11 皇帝陛下
時は戻る。
審判の森ほぼ中央に有る聖域を出立したルイナル皇女とクローナは、神獣で有るウマウマの力で審判の森の出口付近にまで来ていた。
神獣で有るウマウマは伝令神の作りし精霊に近い存在で、白い鎧を着けた戦馬の姿をしているが移動力に特化している。自重という概念も無く、空中での移動手段が無いので飛びはしないが、道というモノは必要としない。
ウマウマにとっては灌木の葉の上や樹木の細枝でさえ、蹴る事が出来れば移動が可能な場所と言う事になる。
さらに自重の概念が無い、と言うのは、背に乗せた人物や荷物にも及ぶ。つまりは、乗せる重量は関係無く、木の葉一枚を蹴って全速力で移動できると言うワケだ。
審判の森は宅配業者でさえ通れない密林だ。本来なら人の頭の高さはある灌木や草木をかき分けて進まなければならない。道があるように見えたら、それは獣道なので、そこは魔獣のテリトリーだ。戦いになる事を必ず想定しなければならないし、審判の森で獣道を残す魔獣はかなり上位だと覚悟を決める必要がある。そして草木をかき分ける音は魔獣を呼び込む。
審判の森は移動ですら魔獣との戦いが必須になる密林と言う事になる。
そこを、ほぼ音を立てずに、ほぼ直線距離で、ほぼ全速に近い速度で移動するのだから、乗っている者たちはかなり楽な移動と言う事になる。
目を回しているが。
「せ、世界が回っている」
「ルイナル様、それは目の方が勝手に動いているからです。暫くすれば落ち着きます」
ほぼ直線で移動してきたが、当然全くの直線というわけでも無く、木を避けるために細かい進路変更は行っている。そのため、身体に負担は感じないが、目まぐるしく景色が横にずれる。それが暫く続いたせいで三半規管がパニックになったようだ。
まぁ、実は上下逆転もかなりの頻度で行っていたので、それも原因の一つだが。
「あ、ああ、ウマウマ。ありがとう。おかげでかなりの距離を移動できました」
審判の森の出口付近に出来たちょっとした広場で、ウマウマが乗り手であるルイナル皇女に『褒めて、褒めて』と言う感じで様子を伺っていたので、撫でながら労う。
ウマウマは人の言葉を理解するが、その心は幼い。なので扱い次第で拗ねた性格になったりすると注意を受けていた。
だた性格が拗ねていても従魔として契約されているので命令には従順だ。だが、だからと言って素直な心を害したくは無いと思うルイナルたちだった。
充分に褒めた後は、軽くブラッシングを掛けてから従魔石へと収納する。
この場所は審判の森の中に偶然出来たギャップと呼ばれる森の隙間だ。成熟した森の中で大木などが倒れた時など、長く空間が空いたままになる時がある。そう言った場所は大木の下という環境から日の当たる場所、と言う環境の変化に対応出来ず、日の当たる場所の植物も長く繁殖していなかったので暫く小さな広場を形成したままになるのだ。
密林状態の森の場合、こう言った場所は身を隠せる物が無いので小動物が寄りつかない。なので自然と大きな獣もあまり頻繁には顔を覗かせない場所だったりもする。
そこにルイナルとクローナは立ち、クローナは持っている従魔石からトラトラを召喚する。
「トラトラ。わたしたちはここで一晩野営を行います。その間の守りと魔獣除けをお願いしますね」
「ニャウ」
野太いが、やはりネコ科だと思わせる鳴き声で答えるトラトラ。こう言った声はリラックスしている時か甘えている時にしか出さない。自由に暴れても良さそうだと判断したのかも知れない。
トラトラがいれば審判の森とは言え、まず魔獣は襲っては来ない。少し遠くを警戒しながら通り過ぎる魔獣を気まぐれに狩るつもりなのだろう。
警戒はトラトラに任せ、クローナはタープテントを出して、椅子やテーブルを設置する。椅子はリクライニング機構の付いた物で、足下の部分も引き出せば全身を横たえて眠る事も出来る。ただし、トラトラがいるとは言え審判の森なので熟睡する事はしないつもりだ。リクライニングも少し頭を持ち上げた状態で固定して、いざという時は直ぐに飛び起きられる姿勢にしておく予定だった。
「ルイナル様。お茶で少し落ち着きを取り戻しましょうか」
「ええ、お願い」
テーブルの上にテキパキとお茶セットを展開させる。煎れるのはジャスミンティーだ。ジャスミンティーは心を落ち着かせる効果を少し持つ。
お茶をして落ち着いたら、軽く食事をとって明日に備えるため早めに寝る。
「審判の森で熟睡など、本来は論外なのですが、明日以降を考えますとしっかりと寝ておいた方が良いと判断します」
「そうですね。警戒と問答無用の制圧が出来る今の状態は、さすがにここからは出来ませんからね」
クローナの判断に同意する。クローナの言うとおり、ここからはミドニール帝国という貴族の伏魔殿だ。そこをトラトラで問答無用に蹂躙できたらどんなに爽快か、と考えるが、それは叶わぬ夢として心にしまっておく。
そして武器はテーブルの上に出しておくが、格好はシャツにジーパンというラフな格好で、聖域で作っておいたハンバーガーを食べて夕食終了。
ちなみにトイレは、クローナがタープテントの裏にスコップで穴を掘って、野外での着替えなどにも使える一人用簡易テントを乗せてある。掘った土も直ぐ横に盛り上げてあるので、用を足したら匂いが漏れない程度に土をかぶせるのがルールだ。実はケーゴの所からちり紙を大量に仕入れてあるので、比較的快適な旅とも言える。
皇族や貴族などは、古着などの端切れを作って持ち歩いているが、それが無くなれば大きめの葉っぱを集めて使うのが、野外でのトイレ事情だったりする。
一般兵士についてはけっこう手間が掛かり、何時までも匂いをまき散らしている、とだけ言っておく。
十リットルの水タンクも十個ずつ収納してあり、用足しの度に手を入念に洗っても問題無いほどだ。もしも閉じ込められたとしても、二十日以上は余裕で過ごせる。
そんな状態の一夜が明け、いかに聖域が安全で快適であったかを再確認してから、二人は帝国に戻る準備を始めた。
まずルイナルは銀色に輝く全身甲冑を身につけ、長剣を腰に帯びる。今まではジャングルブーツを履いていたが、これからは鎧の具足になる。
もともと全身鎧の足の部分は薄い革で作られた靴を履いて、その周りに足の形をした鎧部品を被せる形で装着するように作られている。その内側に履く薄い革の靴が、現代で言う厚手の靴下ぐらいの物で、ジャングルブーツをそのまま使うのには難があった。
こう言った全身鎧は見た目重視で、性能はひとまず置いておく、と言う概念がよく見られる。
細身でスタイルの良い鎧だ、と思ったら、まず実用品では無い可能性がある程だ。
もっとも、鎧で実用品となったら、胸と手足の部分だけの部分鎧に落ち着くはずだ。ちなみにこの世界にもドレスアーマーの概念は無い。
ケーゴはメイド服で戦うクローナの為に、メイド服の上から胸から腹まで覆う鎧とガントレットを装着し、メイド服のスカートの下にジーパンを履いて、鎧の膝当てとジャングルブーツを付ける組み合わせを提示したが、却下された。クローナの戦闘スタイルでは重い金属鎧は単純な負荷にしかならないらしい。
結局クローナはメイド服の下に防刃シャツや防刃手袋、防刃ズボンを身につけるだけに留まった。
美しい銀の全身鎧が皇国のステータス、という無駄なお約束のために、ルイナルは、いや、ルイナル皇女は動きにくい全身甲冑を身につけるしか無かった。
これも帝国の城に入るまでと諦める。
テント類を片付け、トラトラを労って従魔石に収納し、ウマウマを召喚する。
ウマウマには乗らずに、一緒に歩いて進むと、ホンの五分程で審判の森から出た、と言う雰囲気になった。森の中では気付きにくかったが、やはり審判の森は独特のプレッシャーがあるようだ。
審判の森を出たと言っても、未だ疎らに木々は立ち並んでいる。審判の森が密林と表現するのなら、審判の森の直ぐ外は普通の森という感じだ。審判の森を離れるに従って、木々の数が減っていく感じになる。
改めてウマウマに騎乗し、ゆっくり、ゆっくりと言い聞かせながら進む。
普通の森とはいえ、整地されてもいない土地だ。曲がりくねった太い木の根が不規則に飛び出ている。普通の馬だったら入って直ぐに足を痛めてしまう不整地だ。そこを平然と、見た目には平らな道を何気なく真っ直ぐに移動しているように歩く姿は明らかに異常だ。なので誰にも見られないようにとコソコソと移動した。
見られても良い場所まで自力で歩くと言う考えは、心の奥の方にしまった。ウマウマに乗っていた方が楽だし。
そして開けた場所に出る。
先ずは空き地ばかりだが、疎らに畑も見えている。人の領域に入った事が実感として判り、妙な安心感を感じる。しかし、人の生活圏の一番端ではあるので、魔獣や獣が当然のように出没する範囲だ。まだまだ警戒を解くワケにもいかない。
しかし獣道では無く、人が通って出来た細道が出来ている。いわゆる林道だ。そう言った場所ならば馬で移動もおかしな話では無いと、ようやく気を緩める事が出来た。
魔獣よりも人に見られる事を気にしなければならない、と言う状態だった事に少しおかしさを感じて微笑む。
「どうなされました?」
ルイナルの後ろに乗っているクローナが、そのわずかな声に反応した。
「いえ。わたしたちは、もう普通の人を警戒しなければならない存在になったのだと、改めて思い知らされました。ウマウマにしても、トラトラにしても、普通はあり得ないのですから」
「思えば、あの場所で平然と全てを受け入れている店長は、とんでもない存在と言えますね」
「何も知らない子供ならば、そう言った物を受け入れるのに抵抗は無いのかも知れませんが、あの店長が何も知らない、と言うのもあり得ないですからね」
そんなとりとめも無い会話を交わしながら、森では無い場所の風を感じながら進んだ。
「ルイナル様。そろそろ言葉遣いを、やや乱暴な男言葉にしてください。来る時は無駄にイライラしていたので、かなり乱暴になっていたと言う記憶があります」
「ええ。あ、いや。判った。今思えば、なんでこんな言葉遣いをしてたんだろうな」
「全ての判断を、悪い方へと傾けるという患いの鎧という呪いですか。本当に恐ろしいモノですね。あの時は新参者の騎士たちに舐められないようにと言う判断だったと思うのですが、少しはっきりしません」
「ええ、じゃない。あ、ああ。いつもなら勝手に舐めていろ、と言って放っておくはずなのだがなぁ」
暫く進むと、畑仕事をしている地域独特の匂いもしてくる。
この世界は肥やしとしての肥は使っていないが、力仕事をさせる牛や馬の糞の扱いは放置が基本だ。人間が出した物は川に流すのが通例にもなっている。なので人の多い地域の川沿いはかなりの匂いが立ちこめていたりする。そう言った場所は魚も少ないが、下流の海に流れ出る地域では太った魚が多いと言う傾向もある。
まぁかなりの寄生虫にたかられている様だが。
「聖域は匂いが無かったな」
「はい。森独特の匂いは偶に流れて来ましたが、それもほんの少しでした」
「毎日風呂に入り、糞尿の匂いも無い生活か。普通ならあの世の生活と考えるよな」
「しがらみも無く、ただ目の前の事柄に集中すれば良い生活。本当にあの世のようですね」
実は二人とも、既に貴族とのやり取りを想像しただけで疲れ果てていた。ケーゴにケジメを付けて来いと言われなければ、聖域から出ない生活に没頭したかったのが本音だ。
そんな、ほとんど愚痴になっている話をしながらでもウマウマは軽快に進んだ。
そして村人発見。近づくとまぶしそうに見上げて、それから膝をついて挨拶してきた。
「騎士様、御機嫌ようです」
おそらく、ルイナル皇女たちが審判の森に入る時に礼儀に関して学んだのだろう。単に知識として学んだのか、それとも多くの兵士たちとの間で嫌な思いをして覚えさせられたのか、少し不安になるルイナルだった。
農民に対する挨拶や受け答えは、基本的に従者が行う。主が行っても良いのだが、身分を気にする者は一般人を見下す傾向がある。
人は個人の能力、と割り切った考えが出来る二人には関係の無い話だが、ここはルイナルの後ろに座っているクローナが答える。
「御機嫌よう。この方は皇国の第二皇女ルイナル様であらせられます。本日は審判の森の中央にまで行って戻って来た所です」
「も、森の中央!」
一般人どころか歴戦の勇士でさえ驚く内容に、村人は一声挙げてから絶句した。
「これより辺境伯の所領に向かうのですが、わたしたちと一緒に森に入った兵士たちについて、何か聞いている事はありませんか? 単なる噂でも構いませんが」
「へ、へぇ。えっと、辺境伯のせがれの騎士が、皇女殿下が魔獣に喰われたと、しきりに話していたって聞いた、いえ、聞きました。なんか、そうじゃ無いと困る、と言う雰囲気だったと皆で笑ってたんですが」
