【18話】弥彦と春佳は水族館へ
◇弥彦◇
「頼むから一緒に水族館行ってくれよおおおっ!!」
春佳のその声は金曜日、俺が夢原家のチャイムを押した時に聞こえた。
全く朝から賑やかなことである。時間はまだ9時を回っていない。
「いらっしゃい、豪徳寺君。朝からうるさくてごめんね。えーと、何の用事?」
俺を出迎えたのは咲花。見るからに何やら困った様子である。
さっきの春佳の声が全く関係ないということはないだろう。
「ああ、昨日の俺と蘭が食った分の材料費をな。突然押しかけたもんだから色々と負担になっただろ?それより春佳はどうかしたのか?」
「へ…!?いや、別にそんなの気にしなくて良いのに。」
咲花は俺が手渡した封筒に何やら困惑していた。
足りないのは失礼だと思って少し多めに包んだので額面は問題ないと思うのだが。
或いは、俺がしている行為はひょっとして野暮なんだろうか?
「あ!豪徳寺!丁度良いところに!」
しかし深く考える暇もなく、咲花の遥か後方で果音と攻防を繰り広げていた春佳は俺を見つけた。
「ちょっと!待ちなさい!ダメだってば!」
果音は制止するもそれは意味をなさず、春佳は待ちわびた主人を見つけた犬の如く俺に突っ込んでくる。
「豪徳寺!アタシと一緒に水族館に行ってくれ!!」
「……はい?」
「いい加減にしなさいっての。豪徳寺君、良いわよ聞かなくても。」
「まあまあ、別に良いじゃないか。とりあえず話だけでも聞かせてくれよ。」
ご立腹の果音を宥めつつ、春佳が差し出した1枚のチケットを見る。
一体どこの水族館のチケットかと思いきや、それはかなり貴重な品物だった。
それは【全国水族館協会】が発行しているもので、その協会に所属している水族館だったら全国どこの水族館でもチケット1枚で2人まで無料になるという代物だ。
そしてそのチケットの隅には小さく使用期限が印字されている。
その使用期限は今年の、それも今日の日付だった。
つまりこのチケットは明日には紙屑になるのだ。
「成程。」
「なあ!なあ!豪徳寺!頼むよ!」
春佳は俺に向かって両手を合わせながら頭を下げる。
そんなに水族館が好きだったのは初耳だが。
そう言えば初対面の時も果音に一人行動を慎むように釘を刺されていた。
つまるところ春佳が水族館に行くには保護者が同伴する必要があるのだ。
ここでいう保護者とは春佳の手綱を握る役目を果たす人物だ。
「別に俺が行くのは構わないが、お前らは都合が悪いのか?」
俺は果音に尋ねる。都合がつくならば俺より姉妹の誰かの方が良いだろう。
その方が春佳もリラックスして回れるだろうしな。
「正気?全くあなたも物好きね。私は愛依と咲花とこれから買い物に行かなきゃいけないのよ。凪乃と真子は雫と畳ヶ原さんと遊びに出かけたわ。珠希も朝早く出かけたみたい。」
そう言って果音は溜息をつく。
「飛籐は?中々ウマが合うんだろ?」
俺の質問に春佳は首を横に振る。
まあ聞くところによれば飛籐はスポーツ推薦枠らしいし、暇なわけはないか。
そうなると消去法で自然と俺に白羽の矢が立つ。
「わかった。じゃあ俺が行く。で、春佳はどこの水族館に行きたいんだ?」
俺は元より予定はなく、暇つぶしの何かを探していたので丁度良かった。
とはいえ、流石に遠出をするのは勘弁だ。春佳の希望が近場だと良いのだが。
「マジで!?じゃあさ!じゃあさ!浪造がいる水族館が良い!」
浪造、【江の島シーワールド】で飼育されているミナミゾウアザラシだ。
アザラシと聞くと多摩川のタマちゃんのような可愛らしい生き物をイメージする人も多いだろうが、その実態は似ても似つかない巨躯と雄々しさを誇る海獣である。
ミナミゾウアザラシは国内では現在2頭しか飼育されていないらしい。
【江の島シーワールド】は金閣町から行くには十分に現実的な範囲の水族館だ。
多少電車の乗り継ぎがあるし片道2時間はかかるのだが、遠いと言う程でもない。
「今すぐ行って向こうで遊んで、と考えると夕飯にも間に合うんじゃないか?」
俺の発言に春佳は目をキラキラと輝かせる。
「本当に良いの?だったら任せてしまうけど、春佳は本当に手を焼くわよ?…ねえ春佳、私たちとじゃなくて豪徳寺君と行くんだから、白馬に乗った王子様と一緒にいると思って大人しくしていなさいよね。お転婆するんじゃないわよ。」
「大丈夫だって。果音はイチイチ心配しすぎだよ。アタシだってやればできるよ、珠希も淑やかさは大事だって言ってたしさあ。」
しっかり注意する果音だが、けらけら笑いながら答える春佳の姿に心配そうな表情を浮かべる。
「淑やかなんて春佳と対極の言葉じゃない。だから心配してるんだけど?」
「そんなことあーりーまーせーんー!!」
◆◆◆
「ははあ、原因はこれか。」
スマホに映るのは今乗っている電車と別の路線の状況である。
人身事故と信号トラブルが重なり上下線で運転見合わせ。
何とも気の毒なことだ。
そして今俺たちはその弊害を受けているといっても良い状況だった。
車内はすし詰め状態である。四方八方に人、人、人。
身動き1つ取ることすら簡単ではない。
迂回を選択した人が乗り込むことでまさかここまで状況が変わるなんて。
「辛抱してくれよ、春佳。」
ギュウギュウと押され苦しそうな春佳に声をかけてやる。
少なくともこの電車に乗っている間にこの状態は解消されそうにない。
乗り換え先では流石に大丈夫だとは思うが。
行きで体力を消耗するとは思ってなかった。
なるべく座れますようにと心の中で祈る。
「ッ!?」
春佳が唐突に驚き、ごく僅かな声を出した。
隣にいなければ気づかないような声だった。
今回の話から【22話】まで春佳・水族館編です。
短い章ですが箸休め的な感じでお楽しみいただければと思います。
次回は【19話】と【20話】を一挙更新の予定です。




