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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

軋轢

作者: 空見タイガ

 何かを轢いたと思ったら猫を轢いていた。

 でも猫はすでに車に轢かれて死んだあとだった。

 でも猫はすでに車に轢かれて死んだあとだった。

 でも猫はすでに車に轢かれて死んだあとだった。

 それに車の多い道だった。それに夏だったらすぐに腐敗してしまうけど今は冬だからきれいにかたちが残っていただけで三日前に轢かれていてもおかしくなかった。それにタイヤのあとは太かった。それに猫はすでに車に轢かれて死んだあとだった。

 おれは自転車のタイヤを見た。

 どうしておれは自転車のタイヤを見たんだ?

 自転車を押して長い坂を下った。車の多い道だったらだれかが見つけてすぐに撤去したのではないか。

 でも猫は撤去するものだろうか。

 では猫は取り去るものだろうか。

 では猫は取り除くものだろうか。

 放置されていたとしたら次々と襲いくる後続車にずっとずっと引きずられて坂の下まで転げ落ちていったんじゃないか。

 おれは自転車のタイヤを見た。

 どうしておれは自転車のタイヤを見たんだ?

 休日だったから駅前の駐輪場はすべて埋まっていた。地下の駐輪場には警備員あるいは係員がいた。おれは自転車を押したまま歩いたまま立ったまま自転車を一時的に預けられる場所を探していた。前に進む。地面に押しつけたタイヤが回転する。おれは後ろを振り返る。道には煙草の吸い殻が散らばって捨てられているけど今は冬だからきれいにかたちが残っていただけで三日前に捨てられていてもおかしくなかったが、吸い殻にはタイヤのあとがついていなかった。

 駅から五分ほど離れた駐輪場に自転車を預けた。近くの自動販売機でいちばん安い水を購入して飲んだ。ゲェ。鉄の味がした。ミネラルウォーターにもまずいミネラルウォーターがあるんだ。袖で口を拭いていると視界に赤いものが入った。

 おれは袖を見た。

 袖はもこもこしていた。

 もこもこに赤いものがついていた。

 おれはにおいを嗅いだ。

 もこもこの素材のにおいがした。

 おれはもこもこで口を拭いてみた。

 もこもこに赤いものがさらについていた。

 唇に触れた指をとっくりと眺め、おれはもこもこにわざとしわをつくって血のあとを隠した。上唇と下唇を必死になかに折りこみ、自動販売機の横で自動販売機のように立っていた。行きかう人々が自動販売機とおれに一瞥をくれた。おれは両手を後ろに隠した。

 本当に血のあとだったのか。

 本当におれの血のあとだったのか。

 本当についさっきついた血のあとだったのか。

「あれえ、きみのロバはどうした。現代のロバは」

 ゲェ、坂尾だ。顔を覗きこみやがって、いったいどんな教育を受けていればうつむいているやつの顔を覗きこむ人間になるんだ。おれは首を横にできるかぎり長くふった。坂尾も合わせて首を横にできるかぎり長くふった。同じ長さにもかかわらず、ふたりの調子はまるで合わなかった。

 おれはやつの胸のあたりをパーで押しのけた。坂尾はよろけたが、むだに楽しそうにはしゃいでいた。

「なに、なんで喋んないの。ん、お口がなくなってるよ、かわいいかわいいお口がねえ」

「んふんふ」

「ああ、なるほどねえ、なるほど、そういうこと、どういうこと?」

 くじけるものか、おれは背中の後ろでつかんでいるペットボトルをぎゅっと握ってついでにふった。その音に反応した坂尾がおれの背中まで覗きこもうとした。これが現代の馬鹿だ、ひみつを暴くことが親密さの条件だと思っている、坂尾はとんだゴミ野郎だ。

「よしわかった、つまり立樹くんはメタファーを履修し始めたんだねえ、そして物言わぬ自動販売機のまねっこをすることで資本主義への反感を訴えている。これがあの学生運動ってやつか。いやはや、春休みの長いこと」

 つまらない坂尾がつまらないことを言っている。目をそらすとリュックサックにぶら下がる猫と目があった。猫は銀色の点々あるいは丸々の連なりに頭からつながれており、駆け出しと丸まりの中間のポーズをとっていた。猫は光を吸収する色をしていた。猫はマット肌だった。猫の尻尾はからだにぴったりとくっついていた。猫の裏には何もなかった。猫の側面にも何もなかった。猫は平べったかった。猫にタイヤのあとはなかった。猫のタイヤのあとは太かった。