「なるほど。辺境伯のせがれというとエドゲード伯爵の三男のベッジとか言いましたね。エドゲード伯爵のところに一泊した際、強引に調査隊に入ってきたはずです」
自己確認と言うより、ルイナルに再確認させるために言葉にする。ルイナルの方は幸先の良い情報に少し気が楽になった。内容は酷いが、伯爵に対するアドバンテージには充分になる。なのでクローナに小声で「褒美を」と呟く。
「面白い情報でした。貴方が言ったとは公言しないので安心してください」
そこで村人は初めて、自分が貴族に無礼打ちされる事を言ったと理解した。慌てるが後の祭りだ。クローナが言った公言しないという言葉を信用するしか無い。
「これは褒美です。ですがあまり言いふらさない方が良いでしょうね」
クローナは前掛けの裏に仕込んだ収納の鞄から褒美用に準備しておいた皮の鞘付き小型ナイフを放って渡した。
村人が慌ててそれを受け止めた時には、ルイナルたちは既に走り去っていた。小さくなる背中は見えていたので、消えた、とは思えなかったが、何かに化かされたか? と言う思いは残った。
小さな村だったのでウマウマの走りで村を抜けるのに呼吸三回で充分だった。その後、荒野よりは道っぽいと言う程度のルートを進み、辺境伯の所領に入る。
辺境伯の所領の中で、辺境伯の屋敷があるのは審判の森に近い方だ。
初めは屋敷が審判の森との境界線という役目も持っていたが、年月を重ねるごとに開拓が進んで屋敷よりも森に近い方に村が出来た。開拓村と言うよりは単に人口が増えたための拡張として村や畑が出来たので、さほど屋敷からは離れてはいなかった。
直ぐ辺境伯の屋敷が見える。そこでウマウマを一旦止めさせ、クローナだけが降りてウマウマの手綱とハミの接合部分を握る。本来、ウマウマには馬具など必要無いのだが、人目がある所などでは仕方ないと諦めている。
普通の馬を装うための諸注意をウマウマに語り聞かせながら屋敷に向かい、門番のところに行く。
「こ、これはクローナ様」
始めに門番がクローナに気付いた。辺境ゆえ、有名人が来る事は稀なのだろう。門番はクローナの顔を覚えていた。ならば何故顔を出しているルイナル様の事に気付かないのだろうといぶかしむが、来る時と出る時は兜をかぶっていた事を思い出す。
顔を売るのも仕事の内なのに、あの時は何をやっていたのかと、改めて呪いの怖さを思い出す。
「ルイナル皇女殿下のご到着です。領主への取り次ぎを急ぎなさい」
「はっ!」
門番は二人だけだ。そのうちの一人が目配せで相方に合図してから屋敷に走った。
「クローナ様。先駆けはいかがしました?」
残った門番が当然の事を確認してくる。個人間の通信手段が無いこの世界では、高貴なる者は先駆けを用いて身分関係を予め伝えるのが常識だ。
「我らと共に森に入った者たちは魔獣に喰われました。魔獣に喰われていない共の者がいるはずは無いのですよ」
皮肉を込めてクローナが言う。その意味を知っている門番は顔を青くした。つまり、ルイナル殿下と一緒に行ったのに生きていると言う事は、皇族に対する裏切り行為なのだと。
そこに、まだ少し距離はあるが、屋敷から四人が小走りに駆けてくるのが見えた。そこで残っていた門番はクローナに一礼して下がり、その足で屋敷に向かって走り出した。
クローナの皮肉の意味を辺境伯に伝えるためだろう。
入れ替わりに到着した執事長の顔には見覚えがあった。
「レッズ執事長でしたね。前回同様よろしくお願いします」
「ようこそおいでくださいました。あ、いえ、よくぞご無事で」
それから執事長の案内で屋敷の前で待っているエドゲード伯爵の前へと進む。この時点でもルイナルは騎乗したままだ。
ルイナルとクローナは、この時点での暗殺を憂慮していた。
審判の森から出てきて直ぐであれば、目撃者もほぼいないのと同じだ。多少村人が騒ぐ事があっても、自分の領地内で有ればいくらでも封殺する事が出来る。
つまりこの辺境伯の領地を出て、次の領地に行くまでが辺境伯の暗殺に注意しなければならない範囲だ。
辺境伯の前に到着した所でルイナル皇女がウマウマから降りる。同時にクローナはウマウマを伴い、ルイナル皇女の真後ろに付ける。
ルイナル皇女とエドゲード伯爵が向かい合う。
互いに、この目の前の相手が、十数日前に会った本人だと確信した。
「ご無事でのご帰還。心よりお喜びを申し上げます」
「喜んではいられない。このたびの調査。多くの騎士たちや兵卒たちが魔獣に喰われた。生きていれば私と共に歩んだ者たちだった。この場にいない、喰われた戦友たちに冥福を祈る」
当然、お前の所の三男坊も死んでるはずだよなぁ。と言う皮肉がエドゲード伯爵に突き刺さる。
つまり、三男坊が生きている情報を掴んでいるぞ、と言う脅しでも有る。
「おお。この地を訪れたあの若者たちが戦神の元へと旅立たれた事、まこと残念に思います。それ故、殿下には生きて陛下にお知らせする義務も有りましょう。どうか、まずはゆっくりお休み頂く事が肝心でしょう。どうぞ中へお入りください」
ルイナルの皮肉を受け流すぐらいは出来る様だ。とクローナは評価を上げる。それは『何をするか判らない人物』と言う評価が上がっただけだが。
往路の時にも通された応接間で革張りされているが固い椅子を勧められる。以前は気にも留めなかったが、皇国の城の椅子でさえ固く、座り心地を考慮していなかったと感じられるようになってしまったと考えるルイナルだった。甲冑を装着している現在、座り心地は最悪と言って良い程だ。これならば立っていた方がまだ楽だったのにと考える。
「まずはワインなどを一献。喉を潤してください」
そうエドゲードが言うと、控えていたメイドがワゴンを押してくる。
出されたのは金属のカップと素焼きのピッチャー。いわゆる取っ手の付いた水差しだ。それにワインが入っているのだろう。だが問題は金属のカップの方だ。
「聞きたいのだが、このカップはどのようないわれが?」
「はて、装飾が見事なので手に入れた一品なのですが、いわれと言われる程の事は…」
「そうか。実は良くない噂を聞いてな。とある金属のカップにワインを入れると、少し甘みが増して旨くなると言うモノだった」
「良くない、噂ですか?」
「うむ。金属なのに柔らかく、軽く叩いてやるだけでも簡単に変形する物だそうだ。それはワインなどに溶けやすくて、そのカップに入れておくとワインに金属が染み出るらしい」
「金属が染み込んだワインですか…」
「ワインを売る業者も、甘くなって口当たりが良くなって高く売れる、と言う事でワザと金属の容器に保管したりするらしい」
「の、飲むとどうなるのでしょう?」
「直ぐにはどうと言う事も無いらしい。だが蓄積すれば簡単には抜けないそうだ。そして身体の色々な所が痛み出し、最終的には何かの病のようだと判断されて、苦しみながら死ぬ事になるらしいな」
「う、噂、なのでしょう?」
「わたしは用意した水があるので遠慮させて貰う。伯爵は自由にして結構」
「そ、そうですか」
好きに飲んで良いと言われたが、伯爵は結局ワインに手を付けなかった。
「それと、伯爵に聞きたい事が有るのだが」
「はっ、いかような事でしょうか?」
ワインの事で、既に伯爵は皇女殿下に飲まれていた。そこにトドメの一言を言う。
「今度の調査では伯爵の三男も参加していた。この同じ場所に乗り込んできて『この私めも参加いたしましょうぞ』と胸を張って宣言していたな。このわたしと共にいないと言う事は、魔獣に喰われたと言う事になるが、皇帝陛下にはわたしの方からその旨を報告しようと思う。あの時は断ったのだが、伯爵もまた遠征費用の面で融通すると言ってきたので仕方なく許可したが、このような結果になった事はとても残念だ」
「あ、あ、いえ、その事に関しては」
ここで伯爵は迷う。死んだ事にしてとぼけるか。それとも生きていたとして、どうにか体裁を繕うか、を。
いや。既に皇女は生きている事を知っている。ならばとぼけるのは悪手だ。ではどうする? 計画的に逃げてきたなどはもっての外。怪我をしたので下がった、と言うのは一番だが直ぐに嘘がばれる。ならば森の魔獣に怯えて逃げ帰ったか? 他の領地の貴族なら判るが、ここは辺境伯の地だ。三男とは言え、ここの領主の息子がそれを知らないとなれば、領主としての沽券にも関わる。
そして下した結論は、三男の切り捨てだった。
この場、今夜、そして次の領地へと向かう途中。その間に皇女殿下を亡き者にしてしまう計画と、三男を臆病者として家から追放してしまう発表をするのとでは、断然、三男の追放の方が確実だ。
そもそも、皇女殿下の調査隊に参加するのも三男からの突然の要望だったのだ。
「お恥ずかしい事ですが、ベッジは恐ろしくなって逃げ帰ったのです。皇女殿下がこうしてご帰還いたした事で、それが証明されました。大言壮語しておいて、逃げ帰り、あまつさえ皇女殿下が魔獣に喰われたなどと吹聴する始末。此度の事、私めの責任において決着を付けたいと考えます。その後の判断は皇女殿下並びに皇帝陛下の言に従います」
椅子から立ち、ルイナル皇女の前で片膝をついて詫びを入れるエドゲード伯爵。
逃げ帰った三男は自分が首を切って捨てるけど、その罪は自分が全てかぶります、と宣言したのと同じだ。こう言われれば、ルイナル皇女としても一度皇帝陛下に報告してからでなければ断罪は出来ない。
ちなみに、逃げ帰って皇女が死んだと吹聴していたのが伯爵の嫡男であった場合は伯爵も縛り上げて皇帝陛下の前に引き立てるのがミドニール皇国の流儀だ。このあたりは国ごとに違ったりするので定型は無い。
「判った。追って沙汰を示す」
「はっ」
と言うやり取りで、三男の問題は片付いた。実は隣の部屋で盗み聞きをしていた三男が逃亡を図るのだが、エドゲード伯爵が後に追っ手を差し向ける事になる。
伯爵は、初めは逃がすつもりだったが、盗み聞きして逃げ出すようだと、どこで誰に捕まるか判らないからだ。計画的な逃亡を思いつければ、生き長らえただろう。
「では今夜はここで世話になる」
「はっ。どうかごゆるりと」
「ゆっくりともしていられん。明日の朝には発つが、今のわたしには共がこのクローナしかおらぬ。なので伯爵に先駆けを二つ借りたいのだが」
「判りました。次の街であるシクコと、皇都の皇帝陛下の元への先駆けですね?」
「うむ。頼めるか? わたしも明日の朝に発ったら全力で駆ける事になるだろう。それに抜かれるような先駆けでは意味が無いのだが?」
「お任せください。一番の早駆けの者を向かわせましょう」
「うむ。よしなに頼む」
そして夕食までの間、部屋で寛いでくれと言われてルイナルたちは移動を始める。
その間、辺境伯は先駆けの準備に追われた。隣の領の街までは通常の行軍で四日。単騎だと丸一日はかかるはずだ。そのぐらいにしておかなければ馬が保たない。丸一日の計算も、朝から夜遅くまでだ。先駆けならば片道限定ではあるが走れる。だが皇女が乗馬で行くのなら途中で一泊になるはずだ。
皇女は明日の朝に発つと言っていたので、次の領地の街には明後日の昼過ぎぐらいに到着するはずだ。なので先駆けに全力で走らせれば明日の昼前には到着して、一日という時間が取れるはず。充分に面目躍如となる。
二人ずつ。四人の先駆け要員に指示を出して、休まず全力で走れと強く命令する。
もしもここで皇女殿下よりも先駆けが遅かった場合は、三男の事もあり、役立たず伯爵のあだ名を付けられてしまう。
そして夕食。
皇女は相変わらず全身鎧のままだった。皇都に着くまでは脱がないつもりなのだろう。エドゲード伯爵はそう推測した。
実は部屋ではTシャツにジーパン姿だったのは内緒だ。ケーゴが用意した甲冑は、全身鎧なのに五分もあれば装着できる。ベルトや留め金が簡単構造なのに頑丈というのが大きい利点だった。この国の鎧の構造では、ベルトを何重にも巻き付けたり。無理矢理サイズを詰めたりなどの作業が多く、装着するのにはかなり苦労する。大げさに言うと三人がかりで三十分は当たり前、と言う世界だ。
夕食は前回と同じメニューだった。これは良くある事で、そもそも料理のバリエーション自体が少ない。せいぜい季節によって出される果物類が異なるぐらいだ。しかもルイナルたちは聖域での料理の味を知ってしまった。それ故とても味気ないモノに感じるモノばかりだった。
試しに、と焼いた肉の塊に手を出して見るが、とても生臭く感じてしまった。
結局果物をいくつか啄んで、あまり食欲が無い、と言い訳して夕食は終わった。
あてがわれた部屋でアミナ達が作ってくれたハンバーガーをクローナと二人で食べたのは内緒だ。しかし、そろそろ弁当として持たされた食料も悪くなり始める頃だ。
