プロローグ
峠の頂上が見えると同時に差し込んできた強い月明かりに一瞬目が眩み、そいつに気付くのが遅れた。
コーナーの死角から突然純白の人影が躍り出し、狙ったラインのど真ん中に背を見せて立ちふさがっていた。
2速ほぼ全開でステップを擦り込むまで寝かせた愛車NINJA900の巨大な図体を回避させるには、ちと足りないものが多すぎた。
「避けきれん!」
思った刹那、真横からの衝撃を受け、視界の全てが吹き飛んだ。
想定していた、と言うより確定していた走行ラインを物理的に有り得ない角度で捻じ曲げ、合わせて300㎏にもなる愛車と俺とが弾け飛んだ。まるでスピードがのった大型トラックに薙ぎ払われたようだ。
爆弾でも破裂したようなでかい音がして、地面と空が交互に見えたような気がしたが、崖側のガードレールに背中から激突した次の瞬間、凶器となった愛車の腹が視界を塞ぐ。長年可愛がってきた相棒が、牙をむいて襲い掛かってくる。
ガードレールを破壊し、ついでにその手前にあった俺の身体を紙のように引き裂いた相棒は、それでも止まらずに崖の下へと消えていった。
支柱のボルトにわずかに引っかかったライダースーツが谷底への落下を防いでくれたものの、今の俺を例えるなら、数年前に干したまま取り込み忘れたボロ雑巾といった感じだろうか。
「なんだ⁉一体何が…」
言いかけはしたものの、潰れた胸と抉れた腹がそれを許さず、言葉の代わりにゴボゴボと音をたて、血泡が口と鼻から同時に出てきた。右腕の肩から先はペシャンコになっている。
かろうじて唯一無傷の左手でフルフェイスのヘルメットを外すが、これ以上は指一本動かせそうにない。
「あぁ、これはヤバい。いまだかつてないほどヤバい」
何せ、痛みを感じない。血と共に吐いた息が、それきり吸い込めない。こりゃアウトだ。全身の力が、生きる力が抜けていく。
「あら、この人…」
あの女だ。人が厳かに生の余韻に浸っているときに、素っ頓狂な声をあげて近付いて来やがる。
「この疫病神め」と思って目だけをやると、月の光の中で白く輝く女の姿があった。髪も肌も抜けるように白く、着ているだんだら服もレースのカーテンを引きちぎって着て来たようだ。「美人だし、見た目は女神だな」などと考えはしたが、その輪郭も徐々に霞がかかったように崩れていく。自分の存在そのものが、純白という虚無に吸い込まれていくようだ。
遠ざかる現実感の中、突如その微笑みが狂気を孕んだ。
おもむろに自分の左手首を口元に持っていくと、音をたててその肉を齧り取った。噴き出す鮮血。女は微笑んだままだ。口元の血糊が狂気を倍増させる。
血を噴く左手を俺の顔の上に掲げた女は、溢れ出す血を口に流し入れながら言った。「お飲みなさい。そして…」
「ヲィ‼ アギィヤッデンガ‼」
女の狂人ぶりにも驚かされたが、地の底から響くような野太い濁声に気を削がれ、声の主を目で探す。俺と女以外にも誰か居る?顔か口辺りに障害でもあるようだが、「なにやってんだ」と言ったか?
見える範囲に人影は無い。しかし、今まで気付かなかったが、女の足元に黒く大きな塊が蹲っているのが見えた。白く輝く女とは正反対に、闇のように漆黒の、熊?か何かの動物のようだ。まさか、しゃべったのはこいつか?
女は構わず、俺の顔やら破けた腹やらに溢れ出す血をかけまくっていた。
狂った女としゃべる熊?これはもう、本格的にヤバい。俺の肉体的状況とは違った意味でヤバい。が、もうどうでもいいか…何せ今の俺には、その非常識なヤバさを楽しむだけの心の余裕が…無…
気が遠くなる。女の血が甘い。視界がブラックアウトする。
完全に意識が途切れる刹那、嬉しそうな女の声だけが、嫌にはっきりと聞こえた。
「だって仕方ないじゃない? 今日は満月なんですもの!」