酸酢の川を越えて
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
うう、なんだか最近、立ちくらみが多い……風邪なのかなあ。
こうね、少しでも頭を傾けると、そのまま世界が、天地逆転への下り坂を転げようとするって感じ? そんで戻そうとすると、平らになるのを通り越して、今度は反対側が坂になって、ぐぐうっと……うあ〜っ、気持ちわり。
どっちつかずの状態ってさ、ずっと続いたりすると、もうなりふり構わず暴れて、壊したくならない?
死ぬんだったら死ぬ、生きるんだったら生きる。はっきりしてほしい。
その手の仕事に就いている人には、失礼な考えかもしんないけどさ。僕はけが人、病人なんぞいない世の中にならないかな、と思っている。良くも悪くもだ。
治るんだったら、一瞬で治して、戦線復帰。治る見込みがないのなら即座に、ズバッ、バシュッ、チーンで終了。お疲れ様でした〜って具合に……。
不謹慎? あら、そう? 「時間」という、最大の共有財産が守られるわけだけど、ダメ?
昔も早さを重要視する考えは同じようでね、一刻も早い快癒に挑戦した、とあるスペシャリストたちの話があるんだ。どう、聞いてみない?
病気治療の歴史としては、薬よりも祈祷の方が古いことは、周知のことと思う。
魑魅魍魎が運んでくる悪い気こそが、病の発端。ならば、それを寄せ付けなければいい。
色々な手段が採られたけれど、病を受ける者が、いなくなることはない。
大病を患った者、特にそれが政に関わるほどの立場であるならば、その祈祷の規模は万人の知るところとなったらしい。民たちは祈祷が終わるまでの間、外出さえ制限されることがあったとか。
何も、穢れを防ぐためとは限らない。祈り、祀る以外の方法で、穢れと戦う者たちの存在。それを極力、知られないようにするための配慮だったんだ。
今となっては、だいぶ昔のこと。時の帝が、大病を患った。
歳はまだ、二十になろうかどうか。跡継ぎが生まれ、わずか半年後。政も軌道に乗り始めた、これからという時期。大事だった。
すぐさま国中の高僧たちが集められる一方で、とある集団にも密かに命令が下る。
彼らは表向き、百姓として様々な仕事をこなしながら生きている。だが、その実は「武芸」によって、祓うことを目的にしていた。奉納演武などではなく、だ。
祈祷が始まった夜半の村はずれ。物忌みの令が出され、虫の羽音がとぎれとぎれに耳を打つ暗闇の中で、彼らはそれぞれの得物を手に集まった。
刀、槍、弓、薙刀といった、普段の戦で扱われる武器に加え、細い針を数百本も入れた袋や、松明と火打ち石といった備え。
当時の火打ち石は、神器に次いで珍重されたもの。朝廷から、この集団へ託されたものだ。
この時、初めて参加した新参者がいたらしい。のちに語られる彼の証言は、このようなものだ。
彼の得物は、刃に返しのついた小太刀。両手に持ち、攻め、防ぎ、投擲を状況に応じて使い分ける技量が求められるものだった。
一同は橋のたもとに集まると、頭を務める者が、前に出て話し出す。
「これより、我らの任を果たす。すでに参加した者は承知しておろうが、我らがこれより赴くは、川を越えた先。いわば、境を越えた先だ。
諸君らが、川手前に当たるこちらで培った、常識、思い込み。それらをすべて捨て去り、あるがままをとらえるのだ。
そして、いたずらに猛るな。駆けるな。逃げ出すな。それは無用の綻びを産み、川向うを傷つける。それは、川手前のこちらにも厄を呼ぶぞ」
その言葉にそれぞれがうなずき返すのを見ると、頭はふところから小さな竹筒を出し、川べりへと歩み寄って、その中身を垂らし始めた。
とたん、鼻をつまみたくなるほどの強い臭いが漂い始める。
酢だ。酒と共に造られ、なますや漬物に使われている、調味料のひとつ。その臭いが、たちまち川全体を染め上げ、己の存在を主張し始めたんだ。
「ゆくぞ。くれぐれも、気をつけてな」と、頭はそのまま足を川の中へと入れて、上流に向かって歩いていく。
浅い川だ。中心部の深いところでも、せいぜい太ももの中ほどまでしか浸からない。なのに、彼の先に水の中へと歩を進める者の口から、時々、痛みや辛さをこらえるような、「くっ」という、うめき声が漏れるんだ。
彼自身も、足を踏み入れて初めて、その理由を理解する。
熱い湯に身体を沈めた時か、それ以上の痛痒さが、踏み入れた足から尻へ、尻から背筋へ駆けあがってくる。同時に、服の内側からいばらが生えたかのような、ちくちくとした刺激が、絶え間なく湧いてくるんだ。
自分の前と後ろを歩く者たちも、同じものを感じているはず。でも、退く様子はまったく見えず、彼自身も投げ出すわけには行かなった。
川を上がり続けてしばらくすると、夜の闇でもはっきりと見えるほどの、白いもやが漂い始めた。それにも怖じず、なおも先へと進む一行だが、新参の彼にはこれも初めてのことだったんだ。