レトルトのシチューやカンパンは持っているが、それだけでは飽きてくる可能性もあると、この世界のこの時代ではかなりの贅沢思考になっていた二人だった。
その夜は特に伯爵からのちょっかいも無く、穏やかに過ごせた。初めは暗殺を懸念していたが、それも杞憂かと思える程だ。
何度か世話係の小間使いが訪れたが、用事を短時間で済まさせて追い出した。その際、ご褒美の飴が入った瓶を渡したら素直に戻っていったので、無駄に纏わり付かせない効果もある事が証明されたりもした。
翌朝。
『なぜか』身体ボロボロになった厩舎の管理人に連れられたウマウマを引き取り、エドゲード伯爵に見送られて辺境伯の屋敷を出発した。
「ふふふ。あの厩舎の番人は何をしようとしたのでしょう?」
「おそらく、世話をしようとしたら逃げ出したとか言って、余所で高く売るつもりだったのでは無いでしょうか?」
「わたしは、伯爵の指示で体調不良を起こさせようと何かをしようとした、と踏んだのですが」
「ああ、それがありましたね。ですがあの伯爵、あまり部下の統制に成功しているとは思えません。なので部下が勝手に余計な事をするタイプの領主と見ていたのですが」
「そう言う見方もあるのですね。三男の事もありますので、あまり教育には熱心な方では無いのですね」
「熱心、と言いますか、子供の我が儘を許す事が寛容な親の姿、と思い込んでいる可能性もあります。それか、強く制する能力が無いか」
「そこは貴族全体に言える話ですね」
貴族制度そのものが親が子に利権を譲るための制度でしか無い。その制度の箔を付けるためだけに貴族社会という歪な贅沢社会が形成されて、見栄とありもしない尊厳を尊重する構造が出来ているに過ぎない。
それを思うと、貴族に生まれる事自体が一種の不幸かもと思う二人であった。
もっとも、農家に生まれても、長男が後を継ぐために教育されて、次男以降はある程度成長したら放り出される、と言う状況も似たようなモノだろう。
特に次男は長男のスペアとして教育され、長男が結婚するまでスペアとして自由にする事が出来ない。そして長男に嫡子が産まれたら放り出される事になるのだから、割に合わないと言うしか無いだろう。
それだけ、この世界は生きるハードルが高すぎる。
猪や狼の集団なら、簡単な柵と溝を掘るだけで対処が出来る。しかし魔獣は高く石垣を築いたとしても乗り越えて蹂躙する事が可能だ。
戦う力の無い人族など、魔獣にとっては餌が歩いている様にしか見えないだろう。
だからこそ、この世界は子煩悩に偏っていく。子供が生きている事こそが、自分が生きた証でもあるのだから。
まぁ、それ故、多くの子供を養える貴族こそが子供に厳しくあるべきなのだが、それが出来ないのが現状だ。
「ウマウマ。もうすぐ街を出ます。街を出たら次の領主の街まで好きに走って構いませんからね」
ルイナルにとってもクローナにとっても、もう貴族社会の行く末を考えるつもりは無くなっているようだった。
ウマウマも眠る必要が無いのに狭い厩舎に閉じ込められ、生のトローモ(ジャガイモ)やシン(タマネギ)を干し草の中に混ぜて食べさせようとされたり、鎧に見えるモノをナイフを使って無理矢理に剥がされそうになったりと、とても気分良く過ごせたとは言いがたい状況だった。
一応その世話人の足を踏みつけて、その上でステップを踏んだり、そいつの腹を後ろ足で蹴り飛ばしたりしたので、少しは溜飲が下がった。
その世話人は、ヒールタブレットを使わなければ十日程の命かも知れないが、その命を救うのは伯爵の判断だろう。客人、さらには皇族の馬に手を出した世話人の自業自得に、大金を払わなければ手に入らないヒールタブレットを使うとも思えないが。
そして街の範囲から脱したウマウマは軽快に走る。
神獣としてのウマウマは、地域情報を地図としてインストールされている。○○の街に行ってくれ、と言えば、迷わず最適なコースを選んでくれる。そのコース上にある状況も遠見の能力で事前に把握できるので、例え曲がり角で先が見えない場所であっても出会い頭にぶつかると言う事も無い。
聖域の守護獣としては微妙な能力だが、伝令神は自身が考えうる最高の能力をウマウマに与えていた。
そのため、朝方に朝食もそこそこに出立したのだが、昼前には到着していた。いや、昼前と言うには早すぎる時間だ。ケーゴの世界での時間感覚で言えば、七時に出立して十時には到着したと言う感じだ。通常の馬ならば、休憩や野営を含めて、早くとも一日半の行程なのだが。乗っているルイナルたちにとっても、目まぐるしく変わる景色に目を回していたが、特に疲れる事も無く終わっていた、と言う感覚だった。
そして辺境伯の寄子であるトレッジ子爵の治める領内の中央にある街のさらに中央に位置するトレッジ子爵の屋敷の前に到着した。
元はエドゲード辺境伯の領の一部ではあったが、辺境伯の領地が大きくなったのを機に分領された経緯を持つ。それ故領地としては小さいが、辺境伯の地と都を結ぶ生命線を担う要所としての地位を確立させていた。
「ここはトレッジ子爵様のお屋敷である。如何様なる者が何故にここを訪れしか、返答を請う」
トレッジ子爵の屋敷の門番がルイナルたちに問う。この屋敷の門は正面に一カ所しか無く、使用人や荷物の搬入、搬出も正門の隣にある門で行うため、一カ所で出入りの全てを管理している。そのため門番は四人一組で規律も良い印章を受ける。
前回は審判の森への往路であったため、先駆けその他も多くいたために門番の事は目に入らなかった。
「ルイナル皇女殿下のご到着です。子爵への取り次ぎを急ぎなさい」
エドゲード伯爵の屋敷の時と同様にクローナが答える。
「こ、皇女殿下でありますか? で、ですがそのような通達は受けておりませんが」
「昨日、エドゲード伯爵より先駆けを出すと申し出があり、皇女殿下はそれを了承しました。ですが未だ先駆けが到着していないのですか?」
「はっ。辺境伯からの先駆けは十日前に遡っても来ておりません。大変失礼ですが、皇女殿下のご尊顔を拝しても宜しいでしょうか?」
その言葉を聞き、クローナはルイナルの方に向き直り、深くお辞儀をした。それを受け、ルイナルは兜をとって髪を振った。
「失礼だが、貴君とは面識は無かったはずだが?」
ルイナルのその言葉に門番は頷いて、直ぐ後ろに隠れるように控えていた者を振り返って見た。その後ろにいた者はルイナルにも面識があった。
「む。貴君は、名は知らぬが騎士たちの案内をしていたな」
ルイナル皇女のその言葉に後ろの男が驚く。
「ルイナル皇女殿下におかれましては無事なご帰還、大変喜ばしい事であります」
その男のルイナル皇女殿下への言葉を聞き、門番の一人が屋敷の方へと走る。そして門番は一時的に一人で担当させ、二人でルイナルとクローナを案内する事になった。
そして慌てて出てきたトレッジ子爵と対面。ここでようやくルイナル皇女がウマウマから降りる。
「久しいな。皇都に戻るため一晩程世話になる」
「お、おお、これは確かにルイナル皇女殿下。審判の森にて全滅したとの報が入り、心配していた所であります。まずは無事なご帰還をお喜び申し上げます」
「三十名の騎士を失ってご無事でも無い。そのような嫌みを言わないでくれ」
「こ、これは失礼をいたしました。勇敢なる騎士たちの魂が戦神の元へとたどり着ける事を祈りましょう」
「うむ。すまない。全てはわたしの至らぬ判断の末だ。皇帝陛下にご報告の後は、再び審判の森に入り、審判の森と騎士たちの心を慰めるつもりだ」
「な、なんと、皇女殿下がそのような事をおっしゃられては、亡くなった騎士たちが逆に浮かばれぬのでは?」
「恥ずかしい事に、我が一族の後継者争いが元だからな。皇家の恥をそう聞いてくれるな」
「はっ、これは失礼をいたしました。先ずは何より、我らが再会を喜びましょう。ささっ、どうぞ中へお越しください」
そしてあてがわれた部屋で寛ぎ、話を聞きたいと請われて応接室へ。
出されたのはワインとそぼろのようなチーズ。つまりカッテージチーズ。この世界では塩を振ってワインのお供にしている。
ワインは赤銅色の金属製のチッピャーに入れられている。これ自体は銅製なのだろうが、途中で鉛が含まれている可能性があるためルイナル皇女は手を出さなかった。
前回の辺境伯の時は鉛の危険性を説いて、精神的に上位に立とうと画策したルイナルだったが、今回の子爵相手には必要無いかもと考えた。
単純に貴族としての勢力が二回り以上小さいと言う印象だったためだ。
そして前回の話を少し切り出そうかと言うタイミングで門番から子爵への知らせが来た。
「失礼します。エドゲード辺境伯の兵が先駆けとして到着しました」
「内容は?」
「はっ、ルイナル皇女殿下が本日の朝にエドゲード辺境伯の屋敷を出てこちらに向かうとの事で、受け入れの準備をせよ、との事です。さらに、別の兵が皇都への先駆けに走っていると言う事です」
「ふむ。さてさて、いかがいたしましょう?」
トレッジ子爵は門番の報告を受けて、役に立たなかった先駆けの処分をルイナル皇女に聞いた。そこで、ルイナル皇女は何も言わず、肩をすくめただけに留めた。
つまり子爵の好きにさせる、と言う事だ。
「その先駆けにはいつも通りの対応を。疲れを労ってあげてください。それと、皇女殿下は既に到着しており、ここで寛いでいらっしゃるとも伝えてください」
「はっ」
「トレッジ子爵。頼みたい事があるのだが」
「はい。フジード伯爵への先駆けですな。皇都への先駆けはいかがいたします?」
「エドゲード辺境伯には申し訳ないが、わたしが皇都へ赴くのに先駆けも無しとは格好が付かない。あくまでも念のためだが、子爵の一番の早馬を出して欲しい」
「かしこまりました。少々お待ちください」
トレッジ子爵が、ルイナルが次に滞在予定のフシード伯爵の屋敷への先駆けを手配しに出ていく。ここで先駆けを出すのに断りを入れると貴族としての役割を放棄したと言う醜聞が飛び交う。しかし、エドゲード辺境伯の先駆けのように後から出発した皇女の後に到着すると言う醜態もまた、貴族としての尊厳を失う。なので、本気で一番早い馬を必死に走らせるつもりなのだろう。
「きっと今頃は先駆けに走る者に叱咤激励しているのでしょうね」
ルイナルがそれを想像しながら言う。
「先駆けだけでは無く、道中に妨害者を手配する事も考えられます」
クローナは子爵を信用しきれていないようだ。
「どのような妨害者でもウマウマならば問題は無いでしょう」
「別の馬に乗り換えませんか、と言ってくる可能性もありますね」
「それがありますね。先に釘を刺しておきましょう」
そして子爵が戻ってきた後にルイナルが馬について釘を刺し、夕飯まで一旦部屋に戻る。
部屋では入れ替わり立ち替わり小間使いが世話を焼きに来る。これは子爵から充分にもてなせ、と言う指示の所為だろう。
もしも皇女が男だったら、女の二、三人は付いたであろう歓待だ。
そこまで念の入った世話焼きだが、「充分に世話になった」と言って小瓶に入った飴を渡せば、それ以降は来なくなる。
まぁ、屋敷で勤める女が飴目当てで世話に来てしまったが。
それでも一通り済ませば後は静かに過ごせた。
夕食前のその頃。トレッジ子爵から密命を受けたレジェモは馬を走らせていた。密命の内容はルイナル皇女がトレッジ子爵領からフジード伯爵領に入った頃合いでルイナル皇女を野盗が襲ったように見せかけて殺せ、と言う物だった。
ルイナル皇女の勇名は鳴り響いているので、殺害命令が完遂できなくともある程度以上の怪我を負わせれば良い、と言う補足が付いた。
少なくともトレッジ子爵が出した先駆けよりもルイナル皇女が早くフジード伯爵の屋敷に到着するのだけは防ぎたい、と言う事だった。
トレッジ子爵からエドゲード伯爵方面の、いわゆる審判の森に近い方面だと、野盗そのものが存在しない。トレッジ子爵領はその分岐点、と言っても良い場所だった。
さらに領と領の境目は兵士による警備が曖昧になる。
測量が成されていないので、おおよそここら辺が領の境目、という認識しかないので、下手に兵がその線に近づけば兵力の越境と疑われしまう。なので兵士は少なくなり、野盗が良く出没する領域でもあった。
そして偶に魔獣が出没。と言うおまけもある。
魔獣にとっては人族は美味しい餌だ。しかし兵士や冒険者が増えると逆に狩られてしまう。結果として人の多い場所には魔獣が少ないが、それ故に、偶に現れる魔獣に大きな被害を被る事がある。
それは狼や熊などの獣にも言える事だが、出会い頭ならともかく、獣は人から逃げる傾向が強い。しかし魔獣は兵士や冒険者であっても喰らおうと攻撃してくる。
