我未だ故人の憂うところを知らず
初めて会った時、その金髪がひどく印象に残っていたのをよく覚えている。初めて触った時の感触とか、それに照れた表情も。そこに輝いて確かに俺を写しこんだ青い宝玉も。
馬鹿みたいに呆気ない、捨てようのない感情を抱いている自信はあった。おそらくずっと前から。
だからこそ、こんな生活も幸せだと思えていた。
✴︎
任務が終わった直後、ヴェールからの連絡でイルの負傷を知った。
ブリーフィングを蹴ったのは初めてだった。全てを完璧にこなすこと、それが俺のやるべきことだと思っていた。「俺一人いないだけでブリーフィングも進められないのか」と、言い訳みたいな叱責までして抜けてきた。
とはいえ、時間はさして余っていない。
走ってきた勢いのままヴェールがいるはずの部屋の扉を開ける。音が思ったより響いた。
部屋の中には何人かのスナイパー部隊の隊員達。
「ディオ兄!ブリーフィングは」
驚いた顔に答える。
「蹴った」
「えっ?」
「少し借りるぞ」
そう断ってヴェールの腕を掴んだ。会議の途中ならここで話すのは迷惑になると思ったからだ。
部屋の外へ出る。
それと同時にヴェールを振り返った。
「ヴェール、イルは大丈夫なのか、容態は、なにがあった」
「ちょ、ディオ兄、そんなたくさん聞かれても」
「会ってきたのか、意識は。後遺症は、どれくらいで治るんだ」
「ディオ兄落ち着いて!」
「俺は落ち着いてる!」
はっとして息を止める。怒鳴るなんて、そんなつもりはなかった。
取り乱していた。困った顔のヴェールを見てやっと息を吐く。
「…すまない、お前の言う通りだ」
その言葉を聞くとヴェールは少しだけ笑う。
「大丈夫。まず、師匠は生きてるよ。負傷したのは部下を庇ったせい。意識はまだ戻ってないけどそのうち戻るって先生が言ってたよ。後遺症とかは、俺には分からない」
「……そうか、ありがとう。それと…さっきは」
遮ってヴェールが手を振る。
「いいよ、そんなの。…っていうか、ちょっと安心した」
「安心?」
「ディオ兄、師匠のことになるとちゃんと焦るんだね」
もうとうに大人になった少年はそう言って笑った。
✴︎
深夜の医務室は光ひとつない。月の明かりだけが青く差し込む。どこにいるかはヴェールから聞いていた。一番手前。横たわった影は片方だけの目を開かせている。青い宝玉。繊細な金色がいつにも増して艶めいている。
一枚の絵画のような。
こんな時なのに、怪我人に悠長に見惚れられる自分が忌々しい。
不意にその唇から弱く声が零れ落ちた。
体を凍りつかせる。
ーまもれなくなるー
「いつまで起きてる。体に障るぞ。」
絵画の一部は瞳を大きくして体を起こす。
「ディオ…そっちこそ、疲れてるのに。」
疲れている。そうだ、疲れているに違いない。だけどそんなの気にならなかった。お前が怪我したのに俺が放っておけるはずがない。
「……お前が、被弾したって聞いたから。」
そう言うと友人は眉を寄せて笑った。
「俺、寝てたらどうするの。」
「そのつもりで来たんだ。寝顔だけ見て帰るつもりだった。」
絹より滑らかな髪を掬う。さらさらと手応えなく落ちて行く。
「……、ごめん。わざわざ来てもらって。」
謝られる筋合いは無い。素直に喜ぶ性格では無いのは知っているから構わないけれども。
「……ヴェールから聞いた。部下を庇って被弾したそうだな。」
「そういうわけじゃないよ、そのまま撃ち殺そうとしたのがよくなかっただけだよ。」
自分を見つめている左の青、の片割れが覆われているはずの右側の包帯。手をのばしかけて、代わりに尋ねる。
「包帯は、いつ取れそうだ?」
「明日取ってくれる予定。」
こいつが弱音なんて言えないことは分かっている。だけど、
「……痛む、か?」
友人は口元を引き結んで黙り込む。
「イル?」
思わず呼びかけると、ふわりと笑う。嘘の前の癖。
また嘘を吐くのか。
「……へー、」
「平気、なわけないだろ。お前、俺にまで虚勢を張るのか?」
どうしてお前はそうなんだろうな。頼らない、いや。頼れないのか。俺にも。
「……ディオ、」
控えめに名を呼ばれる。
「イル、どうした?」
「キス、して……?」
どうして、とも、体に障るから、とも言わなかった。ただ、呼び寄せた。
ついさっき寂しげに動いた唇を思い出す。
…なぁ、守れない、って俺のことなのか、イル。
「んっ………あ、熱……おれ、」
「気にしなくていい。うつしてしまえ、」
