん、ぼわんと、不気味に明滅している。
「追跡魔法! くそっ‼︎」
男はそう叫ぶと、最低限のカバンだけを抱えて、その小部屋を飛び出すように逃げていった。
◆
何もない中空に、白い炎が灯る。はじめは蝋燭ほどの小さな火であったが、やがて眩い光がその空間に集まりだし、火はやがて両手で抱えるほどの大きな炎へと成長した。
そして最後に、白色の炎の真ん中に、丸い二つの眼が朧げながら出現した。その両目が、突然ぱちりと開く。
「ふわーぁ、よく寝た……あれ? ここ、どこだろ」
呑気な少女の声が辺りにこだまする。
ふよふよと浮かぶ火の玉は、ぐるりと辺りを見渡した。中心にある目が、そのまま周囲をぐるりと一周する。洞窟の中だろうか。広い空間の中央に祭壇が設置されており、その中央に自分がいることがわかる。
自分の真下を見ると、石盤に何かの模様が掘り込まれている。円と六芒星を基調としたきめ細やかな模様だ。直感的に、自分がこれにより召喚されたのだとわかる。だが、その理由がいつまでたっても分からない。いや、それよりも
「わたし……誰だっけ?」
不安に思ったのか、火の玉はその広間から離れて洞窟の通路へ進む。すぐに左右の分かれ道が見えてきた。その中央に、でかでかとした木製の看板が立っている。
右向きの矢印とともに、大きな字で「試練の道 こちら」と書いてあることは分かった。
「し、れ、ん。試練?……なんか大変そう! あっちにいってみよーっと」
白い炎はすぐに左側へと進んで行った。そのまま散歩でもするかのように、ふわふわと。灯りは揺れながら、深い洞窟の奥へと消えていった。
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