そして上手く人族を喰らえれば、調子に乗った魔獣がさらに進出し、単独で徘徊する魔獣の被害が散発すると言う状況になる。
このような状況なので、領を跨ぐ地域は最速で駆け抜けるのが常識になっている。しかし、馬の足を引っかける罠があるかも知れないので、商人の馬車であっても斥候的な役割を負った者が先行して罠が無いかを確かめたりもしている。
そう言った場所にレジェモは足止めしてからの暗殺狙いで罠を構築し始める。
ルイナル皇女の馬は一頭。ルイナルとクローナの二人乗りで走ってくる。馬には馬用の鎧が着けられ、馬を狙った弓矢などは弾かれる可能性が高い。ルイナル皇女も全身鎧を着ているので正面方向からの弓矢で無ければならない。さらにこの道は商人が多く通るため、罠を張ったまま、と言うワケにも行かない。そして、なにより、自分一人で行わなくてはならない、と言うポイントが大きい。
皇女暗殺など、国を挙げての捜査が行われるのは必至だ。ここで子爵や辺境伯が口裏を合わせたとしても、どこでどんな繋がりがあるのか判らない。なので子爵も辺境伯も、絶対に皇女が存在して都に向かった、と証言するはずだ。ならば口が軽いか堅いかも判らない他人を雇う事など出来るはずも無い。
それらを吟味し、レジェモは貴重な遠見の魔道具を使って皇女を確認し、皇女が来る寸前で罠をしかける、と言う準備を頭の中で作り上げていった。
そして翌朝。ルイナル皇女と従者のクローナは引き留めようとする子爵に、皇帝陛下への報告が遅くなる、と言う伝家の宝刀を抜いて出立した。
トレッジ子爵の屋敷からフジード伯爵の屋敷までは、早馬を夜通し走らせて二日。ただしこれは馬を確実に潰す速度だ。通常は人間の早足程度の速度で移動する方が効率が良く、結果としてだが、二日半程度で到着する。
要所要所で乗り換え用の馬を用意して、全力で走らせながら乗り換える、と言う方法を採れれば四時間程度で移動できる距離ではあるが、一頭の馬を乗り続けて移動するのであれば二日が限度だ。
それでも人が全力で走り続けるよりは速く到着出来る。
領の境界で待ち伏せをするために馬を走らせたレジェモは、ルイナル皇女たちが出立したのと同じぐらいに中間地点である待ち伏せ場所に到着した。
レジェモにとっては、暗殺決行は明日の朝から三日後の間を想定。
馬を若草の多い場所に長めのロープで繋いで、自分用の水を一口飲んだだけで残り全部を与えて労った。そして馬車の轍が残る道を確かめ、どのような罠をどこに設置するかを考える。
馬の足を引っかけるロープは地面に埋めておいて、ルイナル皇女たちが通る直前に張れば問題は無い。問題はルイナル皇女の乗る馬の速度だ。人族が全力で走る程度の速度を想定し、倒れた馬から放り出される位置を定める。そこに矢の雨を降らせるつもりだ。鏃だけは持ってきたが、弓や矢の本体は現地調達する予定だ。レジェモはその作業を夜通し行うつもりだった。
そして、地面の様子を確かめた後に起き上がり、どのくらい遠くまで見通せるかを確認した時に、それを見た。
白い馬に乗って駆けてくるルイナル皇女の姿を。
驚くレジェモなどは見る必要も無い、と言う感じで、レジェモの横を白い影が一瞬で通り過ぎる。
ただそれだけだった。
判るのは、ルイナル皇女は通過した、と言う事だけだった。
暫く呆けていたが、正気を取り戻すとレジェモはその場に尻餅をついた。
まず、自分が特命を遂行出来なかった事が判った。そして、子爵のところで皇女が一泊しなかったのかと考える。しかし、自分の直ぐ横を通り過ぎた速度を見ていたため、皇女が自分がここに到着した頃に子爵の屋敷を出たんだろうと納得出来た。
レジェモは持ってきた荷物は一つも出していなかったので片付ける手間が無い事を喜びつつ、馬を引いて歩いて元の道を戻って行った。
結果として、ルイナル皇女たちは昼前にフジード伯爵の屋敷に到着した。
ルイナル皇女よりも一日早く出た先駆けの一日前に到着した事になる。それも、途中でウマウマのブラッシングをしたり、レジポスの煎じ茶を飲んだりして時間を潰していたりした。フジード伯爵の屋敷で無駄な時間を過ごしたくなかったからだが、フジード伯爵にも先駆けを出して貰わないとならないので休憩は短くせざるを得なかった。
そして定例になった門番との問答と伯爵との会話。次のフィムテ侯爵と皇都への先駆けの依頼。さすがに侯爵とは何度も会っているし、幾度かは直接会食に招かれた事もあるので、この問答もこれが最後になる予定だ。
だが、屋敷の中では今までと違った。
なんと屋敷の中に襲撃者がいて、ルイナルを襲ってきた。
フジード伯爵の言い分では、ルイナル皇女の存命を知った者が命を狙っているのだろう、と言う。
だが、襲ってきたのはフジード伯爵の屋敷に入ってから数時間たっただけの速い時間帯で、トレッジ子爵のところで情報が漏れたのだろう、と言う言い分だった。
ウマウマの速度を知らないフジード伯爵なので、先駆けに走った兵士がサボっただけと判断したようだ。その浅慮をルイナルとクローナは笑ったが、笑えないのは刺客に指名された暗殺者だろう。
寛いでいる部屋にはトラトラが放たれ、クローナに撫でられて喉を鳴らしているが、天井裏や壁の中の隠し通路などに暗殺者が来ると、問答無用で壁を壊され、中から引きずり出される。
そして音に驚いた伯爵が来る前にはトラトラは収納され、ヒキガエルのようになった暗殺者と部屋を覗く事が出来る隠し部屋が露わになった状態で皇女から責め立てられるのだ。
そこでルイナル皇女はフジード伯爵に覗き見卿という汚名で呼ぶ事にして、ニヤニヤ笑いながら責め立てた。
「審判の森に行く途中でも寄った部屋だが、その時も覗かれていたワケだな。これは是非とも皇帝陛下に上奏せねばなるまい」
そう言い放つと、伯爵はごにょごにょと言い訳らしき言葉を呟いていた様だが、それ以上は会話にならなかった。
これはルイナル皇女たちが始めに予定していた事で、屋敷の中で直接命を狙われたのなら、ルイナル皇女の更迭劇に直接関与しているはずだから、徹底的に虐めて直接行動に出るように誘導しよう、という方針だった。
これで屋敷の中で眠る事は出来なくなったとしても、トラトラがいれば安全ではあるし、休息したければウマウマで一日分程先行すればゆっくり眠る時間ぐらいは余裕で稼げる、と言う判断だった。
そして壁や天井がボロボロになった部屋の代わりにあてがわれた部屋でも同じように隠し部屋や通路があり、尽くトラトラに破壊された。
すでに伯爵は出てこなくなり、仕方なくルイナルたちは襲撃者たちの両手両足の腱を切って窓から放り出した。
一応「皇族に対する謀反の疑いあり」と言って伯爵を部屋に呼び出そうとしたが、小間使いたちを残して伯爵がどこかに行ってしまった、と言う返事だけが返ってきた。
「逃げるぐらいなら、屋敷の中で襲撃など行わなければいいのに」
「患いの鎧の呪いが帰った影響でしょうか? それとも元より愚かであったのか」
「えーと、確かフジード伯爵は四代目だったと記憶していますが」
「はい。侯爵家の分家で子爵を賜り、その後魔獣退治の効があり伯爵に陞爵されています。ですが三代目が早世されていますので貴族教育はあまり芳しいモノでは無かったと推察されます」
「すると貴族の間でもあまり取り沙汰される機会の無い伯爵だったのですね」
「おそらく。都に上がらないで自分の領で、こんな屋敷を作っている程度ですから」
「覗き部屋などは、貴族であればある程度許容される事ではないのですか?」
「侯爵以上であればそれも有りだとは思いますが、伯爵の身分でそれをするのは謀反を疑われても仕方ない話になります」
「ああ、覗く相手が自分以上の位に当たるワケですからね」
「あの程度の覚悟で、良く今まで無事であった、と言う事の方が驚きです」
ルイナルとクローナにボロボロに言われている。伯爵は屋敷から逃げて正解だったかも知れない。
その頃伯爵は屋敷からほど近い民家に偽装した隠れ家に到着して憤っていた。屋敷の中で襲えば確実だと思ったのだが、全ての刺客が捕らえられてしまった。
しかも一度捕らえられた刺客を伯爵が預かり、その後で再挑戦をさせたのにそれも捕まってしまった。
これで言い訳が成り立たなくなり、伯爵は屋敷から逃げ出したワケだ。
実はルイナルもクローナも、刺客の顔を覚えていなかったので、同じ刺客が二度も襲ってきたとは考えていなかった。だが二度目の襲撃では手足の腱を切られたので、三度目は無理だったが。
しかしこれで伯爵は、ルイナル皇女が次の侯爵領に入るまでに暗殺しなければならなくなった、と思い込んだ。
次の領はフィムテ侯爵領で、皇都の一つ手前に位置する、そのフィムテ侯爵は第二皇女であるルイナル皇女を次期女帝に推していると言う噂が流れている。貴族は言質を取られる事に警戒するのであくまで噂だ。
だが肯定派である事は知られているので、ルイナル皇女がフィムテ侯爵のところに入れば、フィムテ侯爵の兵がフジード伯爵を捕らえに来る事は判りきっている。
少なくとも軟禁され、徹底的に調べられた後に尋問される事になるだろう。そのような事は恥と考える貴族なので、ならば討ち死にをと覚悟を決める事になる。
私財をつぎ込み優秀な暗殺者を集めろと命令する。時間的にはまもなく夕食の準備を始める頃合いだ。その手の荒事を請け負う者たちは酒場などに集まりだしている事だろう。
そのため、夕食の時間を過ぎ、一般人が就寝する頃には十人程の猛者が集まった。決行は明日の朝。本来ならばそのまま夜中の襲撃を決行した方が良いはずなのだが、集まった猛者どもが酒を飲んで浮かれているのでフジード伯爵の従者がダメ出しして翌朝と言う事になった。
伯爵の奢りと言う事で酒をがぶ飲みしていたので、誰が見ても駄目だったが。
そして朝早く、二日酔いの猛者たちを蹴飛ばすようにたきつけてフジード伯爵の屋敷に向かう。
屋敷では当然小間使いたちは残っていたが、皇女たちをどう持て成せば良いのかは判らない。食事や酒を出しても毒物の混入を疑われるだけだ。なのでごく自然にルイナル皇女たちは食事もとらずに日が昇ると同時に出立した。
後には呆然とするフジード伯爵と襲撃者たちだけが残った。
調べてみると、書斎にある隠し扉の奥に隠した書類が根こそぎ持って行かれていた。夕べは伯爵を始め、執事や兵士長も一緒に出ていたので、屋敷には皇女を止められる者は一人もいなかった。いや、いても止められなかったが、それでも他へ誘導する事は出来たかも知れない。だが小間使い程度では、隠し扉はどこだ? と聞かれれば素直に教えてしまう者しかいなかった。
念のために言っておくと、小間使いに対しても隠し扉は秘密だったのだが、何故か公然の秘密扱いになっていた。伯爵が隠し扉を開けている時は、決して邪魔をしてはいけない、と言う不文律が屋敷に勤める者全員に通達されていた。
ウマウマで三十分程走ったあと、ルイナルたちはタープテントを広げて休憩を取っていた。
場所的にはフジード伯爵領内で、ウマウマでも後一時間は走らなければ領を出る事が出来ないと言う場所だが、フジード伯爵が追いつくには丸一日はかかる、と言う位置なので追っ手を気にせず休む事が出来る場所だ。
周りは山間の少しだけ平地になった場所の林の中という風情だ。そこで、少しだけ下草を刈った所でタープテントを広げただけだ。タープテントは地面剥き出しで屋根と壁部分だけがあるテントなので、一時的な休憩ならこれで充分だ。折りたたみの椅子もあるので、なおさら地面を気にする必要も無い。
そこで食事とお茶を楽しんで、折りたたみの椅子を少しリクライニングさせて昼寝をとる。
一時間程で、まだ眠気が残る程度で起き上がり、ウマウマのブラッシングを行ってから移動を再開した。
そして、まもなく日が夕の赤に染まり始めそうな時間にフィムテ侯爵の屋敷に到着した。
当然のように先駆けが無いなどの問題が起こったが、この屋敷にも何度か訪れているので顔見知りは幾人かいたので問題は起こらなかった。
執事長に案内されたがフィムテ侯爵自身は皇都に赴いているので不在だった。ならば早々に都へと向かおうと言ったが、まもなく日が暮れると言われ一泊は世話になる事にした。
それでも先駆けは出して貰おうと頼み、執事は侯爵専用の、火急の用件用の馬を出してくれた。
それから、執事長とその直接の部下たちでフジード伯爵の隠し部屋から持ってきた書類を精査し、国に対する支払い全てに不正がある事が判ったが、他の皇女に通じる覚え書きなどは出てこなかった。
これから推察するに、ルイナル皇女を暗殺するか捕らえてから他の皇女に取り入るつもりだったのだろう、と考えられた。完全に小物の理論だ。
もしくはその手の事柄だけは書類に残さず、完全に口頭だけでのやり取りだったのだろうか?
