第8話
「麻由ちゃん、今日は何時の予約だったかしら」
「午前中の一番最後の11時30分だよ」
「そうだったわね。それまでにお洗濯と掃除を済ませておかなくちゃね」
「お洗濯だけでいいんじゃない。お掃除は明日でもいいと思う」
「あら、麻由ちゃん優しいのね」
祖母とそんな話をしながら、検診の事が気になっていた。
最近は外で会うことが多かった麻由と護。
「検診、何度もしてるけど……よくなるのかな。私の目」
麻由の呟きを聞き、北大路医師に麻由の目は移植でしか光を取り戻せないと言われた事を思い出していた。
「麻由ちゃん、今日は護さんとお約束しているの?」
「検診の時間は伝えてあるよ」
「それじゃあ、麻由ちゃんの顔を見にくるかもしれないわね」
「そうかなぁ」
こんな会話をしながら病院へ向かった。
◇◆◇◆◇◆◇
時間は少しだけ遡り──
「今日は麻由の検診の日だな。タクシーとか使えればいいんだけど、事故のことがあるから、容易く使ってとは言えないし。今日も暑くなりそうだから、気をつけて来てくれればいいけど」
検診の時間は聞いていた。なので、時間を見て麻由の元へ顔を出すつもりだ。
「じゃあ、支度するか」
いつもより早いが準備もできたし出勤する事にした。
外はセミの声が暑さを助長し、まるで日差しが肌を焼く音が聞こえて来そうな程だった。
どこかの家の風鈴が鳴り、子供達の笑い声が聴こえ、暑くて泣くことしか出来ない赤ちゃんや、それをあやすお母さんの声がする。
信号待ちをしながら、護は持ってきた飲み物を口にした。
「はぁ。今日は今年一番暑くなりそうだなぁ」
その時だった。
信号無視をした一台の車が直進してきた車にぶつかり、運転不能になった車が、信号待ちしていた人達のところに暴走して人々を跳ねていった。
「……何だ」
鳴り響くクラクションと悲鳴。そして、護の近くからはうめき声のようなものが聞こえてくる。
「……けて。たす……け……」
次第に聞こえなくなっていく声。護の意識も遠のき始めてきた。
何台もの救急車が事故現場に到着して、次々に怪我人を乗せて救急救命を受け付けている病院へ振り分け搬送していく。
「おい、こっちだ。お兄さん、聞こえ……」
駆けつけた救急隊員の言葉が途切れた。
「これは……高岡さん! 高岡さん! しっかりしてください」
ひとりの救急隊員が、護と大学時代の学友だった。
「この男性は、雛川記念総合病院の看護師の高岡護さんです」
救急隊員は、雛川記念総合病院へ受け入れ要請の連絡を入れる。その時に、そちらの病院の看護師である事も伝えた。
「今から雛川へ搬送しますからね」
声を出せなかった護は、握られた手を軽く握り返した。
◇◆◇◆◇◆◇
救急車が到着するのを救命医や看護師が入り口で待ち受けていた。しばらくしてサイレンを鳴らした救急車が目の前に到着した。
「すぐにオペ室確保して」
そして次々に飛び出す指示にそれぞれが対応する。
「救急隊員の話ではかなりのスピードのまま歩行者に突っ込んでいったようだからね。他の病院へ搬送された方はもっと酷い状態だったと言っていましたから、高岡さんも厳しい状態かも知れませんね」
「とにかく検査結果をみて即判断しよう」
護の命は救急医療チームに託された。
一分、一秒も無駄に出来ない中、検査結果があがってくる。
「……酷いな。ご家族は?」
「こちらに向かっているそうです」
「厳しい告知になりそうだね」
「そうですね。高岡さんのご両親は医療従事者のようだから」
「大まかな状況把握もされているだろうね」
医師の会話の内容は厳しいことを物語っていた。
「高岡さん、臓器移植を希望されています」
電子カルテの備考欄に記されている内容を確認した医師が発した言葉だった。
「角膜だけは、恋人の入江麻由さんに移植を希望しています。あとはコーディネーターに一任とされています」
「とにかくご両親に話をしてそれからでしょうね」
医師たちが検査結果を見ながらこれからの治療方針などを話し合っていた。
「先生、高岡さんのご両親がみえました。カンファレンス室に案内しています」
「わかりました。すぐに行きます」
医師と看護師揃ってご両親の待つカンファレンス室に向かった。
護の両親も医療従事者であるため、事故の状況や搬送時の話を聞き、護が置かれている現状を理解しているようだ。
「それから、こちらなのですが」
出されたのは臓器提供意思表示カードだった。
「息子から聞いています。もしものことがあったら角膜だけは麻由さんに移植をしてほしいと言っていましたから」
「そうですか。それを踏まえて今後の治療など、どうされますか」
医師はご両親に語りかけた。
「息子の…………護の意思を組んであげて下さい」
医療従事者といえど、親である両親は覚悟を決めた。
「それでは1回目の脳死判定を行います」
「わかりました」
護の脳死判定が行われた。それと同時に日本臓器移植ネットワークへ連絡も入れられたが、ドナーとなる護から眼球だけは麻由にと強い希望が示されていた。
脳死判定の結果を両親に伝える医師。
「事故の際、咄嗟に眼を庇っていたのでしょう。眼球には傷ひとつありません。他の臓器は事故の凄さを物語っていましたから」
「そうですか、麻由さんにまた光を取り戻してほしいと事故の間際に咄嗟に眼を庇ったんですね。あの子らしい」
「素晴らしい息子さんですね」
「ありがとうございます」
「6時間後にもう一度脳死判定が行われます」
「承知しています」
「それまで息子さんの傍にいて差し上げてください」
医師はそう伝えて部屋を出る。看護師が、両親を病室まで案内をした。
前を歩く看護師の背後で、護の母親が声を殺すように泣いているのが伝わってきた。
「こちらが高岡さんの病室です。何かあれば呼んでください。それでは失礼します」
「ありがとうございます」
護の両親は頭を下げ、病室に入ると……。
「いや! 護っ! 起きて! お願いよ! おかえりって……また……言わせて」
取り乱す妻を、宥めながら息子を見つめる。
「本当ならお前から麻由さんを紹介して欲しかったぞ。母さんだけに紹介してたなんてなんて水臭いぞ護」
「照れ臭かったんでしょ」
「いや、それでもなぁ」
ポツポツと護を挟んで両親が会話を始めた。耳は最後まで聞こえてると言うし。ふたりは二回目の脳死判定までの間、親子水入らずの時間を過ごした──