「奥さんったらめざといわねえ、ガチャガチャしたやつだよ、逆にガチャガチャせずにこんな小物が手に入る経緯が思い浮かばないけど。そうだ、今からぶちっとちぎってきみにあげようか。そうしたらガチャガチャする以外の経緯がうまれて因果律もまろやかになるよ」

「いらねえよ」

 自然と返事をしてしまった、坂尾はにまにまとしておれの顔をふたたびなめ回すように見た。

「なぁんか血が固まってんよ、乾燥ですか」

「冬だから」

 冬は寒いから寒いと雪が降るから路面が凍結するから滑りやすいから視界も暗くなるから雨降って地固まるからだからだけど寒いだけで雪も雨も降らず血が固まってからから。

 本当についさっきついた血のあとだったのか。

「冬の風物詩だもんねえ、唇かさかさお化けは。じゃ、その背中のものはなんでしょな」

 震える手をペットボトルといっしょに背中の陰から取り出した。坂尾はおれの右手袋の先っぽの繊維を親指と人差し指でつまんで引っ張った。手袋の繊維はうんと伸びた。

「ぼくはねえ、きみがうらやましいよ。ぼくはこう見えてもこう見てわかるとおりに手袋がないんだ。ほら見てごらん、手の甲が角張っている」

 差し出された坂尾の手は白かったが、ところどころ赤かったが、血のようには赤くなかったが、血がつねに赤いとも限らなかった、同じトマトを見たときに同じ赤さを感じない赤さ、浅はかさ、乾燥とは正反対の赤だった、赤だったか、赤かも、赤かもしれない運転、坂尾の上着の色は赤だった。

 本当についさっきついた血のあとだったのか。

 おれはペットボトルをもこもこのポケットにねじこみ、つかんだ坂尾の手の甲に唇を押しつけた。かもしれない事実を確定させる緩慢さで唇を退ける。

 そこに赤いものはついていなかった。

 つかんでいた坂尾の手を勢いよくぶん投げる。思いきり力をこめて投げたはずの手はふらついた軌道でやつの胸にそっと着地した。

「っておおおい、なんだねそれは」

「冬はすさぶから」

 坂尾はじっとおれを見た。坂尾はおれが犯罪者かもしれない運転をした。絶対にしていた。猫のことも知っていた。きっと見ていた。おれをゆすろうとしていた。そのために赤い上着を着ていた。そのためにリュックサックに猫のストラップをつけていた。そのためにおれに声をかけてきた。坂尾はめざとかった。坂尾は人の不幸につけこむことを職業としていた。坂尾は金銭を要求しようとしていた。

 隠し事をするように、坂尾は両手を隠した。

「冬はすさぶから、ぼくと遊ぶってこと?」

 唇をなめると己の乾きが身にしみた。坂尾のリュックサックは黄色だった。赤い上着を着て黄色のリュックサックを背負っているやつに人の気持ちはわからない。おれはうなずくしかない。

「いったいどこに行くのやら」

「書店に行こうとしていたんだ」

 おれは歩き出した。書店は数あれど、あれほど数のある書店は数少ない。坂尾はくるくるとおれの周りで跳びはねてから車道側に落ち着いた。ふたりで駅に向かって進む。

「もっと近くでロバをとめられる場所があっただろうに」

「空いてなかった」

「全滅したんだ」

 あの猫の世帯はきっと全滅した。

「きっと全滅した」

「生協や近場の本屋では買えないものなのかなあ」

「ぶらぶらするだけ」

「はえええ、ぶらぶらするためにロバをチャリチャリしたんだ」

 おれは目の前のアスファルトの凹凸やすれ違う人人の足足の変容を凝視して時間が過ぎ去るのを待ちながら歩きながら話しながら生きていた。

 猫は死んでいた。

「なあ、猫は好きか」

「ぶら下げてもいいぐらい好きよ、もしもこれが鳥だったらガチャガチャしなかったかもねえ。まず鳥って犬や猫より種類が多いから当たりの鳥と外れの鳥があるだろうし、ないだろうし」

「おれは猫なんだ」

 ちょっとだけ坂尾がつんのめりそうになった。こちらに向かって歩いていたおじさんが迷惑そうに坂尾を避けた。だれが見ても坂尾は迷惑な存在なんだ。おれはもういちど言った。

