【1話】父親の悪夢
◇弥彦◇
1台のトラックが信号を無視して交差点に突っ込む。
そして、丁度横断歩道を渡っていた小さな女の子を撥ねようとする。
撥ねようとするが、その女の子は撥ねられることはない。結末はいつも同じだ。
どこからともなく颯爽と現れる、俺と瓜二つの男が女の子を強く突き飛ばす。
そして何を思う暇さえなくトラックはその男に突っ込んでいく。
その先がどうなるかは、実のところ知っている。
最後に映画のシーンを切り替えるような一瞬の暗転を挟んで俺が目を覚ます。
昔から飽きるほど見た悪夢だが、当然自分とよく似た男が死ぬという夢は目覚めの良いものではない。
窓から差し込む陽光と暖かな春の陽気とは裏腹に、大きなため息とともに重たい体を起こす。
枕もとの時計に目をやると9時を少し過ぎたというところであった。もしもこれが明日なら完全に遅刻である。
「クソ、毎度毎度ロクでもない夢ばっか見せやがって……。」
俺の夢に度々出てきては死ぬその男の名前は豪徳寺天馬という。
今や世界にその名を轟かせる大企業、【豪徳寺ホールディングス】の二代目社長を務めていた人物である。
初代の築き上げた経営基盤の上に更に自ら各業界とのパイプを率先して引き入れ、社長に就任してから僅か2年で【豪徳寺ホールディングス】の規模をおよそ30倍に引き上げたその敏腕は誰もが良く知るところだ。
そして俺の実の父親でもある。
……とは言っても俺に父親の記憶は全くないのだが。
俺の2歳の誕生日に父親は女の子を庇ってトラックに撥ねられて亡くなった。
俺がことあるごとに見る悪夢はきっとその光景なのだろう。悪夢よりは再現VTRとでも言った方が適当だろうか。
俺がどうしてそんなものを見せられ続けられるのかは皆目わからない。まさか特に呪われるような心当たりなどある訳もない。
最悪な寝起きも程々に、適当な服に着替えて自分の部屋を後にする。
祖母はとっくに出かけてしまったようだ。腹は減ったが好物のカップラーメンは底をついていた。
冷蔵庫の中身も寂しいと言わざるを得ない状況だった。肉や魚はおろか卵もない。買うにせよ食べるにせよ出かける必要がある。
トイレの電球も切れたままだ。この鬱屈な気分を晴らすのにも都合が良い。ならば取るべき行動は1つだ。
買ってくるべきものを箇条書きにしてメモにする。どれも大したものではない。
電球と外食を考えるなら駅の方の大通りまで出る必要があり、少し距離があるのでいつもなら面倒くさい。
だが気分転換には長い距離を歩くのは悪くないだろうと思う。散歩がてら久しぶりにぶらついてみよう。
◆◆◆
「少し早かった気もするな。」
腕時計が示す時間は10時45分。まだ11時すら回っていなかった。
昼食まで含め用事は全部済ませてしまったが、どこかでもう少し暇つぶしをしても良かったかもしれない。
だが今は卵も買ってしまった以上、真っ直ぐ家に帰るべきだ。油断とはハプニングを招く行為である。
電球や卵を持っているこの状態で起きるハプニングが何なのかは推して知るべしだ。
帰りがけに明日から高校生として通う金閣学園の目の前を通る。別に意味はない。ただの最短ルートだ。
金閣学園は中高一貫だ。故に新鮮な気持ちなど欠片もない。この学び舎には中等部から数えて既に3年間通っているのだ。
高等部から入ってくる人間は毎年いなくもないらしいが、しかし大半は中等部から見知った人間の集まりだ。
人間関係の構築は中等部で完成されている。それがまあまあだった俺を待っているのは当然まあまあな高校生活だ。
我ながら中等部での人間関係について、よくも「まあまあ」などと自己評価できるものだと思う。ため息交じりに通り過ぎる。
さて、そこから少し歩くと【魔の交差点】などと恐ろしい異名がつけられた交差点に出る。
見通しが悪く狭いが、交通量は多い。住宅街のド真ん中にあることが災いし人通りもある。
絵に描いたような交通事故多発箇所であり、噂では半月に1度はここで交通事故が起きていると聞く。
俺はこの場所に何度も来ている。地元というのもあるが、他でもない父親の事故の現場が正にこの場所だ。
当たり前だが、帰るときにただ通りすがるだけなら他の交差点と何ら変わるところはない。
家から近いこの交差点を通った回数など、きっと人生で今まで食べたパンの枚数と大差ないだろう。
そしてその内の大多数で俺にとってこの交差点とは何の変哲もないものであり、今この瞬間もそうだ。
それは日常だが、同時に願望なのかもしれない。俺が悪夢でこの交差点を見る時は、そうではないのだから。
俺を待っていたかのようなベストタイミングで歩行者信号が青に変わる。
珍しく俺を含めて二人しかいなかった。もう一人は恐らく俺と同い年くらいの女子だが、少なくとも見たことがない。
ああでもないこうでもないと漏らしながら、しかめっ面でスマートフォンの液晶と向き合っている。
【魔の交差点】で歩きスマホだなんて人によってはかなり命知らずな行動に見えてしまう。俺にもそう見える。
決して遠くはない場所でクラクションが聞こえた。嫌な予感が寒気を伴って背筋を駆け抜けた。