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豪徳寺弥彦と15人のフィアンセ  作者: 水野葬席
【第一章・Ⅰ】
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【番外】小鳥遊朱火

ゴールデンウィークの間の出来事です。


◇◇◇


豪徳寺(ごうとくじ)ホールディングス】会長秘書、経堂(きょうどう)瑠璃(るり)が訪れたのは東京郊外の住宅街の端にポツンとある一件のカフェである。

寂れた外観は夕暮れ時も相まって哀愁を漂わせる。看板も外れかかっていた。

店名『わかば』の文字も剥げ、もう何年かすれば読めなくなってしまうだろう。


「すみません、先程お電話差し上げた経堂です。」

ノックと共に彼女が呼び掛けると年期の入った扉は彼女の予想に反してすんなりと開いた。


「態々どうも。…どうぞ、中へ。」


扉を開けた店主(ママ)は頬のこけた中年の女性だった。

やつれて青みがかった血色の悪い顔から物憂げな視線が瑠璃を見上げる。

店の外観と併せ、この『わかば』が繁盛していないどころか赤字ですらあることが瑠璃には容易に想像できた。


小鳥遊(たかなし)朱火(あけび)、それが彼女の名前である。

そしてこの名前に隠された秘密に瑠璃は気がついていた。


◆◆◆


店内は。外観からは想像できない別世界がそこにあった。

光沢ある木製の内装が上品な雰囲気を醸し出している。

そこには明らかな店主の拘りが見て取れた。


「…それで、話というのは。」

朱火は自身の分と瑠璃の分の紅茶を持ってきて瑠璃の対面に腰掛ける。

営業時間外なので今この空間にいるのは朱火と瑠璃のみである。


「小鳥遊、ですか。素敵な苗字をお付けになりましたね。」


明らかに答えにはなっていない瑠璃の発言に朱火の眉間の皺は深まる。

名前というのは大抵の場合、親や近い親類に名付けてもらうものだろう。

苗字は先祖代々から脈々と受け継がれているものを名乗るのが一般的だろう。

自分の苗字を自分で付けるなどというのは現代日本においてはまずありえない。


普通なら彼女の奇特な発言内容に耳を疑うところだ。しかし朱火は違った。

凍えるように冷たく、突き刺すように鋭く、拒絶の意思を示した。

「…その話なら致しません。お引き取りください。」


対して瑠璃は対照的にそのにこやかな表情を変えない。

「娘さんの話を聞きたくはありませんか?」


瑠璃の発言にいよいよ朱火の表情がみるみる険しくなる。

怒っていると説埋されるまでもない程に激情を表に出す。

そして立ち上がり、怒声は堰を切った。


「何を馬鹿馬鹿しい!私に娘など」

志ノ城(しのじょう)若葉(わかば)さん…で間違いありませんよね。()()()()()さん。」


遮られた言葉は名前を聞いた瞬間にピタリと止まった。

その表情は一瞬前が嘘のように呆然とし、遂には力が抜けたか椅子に座り込む。


「…生きて…いるのですか。」


勢いは一転、絞り出した弱々しい声の質問に瑠璃は頷く。

「ここ数日で若葉さんを取り巻く状況が随分と変わりました。今日はそのご報告を、と。」


◆◆◆


朱火は瑠璃の話を悲しみと驚きを交えながら聞いていた。

しかし彼女の思考を尤も占有した感情は困惑であった。

瑠璃の話に説得力はあったが突拍子はなかった。

実際、若葉のここ数日の軌跡は又聞きの又聞きで聞くには複雑すぎた。


朱火は話を聞きながら、遂には涙を流し始める。

それは単に娘の無事を喜んでいるという風ではなかった。

「…どうか、なさいましたか?」


「…漸く理解したんです。自分の犯した罪の重さを。…5年か、或いはもう6年になるでしょうか。私は若葉を見捨てて一人逃げました。その後あの男がどうするか、勿論わかっていましたのに。…それでも私は我が身を優先しました。それから身を隠すために偽名、小鳥遊を名乗りこのカフェに流れ着きました。先代が死んだ後、女々しくも娘を忘れぬようにと同じ名前に代えました。まさか生きてあの男の元を離れ、遂には救われるだなんて脳裏を過りもしなかった…。自分の娘が生きていると、私は信じもしなかった…。」


とめどなく溢れ出す朱火の懺悔を瑠璃は黙って聞いていた。

自らも同じ母親であるが故、思うところはあったが口には出さなかった。

彼女は確かに母親としては到底褒められない生き方をしたのかも知れない。

だが置かれた過酷な環境を知った上で、何故に逃げ出したことを責められようか。


「…あの子の事、どうかよろしくお願いいたします。」

長い長い懺悔の後、朱火は瑠璃に頭を下げる。


「一緒に暮らしたいとは思わないのですか。」

瑠璃の質問に朱火は首を横に振った。


「あの子に合わせる顔も、或いは一緒に暮らす蓄えも私にはありませんから。」


◆◆◆


成果がない訳でもないが進展もない。

そんな割り切れない思いを乗せて赤のスポーツカーは国道を往く。


「さて、どうしましょうか…。」


瑠璃は母親に会いに行くことを若葉には伝えていない。

人違いの可能性があったからだ。ぬか喜びさせては流石に申し訳ない、と。

しかし結果は本人には会えども口止めをされてしまった。

朱火に義理を通すか、若葉に真実を伝えるか。

瑠璃は迷っていた。


どちらが正解なのかを理解していない訳ではなかった。

真実を伝えたところで何かが良くなることもない。

母親の情として子を母に合わせてあげたい。

それだけの話だった。


「一緒に暮らす蓄えも私にはありませんから。」

朱火のその言葉は言い訳ではあったが真実でもあった。

あのカフェの経営の云々まで口出しすることはできない。

彼女が持ちうる決裁権はあくまで(らん)と若葉の生活の件のみ。

今の瑠璃にあの店を救うことはできない。


瑠璃が社会人として生きる中で苦しいことは今まで何度もあった。

様々な理不尽と向き合い、困難に立ち向かい、そうして今ここにいる。

決断の為に感情を押し殺すことだって当然あった。今回もそうすべきだ。


「さて、どうしましょうか…。」


再び呟く同じ言葉。

しかし瑠璃はこの後に自らがどうするか予想がついていた。


母親の情を捨てた訳ではない。長い戦いを選択しただけだ。

そうやって自分自身に言い聞かせながら。

Q どうして経堂さんは禄絵(ろくえ)さんと一緒に行動していないの?

A 同じ仕事を任されている秘書がもう何人かいます。

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