【63話】蘭の昔話
◇若葉◇
紫墨さん、と名乗ったその婦人警官は私を病室に送ってすごすごと帰っていった。
その後ろ姿は何だか不機嫌そう。もっと積極的な対応を期待していたのかな。
正直、私なんかじゃなくてもっと他の誰かの所に行ってほしい。
手を差し伸べればまだどうにかなりそうな人の所へ。
私はもうどうにもならない。
「あなたがあそこにいる間に、あなたのお父さんは亡くなりました。」
多分、普通なら驚いたり悲しんだりするんだと思う。
でも私は違った。そこに感想が持てなかった。
私に暴力を振るっていたけど、その報いだと思った訳でもない。
その情報を与えられた上で、私の心には何も生まれてこなかった。
多分、自分に取ってそれは大差ないことだと思えたから。
「治療費の支払いについては…まあ、相談して決めてもらうしかないわね。」
紫墨さんは多分、もし生きていたら違ったと思っていたんだろう。
私は仮に生きていても違わなかったと思う。
かなり家賃を滞納してたハズだから、大家さんは嬉しかったりするのかな。
それとも勝手に死んでしまって恨みがましく思っていたりするのかな。
請求先は私に変わるのかな。…変わったところで、だけど。
生きていて引き取られたとして全部が振出しに戻るだけ。
なるようにしかならないのだから、良いも悪いもない。
どちらに転ぶかに興味が持てない。
治療費の問題。私のこれからの生活の問題。
全部、全部、全部、私にどうにかする能力はない。
もしかしたら近い内にここを追い出されることになるのかな。
困らないとは言わないけど、それを拒否する資格はないように思う。
「…自分の置かれた状況、整理しとかないと困るのは自分だからね?」
どう転んでも私が楽になる道がないことはわかってる。
それがわかってたらその先はどれも一緒。
「自身の現状と退院後どうするか、ちゃんと考えておいてくださいね。」
それを考えたら何かが変わるの?…きっと何も変わらない。
暴力を振るわれなくなっただけ。息苦しいのはずっとそう。
今もこの先もずっとそう。
少しだけ温かい光に浸りながら死にたかった。
そうすれば息苦しさも、その間だけは忘れられたのに。
◇弥彦◇
「…気になるのか?」
「…へ!?な、何の話!?」
いや、幾らなんでも隠すのが下手過ぎだろうそれは。
明らかに慌てふためいた蘭を前に溜息をつく。
婦人警官に連れられて出て行った若葉という隣の彼女。
彼女はついさっき出て行った時のように帰って来た。
だが蘭の様子が変わったのはそこからだ。
明らかに若葉の方に何度も心配そうに視線を送っている。
本人はこっそりやっていたつもりのようだ。それも驚きだ。
俺視点ではその素振りを隠しているとは全く思えなかった。
「ちょっとだけ、嫌な予感してさ。」
蘭の表情が陰る。
「と、言うと?」
蘭は彼女に聞かれないように俺の耳元に口を近づけ小声で呟く。
「若葉の家族、まだ誰も来てないんだよね。」
俺の婆ちゃんは俺の手術が終わった時点ではいたらしい。
本当は今日も来る予定だったが急用が入ったのだとか。
常に忙しい人で、俺としては慣れたものだ。
だが少なくとも一度は来てくれた。海外出張を返上して。
俺の大事にはいつだって駆けつけてくれるのだ。
毎度ながらありがたいことこの上ない。
だが彼女の家族は未だ現れていない。
蘭が言うには一週間も監禁されていたそうだ。
その一週間もいなかった娘の無事に誰も駆けつけていない。
見た目の判断だが、数週間も帰らないことが当たり前な不良娘にも見えない。
蘭はきっとかつての自分に近しいものを感じているのだろう。
だとしたら俺が蘭にかける言葉は1つしかない。
「俺の力が必要になったら遠慮なく言ってくれ。」
「…わかった、ありがとう。」
蘭はそれだけ答えると立ち上がり、若葉のベッドの方へ向かった。
俺はその背中に目でエールを送るだけだ。
◇蘭◇
その言葉だけでどんな困難にだって立ち向かえる気がする。
ありがとう。背中を押されたからには、私はやる。
「さっきから元気なさそうだけど、何かあった?」
そう声をかけながらベッドの傍らの椅子に腰かける。
蘭は私に視線は送ってくれた。話してはくれない。
勿論、簡単に言ってくれるとは思ってない。
「…蘭ちゃんには関係ないこと。」
まあ、そういう返しになっちゃうか。
「じゃあそれはおいといて…私の昔話、1つ聞いてくれる?」
これで響かなかったら何が響くのかはわからない。
でもそれは考えない。今できることをやる。
「私ね、お父さんもお母さんもいないの。生まれた時からね。」
若葉の前髪の奥の目が見開かれたような気がした。
「捨て子って言うのかな。拾ってくれたお婆ちゃんに育ててもらったの。」
私の話に若葉は相槌こそ撃たないけど、真剣に聞いてくれているとは思う。
「そのお婆ちゃんも先月に亡くなってさ。私、一瞬ホームレスだったんだよね。」
本当に一瞬だったから、こんな言葉を使うのはズルいかな。
でも結果的に彼女を助ける力になれるのならズルもする。
「その私を助けてくれたのがね、そこの豪徳寺君と七つ子なの。今の私の家族。」
響いている、そう信じて話す。若葉は聞いてくれている。私は信じる。
「出会いは本当に偶然なんだよ?まさかこうなるとは予想できなかった。」
「私と若葉の出会いも偶然だけど、それも素敵な縁にできるとは思わない?」
私の話を聞いてくれている若葉の表情はさっきまでとは違う。
「何か、困ってることはない?それこそ、何でも良いから。」
私の言葉に若葉が唇を咬む。
「一人より二人いた方が何とかなりそうな気、しない?」