そう推察する事も出来るが『言った』『言わない』の問題が顕著な、情報が伝わりにくいこの世界で、書面によるやり取りが無いのは無謀を超えた愚か者の行動としか思えない。
この世界の貴族間のやり取りでは、階位が上の者の言葉が真実になる。
『言った』『言わない』では、真実はともかく、階位が上の者の方が正しいのだ。それ故階位が下の者は、上からの言葉や命令には書面にしてサインと押印を求めるのが通常だ。
それは不正行為や皇族に対する反逆行為であっても『保証』と言う意味で成立する。
もしもそれが無い状態で上の者が下の者に命令したとしても、一応表面的には命令に従順な態度をとるだろうが、裏で他の者に繋がっていても文句は言えない状態になる。
なので、上からの『保証』を渡す時には下からの『保証』も要求する。つまり、対面で契約書類を作るのが当然の成り行きだ。
故に覚え書きさえ無い状態であれば、接触は無かった、と考えても良いと言う事になる。
書類の精査が終わり、単純に皇族の命を狙った逆賊とだけ報告すれば良い、と言う結論に達した。
ルイナル皇女にとっても面倒な説明が必要無いので助かったが、本人の証言だけでは後々揉める原因にもなりかねない、と言うフィムテ侯爵の執事長の意見には眉間に皺を寄せる事になった。
まぁ、ルイナル皇女にとっては、皇都に入って皇帝陛下に会った時点で皇族を廃籍されるつもりなので、フジード伯爵から命を狙われた事など無視しても構わない事だった。
しかし、体面的には皇族が命を狙われたのに不問にする事は出来ない。
最低でも代表者を捕らえて拷問の後、公開処刑しなければ抑止力にならないし、尊厳自体が損なわれる。通常は共謀者も処され、代表者の血族にまで影響があるのが当然だ。
今頃フジード伯爵は屋敷に火をかけ、完全に証拠を消そうとしているはずだ。そして皇女が乱心して屋敷に火を放ったと言うかも知れない。爵位的には意味が無い行為だが、他の皇族である姉妹たちには良い攻撃材料になる可能性もある。
それは廃籍されるつもりのルイナル皇女にはどうでも良い事に思えたので、不正の書類があれば小物として処分させるから構わないと言ってお開きにさせた。
本気で心配されたけど、労い用に飴や小型ナイフを屋敷の人数分以上渡して強引に終わりにした。
そして翌朝。屋敷に勤める者たち全員での見送りで出発した。かなり飴と小型ナイフが気に入ったようだ。伯爵へのお礼としての金貨二枚が入った花柄レースのハンカチを渡した時は、初めは訝しられたが、手触りで中身が想像出来た時にはかなり関心していた。
一般的に皇族が侯爵に渡す場合は金銭管理の手の者が侯爵の部下に、剥き身か小さな革袋に入れて渡す。今回は二人だけだったので、ルイナルが見ている前でクローナが執事長に渡す事になったが、あからさまな金のやり取りという下品な所作は見せないと言う心遣いだった。
この後、フィムテ侯爵の執事はフジード伯爵の領地へ詳細を調べる者を出して、現状を確認しに行かせた。そして四日をかけて到着した時に調査員が見たのは、慌てて私財を屋敷から運び出している現場だった。
それとなく屋敷の小間使いに聞いた所、屋敷を燃やすので価値のある物は予め運び出している、と言う話を聞けた。
そして満足のいく調査が出来たとして調査員は帰っていった。
時は四日前。ルイナル皇女がフィムテ侯爵の屋敷を出た後に戻る。
二時間弱でルイナルは皇都の外壁の門に到着した。さすがに門番はルイナル皇女とクローナの顔を覚えていたが、先駆けが無い事をルイナルに聞いてくる。
「皇女殿下におかれましては、御壮健であられる事、大変喜ばしい事でございます。ですが、皇女殿下のご帰還を告げる先駆けの報が無い事には、いささか無念と言わざるを得ません」
「エドゲード伯爵、トレッジ子爵、フジード伯爵、フィムテ侯爵領に立ち寄りし際、それぞれに先駆けを出してくれとお願いしたのですが、それらの先駆けは皇女殿下の馬に追いつけず、先に到着してしまいました。これより後、それぞれの領からの先駆けが順次到着するでしょうから、その労いを頼みます」
ルイナル皇女の乗る馬を引くクローナが門番に答える。さらに。
「そうですね。いきなりでは皇帝陛下にも失礼になりかねません。ここより城へと伝令を出して頂けませんか?」
「かしこまりました。城へは直ぐに向かうのですか?」
「伝令はどの程度で城へと到着しますか?」
「慣れた道なので、湯沸かしの水が湯になるまでには到着するはずです」
「では、皇女殿下にはここにて、その時間を過ごして貰い、その後にここを出立して城に向かう事にしましょう」
「はっ、まこと、お気遣いを感謝いたします。おい!」
クローナとルイナルに感謝の礼をして、その話しを聞いていた伝令の兵に声を掛ける。しっかり話を聞いていたので、伝令は馬に飛び乗ると全力で走っていった。
クローナはウマウマを誘導して門番の邪魔にならない場所に移動させ、ルイナル皇女が降りるのを手伝う。
そして折りたたみ椅子を取り出してルイナルを座らせ、クローナ自身は門番へと話しかけて情報収集を始める。情報収集の礼は飴や小型ナイフだ。まぁ両方を物欲しそうに見られて折れたが。
そしてルイナル皇女の死亡説は主に第四皇女の派閥に入ったハイジック公爵系が流している噂らしい、と言う事が知れた。
ルイナル皇女に呪われた患いの鎧を持たせたのは第五皇女なので、その第五皇女は疑われないように大人しくしているのだろうと予測が付いたが、実は皇帝陛下の前で失言を行い、今は謹慎中らしい。
第三皇女は体調が優れないという理由で引き籠もっているが、それでも人の出入りが他の皇女よりも多い、と言うのは以前から変わらない情勢だ。
第一皇女だけは特に動静の変化が無いのは、ある意味、余裕の態度と言う所だろう。
湯沸かしの湯が沸くぐらいの時間。それは細長いバケツのような鍋を竈の上に吊って、水が湯になるぐらいの時間を指す。季節や火のおこし方でかなり変わるだろうが、この世界では十五分から三十分ぐらいの時間を言う慣用句になっている。
ルイナル皇女が椅子に座ってからそろそろ三十分という時間になり、もう先駆けも城の門に到着しているだろうと思われる時間になったのでルイナルたちは門番の兵士に礼を言って再出立した。
その見送りは、やっぱり門番全員で手を振られてのモノになった。
飴と新品の小型ナイフはかなりの影響力を持つようだと、二人は再認識した。
実際、ルイナル自身も初めて飴を作って食べた後は、飴作りマッシーンになった程だ。慣れてしまうとそれほどでも無いが、初めのインパクトはかなりあると言って良いだろう。
そしてウマウマを走らせて城の門を目指す。
城の門に到着した時、先駆けで出た外壁の門の兵士が城の門番に説明している状況だった。
「ご苦労様です。城からの迎えは来ていますか?」
クローナがウマウマを降りて、手綱を引きながら門番に問いかける。
「え? で、殿下? 門の所でお待ちにならなかったので?」
「向こうの門の所で暫く休みましたよ。門番の方々とも色々話をしましたし。後程確認してくださっても結構です。あ、ああ、貴方にも労いを渡しておきましょう」
そう言って、飴と小型ナイフを先駆けに走った兵に渡す。
「あ、ありがとうございます」
それから暫く、城の門の前で佇んで待つ事になる。外壁の兵士も結果を確認出来なければ帰れないと言いだし、城からの迎えが来るまで城の門番と一緒に世間話をして過ごした。
さすがに城の間近で皇族の内情の噂話をするワケにもいかないので、世間話の内容は知られて居る貴族の失態関係だった。皇女に旨い酒屋の噂をしても仕方ないというのもあるし。
そして聞いたのは、皇国の、審判の森とは反対側に位置するタラフ伯爵領で新しい治水を開始したが、途中で予算が枯渇し、領民にタダ働きを強要して領民が逃げ出しているという状況の話だった。
逃げる領民を捕まえるのに労力を裂いて、さらに治水工事が遅れている、と言うどころか、普段の農作業自体が滞っているそうだ。
来年度はこれの所為での伯爵領が財政危機に見舞われるのはほぼ確定とまで言われている。
財政危機からの救済処置を国に頼まないで、通年通りの税を納めれば、陛下にこの所業は知れる事が無いとなる。そのしわ寄せは領民に掛かるのだが、結果として伯爵自身の首を絞めているとも言える。しかし、そんな他人事のように言えるのは本当に他人だけで、当事者としての領民にとっては堪らない話だろう。逃げた領民が向かった先での混乱も予想されるし、周辺の領は警戒を強めなければならないはずだ。
おそらく、既に周辺の領主は難民の流入を止めるために警戒を強めているはずだ。しかし、伯爵の所業を陛下に進言する事は無いだろう。こういう時に告げ口のように進言すると、後々自分も告げ口される事になりかねない、と言う懸念がある。
出し抜きが当たり前の貴族社会でも、こういった事は控えるのが可笑しいやら情けないやら、と言う複雑な気持ちになるルイナルだった。
そして城の門の内側に馬車が到着し、中からルイナルの顔見知りの大臣と第二騎士団の副団長が降りてくるのが見えた。
「で、殿下~!」
情けない声を出しながら走り寄ってくるサブマック大臣の姿に思わず顔が綻ぶ。そこで、クローナはようやく、ウマウマからルイナルが降りる事を許可した。
状況によるが、もしもの場合はルイナルだけはウマウマで逃がそうと言うつもりの体制だった。それが判るのは見ていた門番や先駆けの兵だけだったが、これが忠義の行いかとしきりに関心していた。
「殿下ぁ、よくぞご無事で~」
「殿下のご帰還をお待ちしておりました」
「サブマック大臣。ライデー副団長。心配をかけた。他の騎士団の者たちにはすまない事をしてしまった」
「何をおっしゃいますか。殿下の危機を少しでも逸らせたのならば、騎士として本望としか言えません。殿下がこうして無事にご帰還出来た事が騎士団の誇りとなります」
「うむ。その事については、陛下に報告しなければならない事に含まれる。二人には陛下への謁見の段取りと同席を頼みたい」
「かしこまりました。して、謁見はいつ頃が宜しいでしょうか?」
「出来るだけ早く頼む。わたしとしてはこのまま陛下のところに赴きたい程だ」
「しかし、お疲れではありませんか?」
「クローナのおかげで少しも疲れてはおらん。しかし、なにやら良からぬ噂も流れているようでな、まずは陛下にわたしが生きてここにいる事を知ってもらいたいのだ」
「はっ、では…」
サブマック大臣は部下に耳打ちをしてから馬に乗せて先に行かせる。そしてルイナルとクローナを馬車に乗るように勧める。
ルイナルの乗ってきた軍馬に関して、どうしようかと目を向けたが、いつの間にか目立つ白馬がいなくなっていた。
「おや? 皇女殿下? 馬がいませんが?」
「ああ、気にしなくて良い。わたしはこの馬車に乗れば良いんだな?」
丁度兵たちの目が逸れた一瞬を狙って、ルイナルは従魔石にウマウマを収納していた。その後の誤魔化しはイマイチだったが、この場に皇女に問い詰める事が出来る者がいなかった事が幸いした。
馬車は大型の送迎用で、本来なら皇女とその従者のみが乗って、大臣や副団長は御者席か馬車の後ろに掴まり立ちで警護しながら一緒に移動する、と言うのが通常なのだが、今回は大臣と副団長と一緒に乗り込む。
それはあらかたの話を聞いておかなければならない、と言う配慮だが、ここでルイナルはどこまで話すかを迷った。
そこで、先ずは審判の森を攻める騎士団の半数が計画的に逃亡した事。ルイナル皇女が装着していた鎧が患いの鎧という呪いをかけられていた事を話した。
この話に二人は困惑した。
まず騎士団だが、半数が逃亡したというのは薄々気がついていた。しかし、それを皇女殿下に直接指摘されるとは考えてもいなかった。コソコソと逃げ帰ってきた騎士が他の騎士団に密かに入団している事を突き止め始めた頃だったので、まだ二件程の実例しか無いが、それらを捕らえてしまうと、その後の捜査に影響が出るだろうと考えていた矢先だった。
だが、皇女殿下に指摘されたのだから、行動に移さないわけにも行かない。少し待て、とは立場的に言え無いし、捜査に手を抜くと反第二皇女陣営と疑われてしまう。
ライデー副団長は、この後に捜査を本格的に始める算段を頭の中で計算し始めて、心の中だけで溜息を吐いた。
そして第五皇女であるメイナムの行った患いの鎧の呪いの事だが、これにもサブマック大臣は頭を抱えた。
元は国の国宝であった鎧に魔法使いの命と引き換えに呪いをかけたなど、皇族のする事では無い、と言うのもあるが、その第五皇女自身が現在は謹慎中というのも問題になる。
陛下への失言が原因と言われるが、陛下はそれを隠そうと言う姿勢をとっている。
事の真意は別として、皇帝陛下が隠そうとするのならば、臣下は全力でそれを守らなければならない。善悪などや真偽は関係無い。陛下の意思が全てだ。
これは第二皇女であるルイナル殿下でも同じで、サブマック大臣は立場的にルイナルに控えるようにとしか言え無い。
「ふふ。それは良く判っている。皇国の法は良く学んでいる」