「おれは猫なんだ」

「へ、へえ。ぼくは立樹くんが猫だってことに今まで気づかなかったなあ、猫ってじつは人間のかたちをして人間社会に溶けこんでいるんだねえ」

 猫は死んでいた。おれも死んでいた。おれは生きていた。でも死んでいた。つまさきが沈み、かかとも沈んだ。このまま頭の先っぽまで沈まないことが奇跡に思えた。あまりにも内核まで遠いこと。溶けていかないこと。歩くたびにダメージを受けないこと。坂尾の小言。

「きみを人間の言葉が通じる猫の代表だと思って言うけどね、猫はあまりにも不条理に歩きすぎているよ。公園で猫がぽーんと飛び出してきて池に入水した! と思って急いで駆けつけたら猫は池のそばにある草むらでねこねこしていたんだよ。猫め、ぼくの寿命をよくも縮めてくれた。すべての猫は愛されて人に飼われるべきなんだ、野良のままほっつき歩いているとだね、やがて不運な事故が起きるものだし、それに発情期を迎えた猫が、まあ、発情期は関係ないか」

 坂尾にも猫の発情期を熱心に語らないだけの羞恥心があったのかと驚き、ちらりと盗み見れば赤面していた。おれは気分が悪くなった。吐き気がした。ぞっとした。改めて内核までの遠さに着眼することにした。

 舗装された道路の上にいる猫は分解されるだろうか。

 分解されてきちんと内核まで届くだろうか。

「赤信号だよ」

 気づいたときには、おれのつまさきは半歩だけ歩道を飛び出していた。

 気づいたときには、猫は飛び出していた。

 信号にまで当て擦られていた。

 でも擦ったようなあとはなかった。

 でもタイヤのあとは太かった。

 でも猫は死んでいた。

「あれれ、顔色わるくない? 毒フードでも食べちゃった?」

「わんわんお」

「女の子が立樹くんのことかっこいいって騒いでたけどね、わんわんおでいいのかなあ」

 もともと存在のうるさい坂尾のうるささが最高潮に達し、おれは本当に毒を食らった気になっていた。ぺっと空気を吐き出した。

「女子のことは関係ないだろ」

「や、女子のことは関係なくなくない?」

「いつおれが女子の話をしたんだよ。おれは猫だって言っただろ」

「うんうん。猫だって聞いたけどねえ」

「次にうぜえことを言ったらかみついてやるからな」

「もうすでにかみついてんじゃんかね」

 視界の端で信号がチカチカと点滅していた。おれは坂尾の首もとにかみついた。

「がおお、タイヤ痕だぞお」

 信号が青になった。おれたちは流れに従って安全から安全まで横断した。あと少しで首をかみ砕かれそうになった坂尾は恐怖からかうつむいて何も言わなくなっていた。

 猫も何も言わなくなっていた。

 生前の猫はにゃあにゃあと鳴き、発情期ならもっと鳴き、こびるように鳴き、鳴きに鳴き、鳴いていたはずだが、猫は何も言わなくなっていた。

 言うことがなくなったからだろうか。

 タイヤのあとがべったりとついた瞬間に言うことがなくなったのだろうか。

 言うことが残っていたのにタイヤのあとがべったりとついたのだろうか。

 タイヤがローラー式に猫の命を巻き取ってただちにおもむろにすぐさまゆっくりと柔らかい腹のなかの内蔵を押しつぶした瞬間に猫は言いたいことを言えなくなったのだろうか。

 にゃあすら言えなかったのだろうか。

「にゃあ……」

 切なそうな鳴き声が不意にもれた。猫がおれの頭を乗っ取って喉を震わせたのだった。アスファルトと人の足を見分ける目がぬれていくのを感じた。これが猫の最期の思念だったのだろうか。

 でも猫はすでに車に轢かれて死んだあとだった。

 おれが通り過ぎたときにはもう死んだあとだった。

 だから猫の思念もすでに違うだれかに取り憑いたあとだった。

 ひじを引っ張られて顔を上げると赤信号だった。駅前までの信号も残りわずかになってきた。ひじをずっとつかんでいる坂尾をひじ打ちで追いはらう。やつは窺うようにおれを見ている。

「あのねえ、ぼくは立樹くんの友だちだからさあ、べつに悩みとは言わないまでも思い悩んでいることがあったら言ってくれたっていいのよ。バカにしたりなんてしないからさ」

 友達? そんなに友達ならいっしょに猫を轢いてくれよ、簡単にわかったふりをしやがって、気安いことしか取り柄のないクソ野郎が、人のクロスバイクをロバと略して呼んでいるやつが人を馬鹿にしないなんてうそぶくな、このペテン師が、ロードバイクこそロバだろ、おまえが猫を轢けばよかったんだ、人の気持ちもわからないおまえが。

