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遠い目をするマルファンを現実に引き戻したのは、孤児院の子供──イルだった。
「せんせぇー!あのね、聞いて聞いて!!」
イルは、マルファンが意識を飛ばしていることに気付いていないのか、全力で飛びついてきた。
「ぅわおっと!」
マルファンは大きくよろめき、遂には尻もちをつく。
「何やってるの?先生、大丈夫??」
「……こら、危ないじゃないか」
痛てて、と腰をさすりながら立ち上がったマルファンの口調は、怒ってはいる。けれど、弱々しい。
「ねえ、それより聞いてよ、先生!あのね聖皇后陛下が、すごいお菓子の作り方を教えてくれるんだって!」
まさに話題で呆然としていたマルファンは、とても複雑な顔をした。それをイルは、悪い方に受け止めたらしい。救いを求めるように、カレンを見る。
「聖皇后陛下ぁ……アレの作り方、教えてくれるの駄目になったんですか?」
「まさか」
即答したカレンは、このチャンスを逃してたまるものかと早口で言葉を重ねる。
「もちろん教えるよ。あとねさっき食べてくれたお菓子は、今度のバザーに出して欲しいんだ。院長先生はいいよって言ってくれたから、頑張って覚えてくれる?」
「うーん、僕上手にできるかなぁ。お料理はミシャ姉ちゃんとライア姉ちゃんが担当だから作ったことないし……僕はお皿を並べる係だし」
「そっか。ならミシャ姉ちゃんとライア姉ちゃんを呼んできてくれる?あとお皿を並べることができるイル君に、やって欲しいことがあるの」
「うん!じゃあ僕、二人を呼んでくるね」
元気に頷いたイルは、すぐに花壇の方へと駆けていく。そして彼よりちょっと年上の女の子二人を引き連れて来た。
ミシャはそばかすが可愛い女の子で、ライアは猫目が印象的で、きっと将来はクール美人になるだろう。
二人とも背中まである明るい茶色の髪をおさげにしているせいか、醸し出す雰囲気は優し気で、まるで姉妹のようだ。
「えっと、さっき食べた飴の作り方を教えるから、キッチンに案内してくれる?」
「はい。こちらです」
カレンから見れば、おそらく小学校高学年くらいの年齢であろう二人は、まだまだ子供にしか見えない。けれど二人は、孤児院ではお母さん役を担っているのだろう。
行儀よくお辞儀をして先頭を歩き始めるものだから、カレンもつい背筋が伸びてしまう。
「聖皇后さまも、お料理できるの?すごいね」
「うん、ありがとう。私、結構得意なんだ」
「へぇーすごい!ミシャ姉ちゃんとライア姉ちゃんより上手なの?」
「んー、どうだろうね」
無邪気に話しかけてくるイルに、カレンは曖昧に笑いながら言葉を返す。
リュリュは鬼のような形相でイルを睨んでいるけれど、当の本人はまったく気付いていない。将来きっとイルは大物になるだろう。
そんなとりとめのないことを考えながら、カレンは自分が笑いたいのにそれを押え込んでいる自分に気付く。
望んでここにいるわけじゃない。心が折れそうなことは何度もあった。あの男と結婚しこの世界に住み続けるということは、永久凍土の中で生きていくようなもののはずだった。
だけれども、今、自分は生きている。それどころか笑みさえ浮かべようとしている。つまり、どんな状況でも、人は目的があれば生きていけるのだ。
「聖皇后さま!どうしたの?早く早く!!」
「あ、うん。今行くね」
つい足を止めてしまっていたカレンは、急ぎ足で子供たちの元に向かった。
狭いキッチンの中には孤児院の子供がひしめき合って、棚から物一つ取るのも一苦労だ。
しかも小さな窓と、出入口の扉には王宮の護衛騎士が顔を覗かせているので、火を使っているキッチンは蒸し風呂のように暑い。
そんな状態でも、カレンは嫌じゃない。むしろ楽しいとすら思ってしまう。そして孤児院の子供達とは、ずいぶん仲良くなったとしみじみと思う。
最初は院長先生を怖がらせる存在だと、隠れて攻撃的な目を向ける子供達もいたけれど、今では頼れるお姉さんとして認識してくれている。
実のところ、カレンは一人っ子のせいもあって、自分よりかなり年下の子供にどう接していいのかわからなかった。
けれども、身構えていたのはカレンだけ。子供たちは、自分たちに害を及ぼす存在ではないと知るや否や、あっという間に心を開いてくれた。
おかげでカレンも、今ではすっかり打ち解けることができている。
「こらぁー!まだ触っちゃ駄目!!ここで我慢しないと美味しい飴にならないんだからね!」
と、怒鳴りつけることができるくらいに。
孤児院の子供たちは、好奇心旺盛であるが聞き分けがいい。駄目と言われたら、すぐに手を引っ込める。
ただ、辛抱強くはなかった。
「リュリュさーん、待っているあいだ、お外で遊んで!」
「ずるい!僕にも高い高いして!」
「駄目だよ、リュリュ姉さまは私と一緒に花冠を作るんだからっ」
「えー」
侍女を取り合いする子供達に、カレンはクスクスと笑う。美人で力持ちなリュリュは、大変な人気だ。
名前だけの聖皇后より、頼れる奇麗なお姉さんに惹かれるのは当然のこと。
変な気遣いをしない子供達を見ていると、抑え込んでいた笑いだってついつい出てしまう。
「あははっ、子供って素直」
「うん。リュリュさんは素敵な人だからね」
いつの間にか隣に立ったアオイが同意する。まるで、自分が褒められたかのように誇らしげだ。
「リュリュさん、もうこっちは大丈夫だから外で遊んできてくれますか?」
「……ですが」
「大丈夫。アオイと一緒にいるから。それに今日中にラッピングのやり方もちゃんと教えてあげたいの。お願い……ね?」
主にお願いされれば、侍女は頷くしかない。
「わかりました。アオイ、カレン様に粗相のないように。わかりましたね」
「はい、はぁーい」
「”はい”は一度だけで結構です」
キッと強くアオイを睨んだリュリュは、カレンに向けて腰を落とすと、やんちゃな子供達を外に連れ出した。
残されたのは、ミシャとライアを始めとする、比較的年上の子供達。圧倒的に女の子が多い。
「じゃ、飴が固まるまでラッピングの仕方を教えるね。まずこの紙でお花を作るんだけど──」
窓から見える太陽は、もうかなり西に傾いている。カレンは心なし早口なりながらも、丁寧に子供達にラッピングのやり方を教えていく。
(本当は、明日も明後日もここに来て教えてあげたいんだけど……ごめんね)
バザーの企画会議をする前に、アオイは適材適所があると言って、役割分担をした。リュリュとアオイは資金を用意して、カレンは交渉担当をすると。
孤児院の院長との交渉は、なんとか終わった。けれど、もう一つ面倒な交渉が残されている。
その相手とは、カレンがとことん毛嫌いする男──ウッヴァだ。
カレンは今日、自らの意思でウッヴァに誘拐されることを選んだ。