ルイナル自身にそう言われたら、一介の大臣には何も言えなくなってしまった。
そして馬車は城の本丸に到着した。
まずはここでルイナル自身が城へ到着した事を記す。そしてルイナル自身が陛下への謁見を希望したと申請する。ここの皇国特有の決まりだが、始めに先駆けが伝えて準備をし、その後到着した本人が申請するのが習わしだ。
本人以外が申請しても皇帝陛下が動く事は無い。それは身内でも同じ扱いだった。
ここで申請して、予約が通れば、大凡の日付と時間が帰ってくる。その時間が絶対では無く、送れたり不許可にされたりは当たり前にある。だがそれ以外に謁見の方法は無く、予約をした者はその時間の前に訪れ、控えの間で待ち続ける事になるのが通例だ。
だが、ここで異例が起こった。
申請を出したと同時に走って戻って来た事務方の職員が、皇帝陛下が直ぐに会う、との言葉を出したと言ってきた。
戦時中ならばこういう事も良くあるのだが、平時においては実の子であっても形式を破る事が珍しいと言われる皇帝陛下である。皆がその事に驚いていた。
「ある意味、有事と言う事だろう」
ルイナルはそう言って、職員に謁見の間へ案内させた。
その堂々たる態度に他の者は落ち着きを取り戻し、ある者は自らの仕事に戻り、ある者はルイナルについて謁見の間に向かった。
そして謁見の間。
皇帝陛下はまだ姿を見せていない。しかし主要な大臣達は左右に整列して待っていた。サブマック大臣がその列に加わり、皆様お早いですね、と挨拶すると、南方面の予算会議をしていたと言う。そこに皇女帰還の報が入ったので会議を中止して謁見となったと説明された。
審判の森ほどでは無いが、山にも魔獣は多く出没する。山をいくつか越えて南に進むと砂漠の国があるので、そことの交流が課題になったのだろうと予測できた。おそらく予算と兵員増強の折衝だったのだろう。
南部方面の予算であればサブマック大臣が呼ばれないのは当然だな、と胸をなで下ろす大臣だった。
謁見の間の左右に大臣達が並び、中央にルイナル皇女と従者のクローナが佇む。その部屋に鐘の音が響くと同時に壁際で直立している兵士以外の全員が片膝立ちに傅いた。
皇帝陛下の入場。
椅子に座った陛下が「面を上げよ」と言って、両側の大臣達が直立に直る。ルイナルとクローナは傅いたままだ。
そこで陛下がもう一度声を掛ける。
「ルイナル。そしてクローナよ。久しいな。顔を見せてくれ」
今度は形式通りでは無く、父親としての顔で声を掛けられた。それで、この場は半ば公式な閲覧であり、半ば私事の閲覧であると言う形式が設定された事になる。
だが、ルイナルは完全に正式な閲覧を希望した。
「皇帝陛下におかれましてはご機嫌麗しゅうございます」
片膝をついて、顔を上げないままその言葉を発する。
これで回りの大臣達が少しザワついた。それを陛下が手を挙げて静かにさせる。
「うむ。第二皇女、ルイナルよ。面を上げる事を許可する」
「はっ、有り難き幸せ」
今度はそう言って顔を少しだけ上げ、皇帝陛下と目を合わせる。
もしもルイナルが一般人だったのなら、顔を見る事さえも無礼となるが、ここで顔を見る事が出来るのは皇族の特権とも言えた。
本来ルイナルは皇帝陛下の居城の方で、普段の生活の場という環境で陛下に会う事が出来る。
それをわざわざ謁見の間での謁見、と言う形式に拘ったのは、多くの騎士を死なせた責任があるのと、大事な報告があるためだ。
「此度は、陛下の貴重な時間を我が事に割いて頂き、誠に感謝の念に堪えません。ここに、わたくし、ルイナル・ナル・ミドニール・コル・セカルドは皇帝陛下に謝罪と報告がございます」
「セカルド・ナル・ミドニール・コル・イルクがルイナルの謝罪と報告を聞こう」
「有り難き幸せ。では、審判の森の調査隊についてです……」
そして淡々と調査隊の編制の経緯と審判の森での全滅状況を報告していく。まず、始めに隊の半数との連絡が取れなくなり、森を切り開く作業中に一人ずつ人員が減っていく状況を話す。残った騎士がルイナルを囲むように警護しているが、一人ずつ魔獣の牙に沈んでいった。
森から脱出しようとするが、その頃には方向を見失い、魔獣に目を付けられた場所に居続けるのは危険と進言され、移動しつつ脱出か安全な場所を捜す事になった。
最後は残った二人の騎士が、魔獣を引き連れてルイナルから離れて行き、直ぐに物音が無くなった。
ルイナル自身はその場で魔獣を相手にするつもりだったが、クローナに言われてひたすら進み、結局それが功を奏して二人だけが生き残ったと報告した。
「審判の森では長剣や金属製の全身鎧などは死にに行く様なモノでした。結局魔獣の牙に食いちぎられるのであれば、せいぜい藪の中を進む事にだけ注意した動きやすい服装の方が生き残れたでしょう。わたしは審判の森を良く知らずに、騎士の兵力だけで対抗出来ると考え、無駄死にを出してしまった無能なる指揮官で有りました」
「うむ。だが調査隊を出した責任は国にもある。お前一人が責任を感じるモノでは無い」
本来であればここで罰を与えなければならないはずだが、とルイナルとクローナはいぶかしむ。
「陛下。謹んで発言の許可を承りたいと存じます」
当然のように大臣の一人が言い出した。ルイナルたちの予想通りの、反ルイナル派閥の大臣だ。
「ならん。控えておれ」
意外にも陛下が大臣の発言を押さえつけた。大臣の言い出す内容は判っていて、ルイナルたちは反論というか、話の流れを作ってあったのだが、これはルイナルたちには驚きだった。
だが、ルイナルは当初の予定通りの話に持って行った。
「陛下に上申いたします。他者の責任を問う陛下が身内の責任を問わぬワケにもいきません。我が身は騎士団全滅の責をとる覚悟です。ですが、それは騎士団全滅のみの話。審判の森調査の責任ではありません」
「ん? どう言う事か。続けよ」
「はっ。わたしとクローナは騎士団全滅と引き換えに、審判の森のほぼ中央にある聖域に到達しました」
そこで謁見の間に衝撃が走る。審判の森の調査自体は、どんな魔獣がいるか、魔獣の密度は如何程か、森の中で最強種はどのような魔獣かと言うのが主体だった。それが、審判の森に聖域があるなどとは聞いた事が無かった。
そしてルイナルは語る。
審判の森のほぼ中央に広場があり、魔獣は元より人族も聖域に害意があるモノは入る事が出来ない場所になっている。空気は澄み、常に天候は晴れやかでどこよりも落ち着ける場所になっている。
「しかも、その聖域には聖域の主が住み、いくつかの屋敷がありました」
「それでは、その聖域の主が審判の森を管理しているのか?」
「聖域の主は聖域の管理は称しておりましたが、審判の森に関しては言及いたしておりませんでした。ですが、審判の森という名称が何時出来たのかは不明ですが、聖域に至る事が出来る者は審判の森を通過しなければならない、と考えますに、なるほどと関心いたしました」
ルイナルもまた言葉を濁すが、ルイナル自身、もしかしたら森の魔獣を店長が操る事も出来るのでは無いか、という可能性もありそうに思えた。
「その聖域の主は、我が皇国で御する事が出来るか?」
聖域を皇国が支配できるか? と皇帝陛下が聞いてきた。
「我が騎士団は半分が計画的逃走を企てました」
「何?」
「初めから森に入った段階で直ぐに逃げて、我が騎士団を全滅させる事が狙いだったようです。それについては後ほど。ですが半分とは言え騎士団であります。それが森の入り口付近で全滅いたしました。聖域を御するも何も、そこまで到達する事自体が大きな困難と言えます。果たしてどのような戦力であれば審判の森に到達できるのか、わたしには想像も付きません」
「むう」
皇帝陛下が唸る。他の大臣達も言葉が出ないようだ。
「わたしとクローナは、たった二人だった事が奏したのでしょうが、それでも怯え、隠れ、逃げ惑い、数日間、絶望の中でのたうち回りながら彷徨い、奇跡的に到達できたのです。我が国の兵士全てを投入しても、到達できるのは数人ぐらいでしょう。ましてや聖域には結界があります。到達できた所で入る事すら困難でしょう」
「して、聖域とはどのような場所なのだ?」
聖域の詳しい事を話せと言ってくる。そこでルイナルはクローナを振り返り、背負っていたワンショルダーのリュックをクローナに渡す。そしてクローナは壁際の兵士に、壁際に置かれたチェストの一つを陛下の前に持ってくるように指示した。そして陛下が頷き、キビキビとした動きで準備が整う。
クローナは置かれたチェストの上に、ルイナルのリュックから取り出したコンバットナイフを五本置いて、リュックを抱えたままルイナルの後ろに下がった。
「これは聖域で手に入れたナイフであります。どれでも一つ手に取ってご確認ください」
陛下は直ぐ横に侍っていた兵士に指示し、並べられたナイフの一本を持ってこさせる。そして自らナイフを抜いて刀身を確認した。
「ぬぅ。黒いな。それにナイフと言うには少々長いか」
「黒いのは目立たぬようにするためのです。しかもかざして貰えれば判りますが、光に照らされません」
「ふむ。確かに」
「お気をつけください。かなりの切れ味になります」
そう注意して、今度は壁際で槍を持っている兵士に声を掛けて、槍の刀身を陛下の前に横から突き出せと指示する。これには一部大臣達が騒ごうとしたが、陛下が目だけで抑えた。
「では陛下。ナイフの刃を槍の刃に上から押し当ててください。槍を持った兵。貴方は槍を上に振り上げるように力を加えなさい」
ギュイン。
ルイナルの言葉が終わって直ぐに、金属のこすれる音が一瞬だけ響いた。
そして落ちる槍の刀身。
陛下も兵も、大して力を加えてもいないのに、ナイフで槍の金属の刃が切れてしまった。しかも陛下は椅子に座ったままで、体重を乗せるなどは出来ない格好だった。
それを見た槍を持った兵はその場に尻餅をついてしまった。
「こ、これはいかなる魔法剣か?」
「いえ陛下。これには一切魔法は掛かっておりません。純粋に、そのナイフを形作っている金属が固く、鋭く研がかれているだけでございます」
「これが聖域にある、と申すのか」
陛下はナイフを鞘に収め、それを横の兵に渡す。
「陛下。考え違いをなさらぬようにお願いいたします。このナイフ。わたしが帰郷する際に聖域に到達した証拠として持って行けと渡された物です。つまり、この程度のナイフをいくら渡した所で、聖域の優位は変わらないと言う事になります」
「つまり、聖域にはこれよりも優位になれる武器があると申すか?」
「聖域には一頭のドラゴンがおりました。このドラゴンは聖域の主の従魔であり、全てのドラゴンを統べるドラゴンの王になります。聖域の主は、森に危害を加えようとした者に対してはこのドラゴンで対応すると申しておりました」
「せ、聖域の主とは、いったい…」
「はっ。おそらく、この世界を作りし神により使わされた存在、と思われます」
「ば、馬鹿を申せ。ならば審判の森を攻めるのは神にあらがう行為と言う事になる」
「国の力にて、審判の森を片端から焼き払うなどの行為であるならば、ドラゴンの集団により国が滅ぼされましょう。ですが、個人の力にて審判の森を突破し、聖域に辿り着けし場合はとても価値のある力を授けてくれる。それが聖域なのです」
「ルイナルよ。そなたも力を授かったのか?」
「申し訳ありません。わたしは国の力により審判の森を荒らした咎人になります。よってわたしとクローナは、聖域に再び赴き、審判を受ける事を約束しました」
「な…、ならん!」
「人の身でこの約束を覆す事は困難。そもそも、わたしとクローナは納得しております。我が身二人だけの命のためにこの国全てが滅ぶなど、選択する必要すら無い事であります」
「ならん! ならん! ならん! お前は我が国の、我の後を継ぐ皇帝に成る身だ! 軽々しく命を差し出すなど言ってはならん!」
勢いで言ってしまったのだろうが、時期女帝にルイナルを指名してしまった。これに大臣達が騒ぎ出す。
「陛下。申し訳ありませんが、これより、さらに恐ろしき事を申し上げます」
「?」
反発の言葉ではなく、さらに恐ろしい事、と言う事に周りの全員が疑問符を浮かべた。
「聖域の主は、全てを見通しているのです」
ケーゴが聞いたら目を剥いて驚く事を言い出した。
「聖域の主から、わたしはわたし自身が審判の森を攻める原因になった事を聞きました。全ては他の皇女たちの策略であると。第一皇女であるカレリーナはわたしの出兵には直接関与していませんでしたが、巧みに他の皇女の心を操り、皇女同士で互いに潰し合いをさせるように誘導しておりました。しかも陛下の飲み物に手を加え、陛下の子作り能力が萎えるようにして、さらなる後継者候補が出てくるのを防いでいました」
「ルイナルよ。言葉を控えよ」
「陛下。これは聖域の主より聞かされた言葉であります。これを聞かされた時、聖域には他の国の冒険者が運良く到達しており、一緒に聞いております」
「な、なんと」
つまり他国に皇国の内情が知られている事になる。この場にいる全員が焦りにも似た感情で支配された。