 かっと湧き出た憎しみをぐっとこらえて、言葉として吐き出すころには諦念がにじんできた。

「そうか、友達か」

 この信号は長かった。距離は短いはずなのに長かった。横に伸びた猫のように長かった。

 だが坂尾の返答は早かった。焦りと動揺と汗のようなものが同時ににじんだ、不安定な面持ちだった。

「あ、と、友だち、友だちだけどね、友だちってのは広義で大海原だからさあ。だから、そんな、言う前から何もかも諦めなくたっていいじゃんかね。ツキは意外と思いがけないタイミングで回ってくるし、そのそのその、チャンスなんてないなと思っていたら、じつはチャンスのかたまりだったってことはあるし」

「おれは猫なんだ」

「大丈夫だよ、立樹くんが猫でもぼくは気にしないよ。猫なんてさあ、簡単には見えないだけでじつは身近なところにたくさんいるんだよ。探そうと思えばいくらでもねえ」

「たくさんいるから、なんだ」

 猫はたくさんいる。探そうと思えばたくさんいる。にゃあにゃあいる。いる。いるが。

 猫がたくさんいても、横に伸びた一匹の猫がいなくなっていい理由にはならなかった。

「たくさんいるから、なんなんだよ。一匹はかわいそうじゃねえのかよ」

 存在そのものがふざている坂尾が「あああああ」と意味のない発声をしているあいだに信号が青に変わった。おれたちはふたたび駅に向かって歩き出した。

 でも坂尾の歩みはじわじわと遅くなりつつあった。駅に到着することをためらうように。おれはそのとぼとぼに半歩だけ合わせた。とぼとぼしたい精神状態だった。

「そうだねえ、たしかに一匹ぼっちはかわいそうだ。人がたくさんいるのに猫もたくさんいるのに、きみだけが一匹しかいない猫だと思っている」

「おまえにはわからないよ……」

 はっきりとした黒のアスファルトにはっきりとした白いラインが等間隔に引いてあって、信号は青で、横断がここまで許されることもそうなかった。だが許しを目前にして腕を引っ張られ、おれは不自然な体勢で振り向き、坂尾の唇にぶつかり、突き放し、ぶん殴った。

「きもちわりい」

 殴られた衝撃から坂尾はほとんど斜めになっていた。その斜めになった半身からさらにねじられた首はおれから目を背けるように項垂れていた。やつが地面に向けて落とした声は行きかう人々に踏みにじられて消えた。そうでなくてもおれが上書きした。

「おれが苦しんでいるとき、おまえは親切なダチのふりをしてつけこむ隙をねらっていた。信じられねえよ、ただの性犯罪者だ」

 斜めになってねじれた姿勢から背中が見える、リュックサックにぶら下がる猫のストラップが見える、その影が落ちた上着の赤が見える、坂尾の殴られた頬の赤が見える、坂尾を殴って赤くなったこぶしが見える。

 どうしておれは自分のこぶしを見たんだ?

「おまえが死ねばよかったんだ」

 おれは坂尾の肩を押して、倒して、そのまま目的地と反対方向に走った。先ほどまでおれの足を止めていた過去の信号のすべてが青のまま通り過ぎていく。自分で止める以外にはだれにも止められず坂を下るように風を切って先を見ることも自分を止めることも忘れて走って走って走っていくけど次第にその勢いを失っていく。

 駐輪場に戻る。番号を確認し、精算をし、金を払わずに済み、自転車の鍵を開け、自転車を引き出し、駐輪場を出て、おれは自転車のタイヤを見た。

 どうしておれは自転車のタイヤを見たんだ。

 目的地にもたどり着けないなら、何のためにおれは自転車のタイヤを見たんだ。

 駐輪料金もいらない、一時的な感情のためにおれは自転車のタイヤを見たんだ。

 おれは自転車のタイヤを見た。おれは自転車のタイヤを見た。おれは自転車のタイヤを見た。

 自転車のタイヤはきれいで傷もなくいつもどおりだった。

 でも、確かに轢いた感覚があった。

 踏み越えた感触、その浮遊感、言いたいことを言って逃げるすがすがしさを享受しながら、自分が致命傷を与えたことだけは絶対に認めたくない、おれはおれがきらいできらいできらいだ。

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