守って欲しいなんて一回も思ったことはない。守りたかったのは俺の方なのに。守るはずだったのは、俺の方だろう。なんで、どうしたら変えられたんだろうこの未来は。
唇に触れた体温が消えて、代わりに肩口に重みがかかる。
「っ………イル、?」
「ディオ……いたい、」
俺には曖昧な言葉をかけてやることしかできない。
「もう我慢しなくていいから。」
「っ……ごめん、ごめんね、ディオ」
金髪が手に馴染む。
謝らなきゃいけないのは、俺だ。
✴︎
「イルが軍法会議に?そんな馬鹿な」
目の前に立つのはシルヴァ先生。血の気が引いた顔をしている。
「本当の話だ。現に連れていかれた」
「何故」
言いづらそうに告げられる。
「スパイ容疑だそうだ」
口の中に血の味が滲んだ。
「あいつの作戦に世話になっておきながら…取り調べもなくそんなことが許されるのか」
「俺に聞くな!」
最近、イルの様子がおかしいのは気づいていた。明らかに痩せたのも、これの所為か。
あいつの周りで、なにが起こっている。
✴︎
次に医務室へ行ったのはしばらく経ってからだった。イルはまだ軍法会議から帰っていないと先生に告げられた。
「あいつの容態は?」
聞くも、先生は顔をしかめて答える。その顔はあくまで平静を装っているが不安さが滲んでいる。それに、やりきれない怒りも。
「良くなってるわけないだろう。ここ、何日も出頭要請が出て一日中軍法会議で問い詰められてる。熱もそうだが、精神的にも参ってきてると思う。」
「…人に頼ることを知らないんだ。」
ふと零していた。弱音を吐くつもりはなかったのに。
「いつもいつも見栄を張って平気、大丈夫、って言うんだ。しんどいなんて言ったところを見たことがなくてな。」
不安?不安なのかは分からない。でも、それを誤魔化すために笑いを含ませる。
「怖いんだ。気づかないうちに壊れそうで。」
俺じゃだめなんだ、本当は。ずっと分かっていたのに、俺はあいつを解放してやれないままで。
「先生。あいつのこと頼む。俺では、」
「バカ言わないでくれよ。俺なんかよりずっとディオのほうがイルバのこと分かってるんだから。」
「……ああ、そう、だな。」
わかっていられたら。本当にそうならこんなこと思わない。
自嘲した、それに合わせるように扉の外から物音がした。それきり音は止む。
「誰か、そこにいるのか?」
半分、いや。ほとんど見当はついていた。あいつを分からないくせに未練みたいにあいつを見つけるのだけはうまい。
「……イル?」
「こな、いで。」
「イル、」
扉の外の声は震え気味に、しかしはっきり答える。
「今、ディオに会いたくないから…来ないで。」
「……、ここから出ないと俺は部屋に帰れないし、お前はこの部屋に入れないが。」
扉の外は静まり返る。
シルヴァ先生は俺を押しのけて扉の前へ進む。
「イルバ?どうした?どこか痛いか?」
「……どこも痛くは、ない。」
そっけない返事に先生も声質を変えた。
「…イルバ?」
それならばいっそ、頼られないなら無理やり支えて仕舞えばいい。
溜息。一気に扉を開ける。
「っ!!なん、」
フードを被った友人は大きく肩を揺らす。
「何でフード被ってるんだ?」
あぁ、これじゃ責めてるみたいだ。
避けるように下を向く。
「おい、イル。下向くな。」
「や、だ。」
俺はそんなに頼れないか。
「おい、ディオ……」
先生が止めに入ろうとする。
「やめっ…!!!」
フードを剥ぎ取った、眼前には白。月明かりを吸い込むような、白い髪。背後からも呼吸音。
「お前…髪、」
「なんでっ……みる、の」
泣きそうな気がした。
「っ……なぜ隠す必要がある?」
何で隠してたのか、そんなの分かってる、でも。
「だって……だって!」
「イルバ、落ち着け。」
先生が背中を撫でて落ち着かせようとする。
その背中が、ぐらりと揺らぐ。
「イル…おい!」
焦って声をかけるが、イルはすでに意識を手放している。支えようとした腕に体重を乗せて崩れ落ちた。
「…この、馬鹿野郎」
先生が、苦い顔をして言う。
「……髪、白くなるものなのか」
「おそらくストレスからだろう。それにしても、これはあんまりだ」
イルを抱えあげようとした先生を制止し、代わりに抱き上げる。
「…ディオ、イルバを守ってくれよ」
背中に聞いた小さい声。
「お前がやらなくて誰がやるんだ」
そうだ。守れなかったとかじゃなくて、今目の前にいるこいつを守る方法を考えないといけない。
これ以上壊すことは許さない。
数分後、俺はスナイパーの作戦室へ向かっていた。