「続きまして、第三皇女のリゼスは引き籠もっており、公務には関心が無いような態度をとっておりますが、人を使い、皇都の商人を掌握。リゼスの采配一つで都の商いは全滅する様に仕込まれております。これは他の皇女の嫌がらせに怯え、引き籠もざるを得なかった事に対する復讐の念が強くあるとの事です」
後継者争いから始めに脱落した皇女、と言う認識だったが、その復讐で国の経済を転覆させようとしていたと知らされ、大臣が青ざめる。
「第四皇女のヴェルテは、特に策略などは行ってはおりませんが、恣意的な噂を無分別にばらまき続けて、他者の足を引っ張る事に傾倒しています。しかし、わたしに弱毒をしかけ続けていた事もあり、言い訳の出来る悪事を選んで行っていた小物であると聖域の主はおっしゃっていました」
これは今までで一番大人しいが、このような人物は人の上に立てる者では無い、と言うのが一番よく判ると感じられた。
「そして第五皇女のメイナムは男妾として飼っていた魔法使いにディガースの呪禁を用いた呪いを我が鎧に掛けて寄こしました。それにより魔法使いは発狂して飛び降り自殺。わたしは正常な判断を下す事が出来ない状態にされ、無策で審判の森を攻める事になりました」
「呪い?」「病死では?」「よりによってディガースとは」などと、今まで一番大臣達がざわめく。
「ルイナルよ。メイナムの事、他に何か聞いていないか?」
「わたしが聖域に到達した時、直ぐに我が鎧の呪いに気付いた聖域の主により、呪い返しが行われました。使われたのは神聖樹の根元に咲く白銀の百合の花と 神聖を司るエルール神の香。これにより呪いは掛けた者に返ったそうです。それがメイナムに向かって進むのはわたしと他国の冒険者が見ておりました」
「呪いを払う事は出来ないのか?」
「あまり知られてはいないそうですが、ディガースの呪いは掛けた者、掛けられた者の両方が破滅するそうです。メイナムは魔法使いに掛けさせており、魔法使いに肩代わりさせるつもりだったようですが、そのような単純な呪いではなく、本来なら魔法使い、わたし、そしてメイナムの三名が哀れな呪いの犠牲者になる所でした。結局、わたしが聖域に到達して身を捧げる事を約束出来なければ、国が滅んでいた事になります」
皇帝陛下が頭に手を当てて黙ってしまった。全てが詰んでいる。
当のメイナムは陛下に対する失言で謹慎処分のままだが、たとえ謹慎が解けたとしても呪われた身では正常な判断が出来ないだろう。
皇国の、皇帝陛下の御子である五人だけの皇女が、全て廃籍という状況になってしまった。しかも、それは他国に知られている。
「横から失礼いたします。皇女殿下、宜しいでしょうか?」
参列していたサブマック大臣が皇女に声をかけた。それに対して陛下と皇女の両方が頷く。
「失礼いたします。皇女殿下にお聞きします。この皇国が栄える方法はお聞きしておりませんか?」
これはルイナルが一番聞いて欲しかった事だった。
「まず陛下におかれましては、このような薬を聖域で譲られております」
その言葉でクローナがリュックから一つの紙製の箱を取り出し、ルイナルに渡す。ルイナルは受け取るとそれを目の前のコンバットナイフが置かれたチェストに乗せて、自身は下がる。
それはボール紙で出来た、十センチほどの縦長の小箱。マッチ箱を体積は変えずに縦に倍に伸ばした程度だ。
陛下は横の兵士からそれを受け取り、色々な方向から眺める。
クローナはもう一箱を取り出しルイナルに渡す。
「この箱は単なる包み紙ですのでお気になさらずに。これはこうして開けます」
折り込まれた蓋を開け、中から四粒の錠剤を包んだシートを取り出す。それを掲げるように陛下に見せる。
「この青い粒が薬になります。薬を包んでいる物は薬が湿気ないようにしているモノですので、服用する時はこうして一粒だけを押して取り出します」
プチっと音を立てて取り出された粒を指先で摘まんで掲げる。
「これは、男性が飲むと、湯沸かしで湯が沸くくらいから効き始める薬で、その…、男性の、アレが、その、臨戦態勢になり続ける、とか、言われています。そして、男性が果てても臨戦態勢は持続して、連続も可能だとか…。も、申し訳ありません。詳しい効果はわたしには判りません」
とても恥ずかしい思いをしながらルイナルが謝る。周りの大臣達も、それはそうだろうと納得したりしたが。
「ルイナルは我に、さらに御子を作れと申すか」
「作らずとも、楽しむだけでも良い、と聖域の主はおっしゃっていました」
汗をかく程の運動を毎日のように、気持ち良く感じながら行えると言うのは、かなりのプラスになるとケーゴは教えていた。
毎日五千歩から一万歩を歩くのも良いが、毎日のように三十分以上掛けて真剣にやれば、それだけでも体力維持や健康にも良いと。
まぁ、慣れると要領が良くなって、余計な体力を使わないようになったりするのが難点だが、と言う補足も言っていたが、ルイナルには実感の湧かない話だった。
「ルイナル殿下。それを私めが服用しても宜しいでしょうか?」
サブマック大臣が、ルイナルがサンプルとして取り出した一粒を指さして問いかける。
これはサブマック大臣が、毒味係として立候補したのと、サブマック大臣自身が暫く元気がなかった事も原因だったりする。
ルイナルが陛下を見ると、陛下も頷く。そして大臣に一粒渡すと、大臣は躊躇もなく飲み込んだ。
「この、プチッと取り出す仕組みは我らには作れませんので、このシートに入っているのならば偽物に代えられる事も無いでしょう。針で毒液を注入された場合は粒自体が溶けてしまうので見た目でも変化が判りますし、陛下が個人で管理していれば問題は無いと存じます」
そして四粒入りの小箱を三十個出して、チェストに積み上げる。
「効果が出るのは湯が沸く程ぐらいは待つ必要があります。なので、別の話を。審判の森の奥にある聖域では、聖域に害意がない者であればおそらく入る事ができます。そして、そこではこのようなナイフや薬などを買う事が出来ます。さらに知識を求めれば、その知識を教えて貰えます」
「なに? では、このナイフの作り方を問えば、その知識を与えられると言う事か?」
「はい。ですが、大きな問題もあります。陛下、良い味のタケミ(ブドウ)の酒をご存じでしょうが、悪い味のタケミの酒との、作り方の違いをご存じでしょうか?」
「それは、むぅ…」
「実は作り方に大きな違いは無く、採れるタケミの質に大きく依存するモノです。もちろん職人の経験や先人からの知識の受け継ぎも大きな原因でもありましょう。なので、作り方を聞いても、同じ物が出来るとは限らないのです。ナイフに関しましても、使う鉱石の種類や溶かす温度、他の鉱石と混ぜ合わせる比率などなど、教わる事が多く、もしも鉱石の種類から教わろうとしたのなら、生きている内に教わり尽くすのも不明とおっしゃっていました」
この場に、物作りに長く携わった経験がある者はいないので、誰にも反論出来ないし、ルイナル皇女の言葉足らずな部分を指摘する者もいなかった。
「ですが最低限の基礎は短い期間で教えて貰う事は可能です。わたしが聖域にいた期間でも、別の国の冒険者が聖域の料理を教わっていました。それは皇国でも手に入る素材で、とても甘露な味わいでした。おそらくローワン王国では新しくも甘露な料理が流行る事になるでしょう」
「ローワン王国であったか」
「ですので、志と武力を両方持ち合わせる者たちを聖域に向かわせ、そこで治水や農作業、薬の作り方や魔法などなどを学ばせて、国内で活用する事が最も良い選択になると考えます」
聖域と良い関係を築く。それが皇国にとって必要な事だと説いた。
それはある意味、皇国が聖域に敗北したと言う意味にもなる。しかしルイナルが聖域は神が作りし存在であり、そこと敵対するのは神に戦をしかけるのと同義だと説明した。しかも一度喧嘩を売った形になるが、それはルイナル自身が人身御供になると言う約束を取り付けて、手打ちになる事が決定していた。
すべて、ルイナル皇女の手腕で事なきを得た結果だ。
「ここに聖域で手に入れた酒を持ってきました」
ルイナルがそう言うとクローナに目配せする。そしてクローナは壁際の兵士に新たなチェストを陛下の前に用意させる。さすがに二度目なので兵士の動きも軽やかだ。
クローナがリュックから赤ワイン、白ワイン、ブランデー、ウイスキー、清酒と五本の瓶を並べた。
「器を用意して貰いたいのですが、ここで一つの懸念があります。もしも器や食べるための食器に鉛という金属が使われておりましたら、是非とも使用を中止して貰いたい」
そしてルイナルは鉛の怖さを説明する。ワインが甘くなるなどの効能のせいで毒を飲んでいるのと同じだと。
使う器や食器は木、陶器、銅や金、銀。鉄製は鉄の味が強いのであまり推奨はされない。そして何より、ワインを鉛が含まれた金属で作った器に保管する事が問題だと説いた。
金属の製錬技術が未熟なこの世界故、たとえ純金の器といえど、どんな金属が混ざっているかは判った物では無い。金属を食器に利用するのは避けた方が良いのは至極当然だ。
陶器は使われているが基本は素焼きで、釉薬は利用されている所とされていない所でまちまちだ。ガラスは国の王でさえ多用は出来ない珍しい素材として、偶に混ざり物や泡が内包されている置物があるぐらいで、食器として利用はされていない。
ケーゴからしたら、全体的に未熟と表現するだろうが、これが皇国の人族の精一杯ではあった。
結局木の器が用意された。
小さめの器も多く用意され、参列した大臣達がご相伴にあずかろうとしているのも丸分かりだった。だが、先ずは毒味係。そして陛下だ。
「毒味係はどなたとしましょう?」
ルイナルが問いかける。ここではルイナル自身が毒味をしても信用されない。予め解毒薬を飲んでいる場合もあるからだ。
だれもが躊躇していたが、先ほどと同じサブマック大臣はどうかと誰もが考えた。しかしそのサブマック大臣は前屈みになっていて辛そうだった。
「サブマック大臣。いかがしました?」
哀れにもルイナル皇女が問いかけてしまった。ルイナル自身は先ほどの薬を与えた手前、身体の調子がおかしいのがルイナルの所為になるのでは無いかと心配したからだが、それがかえって追い詰める事になってしまった。
「だ、大丈夫でございます」
そう言うサブマック大臣だが、その姿勢は股間を押さえて、内股で前屈みだ。
その姿勢で、何人かが思い当たる者が出てきて、ニヤニヤし始めた。それを見て陛下も思い当たる。
「サブマック大臣よ。我が命ずる。姿勢を正して前に出よ」
「…はっ」
少し躊躇ったが、陛下にバレてしまったのであれば隠す事も出来ない。そう諦めの覚悟を決めて、サブマック大臣は『気をつけ』の姿勢をとった。
そして丸分かりになる股間の膨らみ。
いわゆるテントを張った、と表現されるアレだ。
それを見て、ルイナルは目を逸らす。クローナはすました顔で下方向を見ている振りをしながら、横目でしっかり観察していた。
「サブマック大臣よ。使えなくなってから幾程が経つ?」
「あまり詳しくは覚えておりませんが、十の開けは数えたかと」
若い頃は、とにかく女の事ばかり考えていたような気がする。そして金を持つようになって女遊びをしまくった。結婚して子供が出来た後には、徐々に回数が減っていき、間隔が空くようになった。気がつけば最後にいたしたのは十年程前となっていて、その間、特にいたそうとは思わなかった。
偶に自分には手の届かない女に対して情が湧く事もあったが、それも落ち着けば特に他の女で済ませよう、と言う気持ちも起きない状態だった。
相手を選ばなければ、やろうと思えばいつでもできるさ。と言う気持ちが求める気持ちを薄くしていったように思えた。そしてここ数年は、そう言う気持ちがあった事さえも忘れがちになる毎日だった。
それが、むさ苦しい男達ばかりのこの場所で、強く、パンパンに張り詰めている。痛い程のこの張り詰め様は、かなり若い頃を思い出させる。
しかし、気持ち的にはそれほど欲情していないのが不思議だ。
この場にいる二人だけの女性であるルイナルとクローナは、それなり以上の美しさと鍛えられたバランスの良い身体をしている。若い頃であったら、欲情して身の破滅を招いていたかも、と言う気持ちになった事もある。だが、今はしっかりと弁えて冷静に見ていられた。
「して、お主の男自身はどのような感じであるか?」
「はっ。張り詰める感じは結婚する前の若き日のようであります。おそらく今までで一番の大きさになっていると推察されます。しかし心はそれほど乱れておりませんので、むやみに襲いかかるような若い情熱は起きておりません」
「うむ。まさにそのための薬というわけだな。ルイナルよ。この薬、どれほど保つ?」
「個人差と言うモノがあるそうですが、長ければ日が昇り、昼の頂に昇る程の時間だそうですが、通常はその半分と見て良いかと。それと、この薬。実は心臓の薬として作られ始めた経緯があるようで、心臓の高まりが常に続く病気の治療薬だったのを少し改良したそうです。なので、心臓が弱い方ですと薬を飲んだせいで倒れる事もあるかと」