もやが冷たいのではなく、痛いと感じることは。虫に刺されたところを、ついかきむしってしまい、直後に水をかぶったかのような、あの痛さ、むずがゆさだ。
足元も、また違ってきている。当初の不ぞろいな石の感触こそあれど、根っこは確かな硬さを保っていた川床。それが今では、水の痛痒さはそのままに、一歩ごとに沼のように沈み込まんとする、弾力に満ちている。
ふと、最前列を進んでいた、頭が飛び上がった。
並みの跳躍ではない。列の中ほどを進んでいる彼でも、頭の伸ばしきった足が、前を行く者たちの背丈に邪魔されず、はっきりと見えたんだ。
両手からきらめくものが、それぞれ向かって左右の斜め下へと放たれる。
聞いたことのない断末魔があがった。人でも、獣でもない、くぐもった声。
「全員、散れ! 掃討にうつる。事前の通達を守り、対象を殲滅せよ。
ただし、肌に熱を感じ出したならば、すぐに川の中へ退けるよう支度をするように。
そして、投擲する時は外すなよ。外したならば、速やかに回収せよ。何度もいうが、いたずらに傷をつけるな」
声と共に、全員が左右を問わず、川から上がって得物を抜き始める。彼も足を動かしつつ、頭が仕留めたものを確認する。
川を挟む形で、水面のへりに無数のイガが生えた、なめくじらしき影が見える。闇ともやの中でもはっきりと視認できる、毒々しい紫色をしており、大きさは大人の足二本分はあるだろう。
事前に受けていた通達と同じ容姿。大きさはまちまちだとも聞いている。
彼も伊達に訓練を積んできたわけではない。
紫色のイガなめくじは、あるいは川床とほぼ同じ、柔くなった地面を這い、あるいはもやのかかった宙をムササビのように飛び回る。近ければ切り裂き、遠ければ投げて突き刺した。小太刀は、予備を含めて何本かある。
また一本、宙にいるイガなめくじに投げようとしたところ、直前でなめくじを包み込んだものが割り込んだ。
周りのもやよりなお白い、大きい袋。それがなめくじをすっぽり包んだかと思うと、また彼方へ飛んでいく。
「白んぼは味方だ。俺たちと敵を同じくしている。間違っても手を出すなよ。敵と思われたら、俺達までぱくりと食われるぞ」
そばにいる誰かが注意を飛ばし、彼はあわてて小太刀を下げると、新手の気配を探り出す。
どれほど経っただろうか。冷えていた空気が、不意に暑さを帯び始めた。
気温の変化は著しく、瞬く間に手足が汗ばみ出す。
「潮時ぞ! 全員、川の中へ退けい! 元来た道をたどり、戻るのだ!」
頭からの下知。全員が川へと一目散に駆け出す。
彼もそれに従ったが、川に入る直前。あのイガなめくじが一体だけ、自分の脇から突っこんでくるのが見えた。
処理する時に、不覚にも何度か触ってしまったことがある。想像通り、筋をえぐるような深い痛みとしびれを感じる。短時間でこれなのだから、激突した時など、想像もできない。
反射的に小太刀を振るったが、なめくじと小太刀の間に、白んぼが割り込んだんだ。
止められなかった。なめくじを絡めとるべく、大きく身体を広げた白んぼ。その身体の中心部分を、小太刀が浅く切り裂いてしまったんだ。
白んぼの肌は、裂けたはしからつながって、あっという間に小太刀の刃先を取り込んでしまう。抜けなかった。
彼が、そう感じるや、なめくじ側に膨らんでいたはずの白んぼが、こちら側に向けて、すぐさま大きく広がった。それは、彼の全身を包むのに足りる大きさ。明確な捕食の意思表示。
とっさに小太刀を手放して、川めがけて転がらなければ、彼は白んぼに捕まっていただろう。起き上がった時には、大きく開いていたはずの白んぼの口が、しっかりと閉じている様しか見えなかった。小太刀はおそらく、あの中へ残されたまま。
彼は正面を含め、四方から迫ってくるものに目を走らせつつ、川に入る。先ほどの彼の不手際を多くの人が見ていたらしく、直接の咎めはなかったものの、その歩みは行きとは比べ物にならないほど早い。明らかに、白んぼたちから距離を取ろうとしていたわ。
川床から弾力がなくなり、石を散りばめた地面に戻ると、頭の指示で各々が川から上がり始める。もやもすっかりなくなっており、そこにあったのは見慣れた村はずれの景色。それを確認したあと、ようやく彼はひとしきり怒られる。
「お前のしたことは、すぐに形に出るぞ」と脅され、翌日にそれは現実となった。
夜通しで苦しまれていた帝の体調が、回復したのだ。癒しの祈祷が終われば、今度は祝いと感謝を捧げる祈祷の準備と、関係する者はせわしなく動いた。
その影で、帝を診ていた神職の者から頭へ、渡されるものがあったんだ。回復する直前、帝は口からこれを吐き出したのだという。
頭はすぐに彼を呼び、かのブツを見せる。
それは米粒のように小さくなっていたものの、かすかに見える柄やつばの意匠から、彼が扱っている小太刀と、まったく同じものだということが、分かったらしいんだ。




