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豪徳寺弥彦と15人のフィアンセ  作者: 水野葬席
【第一章・Ⅰ】
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【30話】若葉を弄ぶ世界

◇◇◇


不健康感を漂わせる生白い肌に手入れを怠ったボサボサの長髪。

その前髪は目元を覆い隠し、彼女の目線は隙間から窺えるのみだ。

加えて、薄汚れて皺だらけの服も彼女のみすぼらしさに拍車をかける。


あちらこちらに埃の積もった掃除の行き届いていない部屋。

端には空になった酒瓶が並べられている。

45リットルのゴミ袋は酒の缶ではち切れる寸前だ。

その部屋は見る者に家主たる男の生活を鮮明に想起させる。


男は彼女、即ち自らの実の娘に飲み干した缶を投げつけた。

「酒が足らねえぞクソガキ!!さっさと買ってこい!!」

男の放つ言葉と同時に繰り出される拳を避けようとはしない。

避けたらどうなるか、かつて身をもって学んだからである。


その男が酒を飲みたい時に丁度良い酒がなければ殴られる。

酒があっても機嫌が損なわれていれば殴られる。

その理由の如何を聞いても殴られる。

ただただ理不尽に殴られる。


志ノ城(しのじょう)若葉(わかば)はそういう日常を生きていた。

暴君たる父親、黒鷹(くろたか)が毎日振るう拳に耐えながら。


そんな環境から逃げようと考えたことは勿論あった。

結果は死んだ方がマシと思える程の烈火の如き暴力に終わった。

若葉は痛みに歯を食いしばりながら自らの置かれた環境を悟った。


即ち、この苦痛に終わりなどないこと。逃れる術などないこと。

救世主だとか希望だとか、そんなものはくだらない夢物語だということ。


若葉が全てを無意味と諦めたのはその日である。

この先もずっと同じような地獄の日々が続くのだと、若葉はそう思っていた。


しかしそんな日常は突如として変化を迎えることとなる。


◆◆◆


黒鷹が若葉を車で長時間かけて連れて来た先で待っていたのは2人の男。

片方は太った小柄の中年の男で、若葉を見るなり脂ぎった笑みを浮かべる。

その男の上下金のスーツという出で立ちも悪趣味で不気味だ。

その傍らにいる長身のサングラスの男はどうやら側近らしい。


「ぐふふふ、その娘だな?」

金のスーツの男は下品な笑いを隠そうともせず、にやついた視線で若葉を見る。

「ああ、そうだ。こんな娘欲しけりゃくれてやる。だがまずは約束通り金だ。」


「そ、それって…」

その言葉に若葉は思わず黒鷹の顔を見上げる。


「喋るなッ!」

しかし若葉の反応に実の父が返したものは平手打ちだった。

若葉のか細い体ははたかれた勢いで夜の駐車場に倒れ込む。


()()()()()()実に生意気だ。見ての通り、躾はなっていない。」

「フン、構わんよ。金だったな。……おい、大鵺(おおぬえ)。」

「はい、ただ今。」


頭上で交わされる父親の自身に対する酷評は若葉に取って厳しいものがあった。

冷たいアスファルトに伏せながら若葉は奥歯を噛み、こみ上げる悲しみを殺した。

自らがこれから売られることを理解したからである。


しかし若葉は泣かなかった。一滴たりとも涙を流さなかった。

これはいつの間にか若葉が身に着けた技術だ。

防衛本能の発露と言っても良いかもしれない。


そこに至った経緯は何ら複雑ではない。

声を上げて泣いては泣き止むまで殴られた。

流した涙を見られては辛気臭い気に入らないと殴られた。


自分がいつから涙を流さなくなったのか、若葉は正確に覚えていない。


「いつまでそうしているつもりだ!?このグズ!!」

若葉の首を掴んで起こす黒鷹の怒声が夜中の駐車場に響く。

近くに民家一つないビル街の端では誰かがその異様に気づくことはない。


そしてその異様の一つ一つが若葉の心に大きなダメージを与えることももうない。

長年に渡って若葉を苛んだ環境はとうの昔に彼女自身の心を閉ざすに至っていた。

あらゆる暴言もあらゆる暴力も、その全ては若葉を絶望させることはない。

既に絶望しているからだ。


首を掴まれ背中を乱暴に押されて金のスーツの男に引き渡される今この瞬間。

若葉は自らが売られるという異様さえ日常として受け止めていた。

数秒前に彼女を襲った悲しみは塵も残さず空虚へと変わり果てた。

傷も悲しみも空虚も、通り過ぎれば見飽きてしまったものだ。

故にそれらは若葉を相応にさえ苦しめることはない。


◆◆◆


深夜の高速道路を往くは黒塗りの外車。

ホイールの金は拘りの特注品である。


「……気味の悪い女だ。」

助手席に座る金のスーツの男はルームミラー越しに後部座席を見て呟いた。

そこに座るはとある噂を頼りに見つけ出し、大枚をはたいて手に入れた女だ。


車に乗せる前から今に至るまでその女、若葉は何も話さない。

悲しみに暮れるでもなく、恐怖に震えるでもなく、怒り喚き散らすでもない。

生きているハズなのに男の目にはそれさえ疑わしく思える程だ。

それはまるで石のようであり、その冷たさは死体のようであった。


真正面を向きながらもどこを見ている訳でもない虚ろな視線。

感情や思考というものが一切読み取れない極めて無機質な表情。


父親との関係が良くないのは駐車場でのやり取りで理解できた。

尤も、そこにどんな確執があろうがこの男には関係ないことだ。

しかしながら遂に手に入れた念願の女がこの有り様。

出会うまで男が抱いていた期待はとうに消え失せた。


不機嫌な男を乗せた車は高速道路を下りる。

ここは金閣(きんかく)町。日本の首都、東京の僻地。

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