「心臓が弱い者、か。ルイナルは我が飲んでも倒れぬと言えるか?」
「このような場で笑っていられる心臓の持ち主ならば、ほぼ問題無いかと。ですが飲んで、身体を動かすのも鬱陶しく感じるように疲れた感じがしましたら、それ以後の服用はお控えください」
「ふむ。なるほど。病気にかかる者、掛からぬ者がいるように、薬も合う者、合わぬ者とに別れるのだな」
この認識力は凄い事なのだが、この場にそれが判る物がいないのは残念な事だった。
そして一旦、話は聖域の酒に戻す事にした。サブマック大臣は、途中退席して、娼館に向かっても良いと陛下から提案されたが、頑張って最後まで事の成り行きを見てから行きますと言って、他の大臣達から感心されたりもした。
「誰ぞ、毒味をしてみたいと言う者はおらぬか?」
陛下がそう言う。しかし、ここで名乗りを上げる大臣はいなかった。サブマックはそれどころじゃ無いし、下手に我が、と名乗り出て、陛下の不興を買う事も遠慮したいと考えたからだ。
そこで、壁際に立っていた一人の兵士が名乗り出た。兵士の間では酒好きで知られる者だったが、陛下や大臣たちはそれを知らない。
その兵が名乗りだした時は、他の兵士はやっぱりか、とか、なんで陛下の前で飲もうとしてんだよ! と言う声なき罵声が無音の中で飛び交ったが、当の兵士は新しい酒しか目に入っていなかった。
そして陛下が許可を出して、その兵士を呼ぶ。
陛下の真横に侍っていた兵士が、陛下に見えない位置で兵士を睨み付けて口だけを動かして悪態を吐くが、酒好き兵士は手に持ったカップに注がれる酒しか見ていなかった。
「では、頂きます」
一度カップを捧げるように持ち上げてから、酒好き兵士はカップに口を付けてゆっくりと飲み込んだ。
飲んだのは白ワイン。兵士は安酒の赤ワインならいつも飲んでいるが、白は初めて飲む種類の酒だった。
そして、ゆっくりとだが、それでも一息で飲み干した兵士は、視線を空中に漂わせたまま、その場に座り込んでしまった。まるで、何の抵抗も無く、一瞬で死んでしまったような感じさえ受けた。
これには周りにいた兵士や大臣達もぎょっとした。陛下だけは兵士の目を見ていたので、死んだのでは無いと判っていたが。
そして静寂の時間が少しばかり続き、その後酒好き兵士はゆっくりと動き出した。
とった行動は陛下に対する土下座。
「こ、皇帝陛下! お願いがあります! こ、この酒を、どうか私めに下賜してください! 年俸も要りません! 死ぬ気で働きます! どうか! どうか! お願いします!」
その言葉の後も「お願いします」を繰り返す始末。
「判った。これは其方に授けよう。良いな? ルイナル?」
「はい。しかし、酒とは怖い物です。陛下もお気をつけくださるようにと、願うばかりです」
そして、リュックから一つの箱を取り出す。それは収納箱で、一目で判る者もいた。
「こちらに献上用の物がいくつか入っております。時間のある時にご確認ください」
酒好き兵士を少し狂わせてしまったので、言葉を選んで陛下に献上した。
「これにて、わたしからの奏上は終いになります。これらの事から、陛下にはわたしルイナルの、皇族としての籍を抹消して頂きたく存じます」
それが一番の目的だった。ナイフ、薬、そして酒、それらは、聖域と事を荒立たせる事が無いように、と言う配慮だ。全ては籍を無くすためのプレゼンだ。
「ルイナルよ。我の気持ちがわかるか?」
皇帝陛下の静かなる呟きに、謁見の間にいる者たちが凍り付いたように動きを止める。
しかしルイナルだけは、まるで無関係だとばかりに直立の姿勢になった。同時にクローナも立ち上がり、ルイナルの後ろにつく。
「ミドニール皇国、セカルド皇帝陛下。わたし、ルイナル・ナル・ミドニール・コル・セカルドは存在しなくなります。これよりわたしは、聖域の者として別の名を名乗り、ミドニール皇国とは一切の関わりが無い者として生きていきます。そして、聖域の主が死ねと命令すれば、わたしは喜んで死にましょう。聖域の主が命じれば、喜んで敵対する国を滅ぼしましょう。それが例えミドニール皇国であったとしても、わたしは躊躇いも無く全力で剣を振るうでしょう。皇女ルイナルは審判の森を騎士団と共に攻めた時に死んだのです。わたしはその報告をしに来たに過ぎません」
「ならん! 我、ミドニール皇国皇帝の名において命ずる! ルイナルは皇国に留まり、次期皇帝としての教育を受けよ」
「ミドニール皇国皇帝陛下。そのお言葉、とても、とても遅うございました」
「遅いだと?」
「陛下はわたしが審判の森を攻める事になった理由をご存じでしたか?」
「ぬ」
ここで皇帝陛下は言葉に詰まる。かなり曖昧だが、大凡の成り行きは聞いていた。
つまり、他の皇女の策略があり、ルイナルが審判の森を攻めぬと、皇位継承権の剥奪になるという流れがあった。しかしそれらは皇帝陛下が許可した話では無く、皇女たちが勝手に決めた取り決めだった。
だが、そういった皇女同士の取り決め自体を、皇帝陛下は許容してきたのも事実だ。
「皇帝陛下は、わたしが審判の森を攻める事自体を取りやめる権利を有しておりました。そして陛下はそれを止めなかった。ならば、陛下は他の皇女の策略に乗ったのです。つまり、皇帝陛下はわたしを切り捨てたワケです」
「そんな事は無い!」
「皇帝陛下が審判の森の力をご存じ無いとおっしゃられるのですか? よもや、審判の森を攻めて、生きて帰ったら皇帝にする、とでも思っていたとでも?」
「ぬぅ…」
「剣で相手を突き刺し殺し、間違いであったから生き返れと命じた愚王の物語を演じるのですか?」
「……」
「そう。わたしは皇帝陛下により殺されたのです。生き返って皇帝になれと言われても不可能です」
「黙れ! ルイナルは一時的に錯乱した。ルイナルを拘束して反省を促させよ!」
ついに皇帝陛下が兵士に命令を出した。
兵士たちは一連の流れを見ていて、かなり疑念を持つが、それでも全力でルイナルを取り押さえようと駆けだした。
しかし、その兵士たちの前にクローナが立ちはだかる。
メイド服を着て、ずっとルイナルの後ろに畏まっていたが、いつの間にか献上したコンバットナイフよりも長く、銀色に輝く刃物を持っていた。
献上したのは黒いつや消しのコンバットナイフだが、クローナの愛刀は銀色に輝いている。
実はマグロ解体にも使える刺身包丁だったりする。この世界でなら魔獣の解体にも便利そうではあった。
そして銀色に輝く全身鎧を着た兵士たちの胸を十字に切り裂く。
手加減して肉体には傷も付けていないのは初手の警告だった。もう一度来るのなら覚悟せよ、と言う事だ。
それを理解し、命乞いを選んだ兵士は下がる。選ばなかった兵士は再びクローナに襲いかかり、その両腕を切り落とされていた。
「ひっ! 腕! 腕がぁ!」
両腕を肘から切り落とされた兵士が、悲鳴を上げてのたうち回る。両手なので自分で押さえる事も出来ずにのたうち回るので、ドンドンと出血量が増えているが、他の兵士はルイナルとクローナを取り囲んでいて救護する暇も無い。
これはステンレス鋼の刺身包丁の堅さと鋭さもあるが、ひとえにクローナの刃の捌き方が上手いと言うだけだ。
「何をしている! そのナイフを使え!」
陛下が怖じ気づく兵士に、献上されたコンバットナイフを使えと命令する。つまりルイナルを拘束する事を妨害するクローナを切って捨てろ、と言う事だ。
しかし、その言葉でコンバットナイフを手にする兵士たちを見ても、ルイナルとクローナは表情は変えず、泰然と構えている。
そしてコンバットナイフを構えた兵士がクローナに襲いかかる。
その兵士のコンバットナイフを、クローナは薄いグローブをはめた手で握り、逆にナイフを引っ張って兵士のバランスを崩して押し倒してしまう。そして奪い取ったコンバットナイフを倒れた兵士の手首に突き刺し、貫通させる。しかも腕の方向に対して横向きだ。
動脈も切られているが、止血しても手の平は一切動かないだろう。
兵士たちは、槍の刃先さえ木を削るがごときに切り裂いてしまうナイフを、手袋はしていても握って奪い取り、兵士としては再起不能に陥れるクローナに恐怖した。
この皇国でも、ヒールタブレットは手に入るが、やはり高価で品薄の貴重品だ。再起不能に陥った兵士たちがその恩恵にあずかれるかは微妙だった。
それでも兵士たちはクローナに襲いかかる。
そして次々と再起不能にされていった。重い、儀礼用の全身鎧を着た兵士などは、防刃装備を付けているクローナにとっては木偶人形でしか無い。
皇帝陛下も大臣達も、そのクローナの踊るような戦い方を唖然と見ている。
大臣の一人は、謁見の間を出て応援の兵士を呼ぼうと考えたが、単に被害者でこの謁見の間を埋めるだけでは無いかと、何も出来なかった。
そして最後の兵士が呻きながら床でのたうち回る。一番始めに倒れた兵士は動かなくなっていた。
皇帝陛下とルイナルの間を阻む者はいなくなった。
そしてクローナは一礼してルイナルの後ろに下がる。
そのルイナルの後ろから、ルイナルが持っていたリュックを掲げてルイナルにリュックの中に手を入れさせる。
ルイナルがリュックの中から取り出したのは、一本の長剣だった。
それを持って皇帝陛下の元に近づくと、剣を玉座に座っている皇帝陛下の、首の真横に突き刺す。そして少しだけ首方向に傾けて手を放した。
さらにルイナルは皇帝の顔を見つめる。
「皇帝陛下。いえ、父上。情けなく存じます。王であるのならば、王であってください」
そう呟くように言う。その目からは涙がこぼれ落ちた。
その涙を見た陛下は、ただ、目を閉じ「すまん」とだけ呟いた。
そしてルイナルはクローナと共に、謁見の間で一番始めに傅いた場所に戻り一礼する。
「それでは、知己なる者たちに別れの挨拶してから審判の森へと戻ります。父上、今までありがとうございました」
ルイナルとクローナは優雅で確かな足取りで部屋を出て行く。そして扉が閉じたと同時に大臣達が騒ぎ出した。
「直ぐに追っ手を!」「誰が取り押さえられるんだ?」「しかし!」「皇帝陛下の威厳が!」「とりあえず取り押さえて!」「返り討ちで全滅!」「まずは!」「兵士たちの手当が!」「ええい!」「誰か! 誰か!」
騒ぐだけで、具体的には誰も動けないでいた。
それでも有能な者たちは怪我をした兵士たちの運び出しや謁見の間の清掃、そして陛下を控えの間に移動させる事を指示する。
しかし皇帝陛下は目を閉じ、うつむき、動こうとはしなかった。
それでも暫くして、皇帝陛下も動き出す。
一番始めに見たのは、首の直ぐ横に突き刺さる剣だ。いっそ、これで自分の首を切り落とすか? と考える。そこで初めて、皇帝陛下は自らの死を意識した。
目の前で兵士が何人も倒れていったのに、自分の死は連想できなかったのにだ。
剣の刃を見る。その鋭さにゾクリとする冷たさを感じたが、逆に自らの解放も意識させた。いっそ、死んで楽になってしまうか? その想いが強くなるが、それ以上に死ぬ事の恐怖も感じた。
セカルド皇帝陛下も、前皇帝より帝位を譲られるまでは一人の皇子として剣を取り、兵と共に魔獣と戦ったりもしていた。しかし、前皇帝が崩御したのが早く、あまり覚悟も決まらぬうちに帝位に就いたと言う経緯があった。当然のように新皇帝に甘言を弄する者たちが現れ、前皇帝の大臣達を直ぐに更迭し、新大臣での体制を作り直すように進言してきた。
若き皇帝は我が儘に体制を作り直させ、誰にも苦い進言を出させない様にしていく事になる。
そして『判っていた』事が判らなくなっていき、愚王が生まれる事になった。
本人としては、苦い経験もしたし苦労もした、と言うが、本来受けるはずだった教育からはほど遠いモノだ。
そして、その皇帝としての振る舞いを、実の娘に『情けない』と涙ながらに言われてしまった。
恥ずかしさ、情けなさ、惨めさで死にたくなった。そして周りにいる大臣達が、その自分が感じる屈辱に対して、何も役に立たないのだと判ってしまった。
さらに、それは全て自分の所業の末だと言う事も判ってしまった。
思い出すのは今の自分よりも若い年齢で崩御した前皇帝だ。
父であり、皇帝である前皇帝は、いつも自信に満ちあふれていた。何を言われても余裕で受け止め、平然としていた。
審判の森から帰ってきたルイナルを見た時に、その前皇帝の姿を思い出したのが今回の情けない話の原因だった。
そのルイナルに、涙ながらに言われて、セカルド皇帝は前皇帝に叱られたようだと納得した。
「そうか。我が父は怒っておいでか」
周りで騒ぐ大臣達には何の事か判らないが、セカルド皇帝は爽やかな気持ちになり玉座から立ち上がった。そして玉座に突き刺さった剣を抜く。
これからはこの剣を常に持っていようと心に決める。それは自らの首を落とすための、叱りの剣として。
英雄クレアチストの剣は、セカルド皇帝の愛剣となった。
「ルイナルとクローナの事は、一切手出し無用。今後一切、追っ手を出す事はまかり成らん。怪我を負った兵士たちにはヒールタブレットを分け与えよ」
強く命じて、剣を持ったまま控えの間に向かった。
この時より、ミドニール皇国は大きく変わる事になる。