紅の右手
日曜日の午後。
台所に立つ私はふと手を休めて、窓の外に目を向けた。
「いい天気……」
この駅前で弟と待ち合わせした日のことを思い出す。
あのときは突然知らない男の人に声をかけられて困っていたところを、惟定くんのお姉さんの香さんに助けてもらったのだった。
今日みたいな絶好のお出かけ日和には、街では誘い誘われ新たな恋が一つまた一つと芽生えているのだろう。
それなのになぜ私は自宅の台所で、
「キムチ作ってるんだろう……」
真っ赤な香辛料まみれの手を見つめて虚しい吐息を漏らす。
そこへ2階から足音が下りてきて、将司が台所をのぞき込んだ。
「キムチ臭っ」
「当たり前でしょ、キムチ作ってるんだから」
普段から表情の変化に乏しい将司が眉を下げる。
あ。哀れまれてる……。
「日曜の昼間から女子大生のやることかよ」
「っ……」
涙ぐみながら白菜の塊を投げつけようとする私を見て将司はたじたじと後ろずさった。
「こ、惟定の家に行ってくる」
「え、惟定くんの?」
「あいつのトコで遊ぶついでに学校の課題終わらせてくる。あいつ勉強だけはそこそこできっから」
「そっか。いいなぁ外に出る用があって……あ、キムチちょっと持っていく?」
「い、いやいい」
「もし惟定くんのお姉さんに会ったら、よろしく伝えておいてね」
「惟定の姉ちゃんに? なんで?」
「この前お世話になったし、そのあともいろいろ相談に乗ってもらってるから」
「相談? なんだよ相談って」
「なんでもいーの。とにかく、お願いね」
「分かったよ」
将司は出ていきかけて立ち止まり、また顔を出した。
「姉ちゃん、悩みでもあんの?」
「え……?」
「なんか最近元気なかったから」
「な、なにもないわよ別にっ。大丈夫だから行ってらっしゃい、惟定くん待たせちゃ悪いでしょ」
「ああ」
今度こそ将司が出ていき、玄関のドアが閉まる音がした。家の中がまたしんと静まり返る。今日はお父さんもお母さんも朝から出かけていて、これで家の中には私一人。
「最近、かぁ……」
ときどき妙に勘が鋭いから将司も困り者だ。いつもはボーっとしてるくせに。
でも、私がある深刻な悩みを抱えているのは本当のことだった。
それは……
これまで生きてきた20年間で、一度も恋愛経験がないこと。
再認識した問題の重大さがズーンとのしかかってくる。漬物樽に白菜を押し込む手が自然と停止する。
わ、私、本当に今こんなことしてていいのかな……?
そのとき、ピンポーンとチャイムが鳴って私はハッと我に返った。気がつけば目と鼻の先に漬物樽があって、慌てて顔を上げる。危うくキムチの中に顔を突っ込んでしまうところだった。
「どうしよう、手がキムチまみれなのに……」
急かすように再びチャイムが鳴らされる。
「わっ、分かりましたー!! ちょっと待ってくださーいっ!!」
しょうがないからもうこのまま出ちゃおう。大丈夫、きっと宅配かなにかの一度限りの関係よっ。
スリッパをパタパタ鳴らして廊下を走り、玄関のドアを開ける。
ドアの向こうに立っていたのは、私がよく知る男の子だった。
「こ、惟定くんっ!?」
「キムチ臭っ!!……え、美雪さん……!?