すきま
呑み会の翌日。
どっかの誰かさんが暴走してくれたおかげで、二日酔いの症状はない。
ただ、頭がぼーっとする。
帰宅直前に見えた景色が焼き付いて離れてくれない。
いつも通り目の前のパソコンを起動させ、仕事の準備をしていると、頭の回らない元凶を作った張本人がやってきた。
「松永、ココ。顔に白いもの付けてるぞ」
川崎が頬っぺたを指しながらニヤニヤしている。
「白いものってなんだよ」
「ご飯つぶに決まってんでしょ。小学生じゃないんだから。それとも食いしん坊?食欲高まり過ぎてる?」
言われるまで気が付かなかった。自宅から駅まで向かう間で買い食いをしたおにぎりのヤツだ。
ってことは電車の中もこのダッサイ感じだったのか!?顔が少し熱くなっていくのがわかる。
「あぁ。わりぃな」
少し小声で、川崎の指していた自分の顔を片手で撫でた。
恥ずかしさを紛らわすために、語彙力の欠片もない軽度な返事しかできなかった。
「あ、今なら松永の頭にヤカン乗せたらすぐお湯が沸きそう」
「私はコンロではない。正真正銘人間だ」
「いや、どうみても電熱線丸出しでフルパワーの電気コンロにしか見えない」
「お、お前に言われたのが恥ずかしすぎるだけだ。ボチボチ仕事に取り掛からないと納期間に合わないぞ?」
川崎はキョトンとしている。
「私、今回経理がメインだから納期とか関係ないよ?早く終わらせてくれるに越したことはないけど」
「こっちの仕事が進まなくなるんだよ。ほら、早く戻った戻った」
邪魔ものを追い返すように、向こうへ行けとジェスチャーをする。
川崎は自席へ少し戻りかけ、こちらに首を回した。
「何か私に言うことはないんでしょうか?」
若干見下した目線が飛んでくる。
「言うことなんざねーよ。いいから戻れよ」
どうにか追い返して作業に取り掛かりたいのだが、彼女はこちらを見たまま動こうとしない。
どうやら求める言葉を言うまでは帰る気がないようだ。
それだけにとどまらず、少しずつ顔を近づけてくる。
「本当に無いのぉ?ちゃんと言ってくれれば貸しは無しにしてあげるんだけどなぁ」
不敵な笑みは少しずつこちらとの距離を詰めてくる。
ひょっとして、このアホは昨日のことは忘れてるのか?ケロッとしているのがやたら癪に障る。
「松永が言ってくれないと、私自分の席に戻れないんですけどぉ?」
彼女はこの状況を完全に楽しんでいる。しかし、私は昨晩のあの光景がフラッシュバックするせいで、どうにも思考回路が働かない。
一か八か、揺さぶりに出るか。
私は小声で質問をすることにした。
「……川崎さんこそ、昨日の件で私に言うことがあると思うのですがどうでしょうか?」
顔の距離が近い分、周りには聞こえないだろう。そもそも、この状況がおかしいのだが。
多少なりとも覚えていれば、顔が赤くなるなり逃げ出すなり反応があるだろう。
さぁ!思い出せ!昨夜の過ちを!
川崎に向けていた目線をパソコンに戻し、回答を待つ。
「それは……その……」
ん?モジモジしている?
やっぱりこれは……。
私の中で確信し、顔を戻すと、平常通りの顔色の彼女が若干申し訳なさそうに立っていた。
「実はさ、あんまり覚えてなくて……」
はい?まさかのそっちですか?
あんなことしておいて覚えていないんですか?少しはこっちの心労も考えてくれよ。
「一軒目でお手洗いに行ったところまでは断片的に覚えているんだけど、そこからどうやって家に帰ったかも思い出せないんだよね。気づいたら朝だった」
そう言いながら彼女はこめかみをポリポリと掻く。
これは、本当に忘れてしまっているのか。
あの大暴走を忘れていてくれてよかったと少し安堵した。
いやいや、全然よくないんだけど。
「そっか。こっちは色々大変だったんだぞ?大いに反省してほしいくらいなんだが」
どうにもばつの悪い表情をして、こちらを見てくる。
「マジで昨日のこと何も覚えてないのか?」
「マジだって。気づいたら朝だし、上裸だった訳も全くわからない」
いやぁ。その現場私が全て見ていたんですよ~なんて軽口風にでも言えない。喉仏を超えたらアウトすぎる。
そんな時、後ろから朝には似合わないほど元気すぎる声がフロアに響いた。
「よーお前ら。昨日の夜はお二人楽しいことでもしたのかい?」
中川だった。
というか、朝から声がデカすぎる。オフィス中からの視線がこちらに集まるのを感じた。
「よ、夜ですか?一軒目のあと?」
心当たりのない川崎は、間の抜けた声で返事をする。
オフィスは声を逃さないよう聞き耳を立てる奴らで溢れている。そんな気がする。
「そうだよそうだよ!二人で夜の街に消えていってさ~その後のことですよ」
ざわつくオフィス。
終わった。
超健全童貞キャラで通していたイメージが、音を立てて崩れた。
「松永ぁ。お前だって健全な男だろ?いやぁあの後楽しい楽しい夜のひと時を二人で過ごしたんだろうなぁ」
ニヤニヤの中に中川の期待が溢れ出ている。
あなたのせいでこっちはキャラ崩壊の危機なんですけど!?
ソワソワしていると川崎が口を開く。
「実は、私昨日のこと全然覚えてなくて……」
「ということは、松永はさらに飲ませたうえで……」
「してないですよ!飲ませてなんていないし、ただ自宅まで送っただけです!その後はなにもありませんから!」
朝から変態志向な中川を遮って訂正する。これが精一杯。
「なんだよつまんねぇなぁ。それなりのことするものだと思ってたのに。その報告を楽しみに出社してきたんだぞ?」
「すいませんね。ご期待に沿えず」
呆れた声しか出ない。
第一、そういうことに及ぶということは相互間でそれなりのことが必要でしょうが。
そこを守る自制心くらいあるわ。
反論したかったが、周りの少しざわつきが収まったので心の中にとどめておくことにした。
「残念だな。川崎、松永には気をつけろよ?」
「だから、そういうことしませんって!そういう対象として見れないので!」
私は、ハッキリと言い切った。
目の前の川崎を見ると、何故か不満そうな表情をしていた。
その後も少しのやり取りがあり、ある程度満足したのか中川はデスクへと向かっていった。
「これで貸し借りはないぞ?」
「う、うん。なんか迷惑かけてたっぽいね。ごめん」
「飲むペースは気をつけろよ。ほら、早く戻った戻った。仕事が進まない」
「こ、こっちだって手に付かないわよ!」
川崎は急に逆ギレをし、席へと戻っていった。
この日、退社するまで川崎とは事務的な会話しかしなかった。
その最中もずっと不貞腐れっぱなしで、こちらもどう話しかければ良いのかわからなくなってしまった。