妻とパソコンと私と私と
妻が新しいパソコンを買った。パソコンといえば昔は高価な機材の代名詞だったのに、ここ十年くらいの値下がりには驚くばかりで、いまでは六、七万も出せばそれなりのものが手に入る。いい時代になったものだ。しかし手軽になったせいか、最近はパソコンも一人一台というような思想が広がりをみせて、何だか家庭内での位置づけも変わってきたように思える。そう、ふた昔前のテレビのように。要するにパソコンはプライベートな箱、ひとりひとりの部屋みたいなものになったのだ。妻は普段私にパソコンの中身を見せないし、私も見ようとは思わない。逆もまたしかりだ。夫婦の仲にも秘密ありといえば妖しげに聞こえるが、私はこういう切り分けがあってもよいと思う。やはり所詮は人と人、全てを共有できるなんて考えは幻想だ。無理をして合わせるよりは、こういった自分だけの空間を持つほうが健全だろう。すべてを知ることが常に善ではないのだ。
とはいったものの、妻の新しいパソコンには私も興味があった。なにせうちで新しいパソコンを買うのは三年ぶりなのだ。本格的なセットアップと古いパソコンからのデータ移行は週末にすると言っていたが、妻は新品が嬉しかったのか、昨晩ひとりで箱から出してしきりにいじくっていたようである。何でも前のパソコンでは動かなかったソフトが動くらしい。寝る前にも子供みたいに興奮していて、そんなに嬉しかったのかとこちらまで少しいい気分になった。そして今夜、妻は生け花教室に出かけている。最新機種というものがどんな感じなのか、ちょっと見てみたいと思うのも人情だろう。
電源を入れるとピコリと軽い音がして、黒い画面に時代がかった英文字が溢れた。しばらくしてウィンドウズが立ち上がる。私のパソコンに比べても、起動は確かに早かった。すぐにこのスピードにも慣れてしまうのだろうが、買い換えの時のこの瞬間が私は何となく好きだった。別に自分が凄くなったわけでもないのに、PCユーザーとして成長したような気分になれるからである。もっとも、これは妻のPCだが。
デスクトップは寂しいほどにスカスカだ。お決まりの官僚的なアイコンと、頼んでもいないのに付いてきたと思しき見知らぬショートカットが数個あるだけ。スタートボタンを押して軽い探索を行う。これはわかる。これはなんだろう。これはわかる……。
その中に、クリップボード・フリーザーというものを見つけた。クリップボードの中身を保存しておくようなものだろうか。見れば微妙にアメコミ風のアイコンで、どこか外国で作られたフリーウェアか何かだろうと察しはつく。ひとつ試しにと起動してみた。
立ち上がったウィンドウを見て、私はおっと声を出した。ソフト自体は単純なもので、上部に簡単なメニューバーが一本、その下はクリップボードの中身でも表示するためだろう、大きな四角い枠になっている。私が驚いたのはその枠の中身だった。そこには白地に赤の妙な飾り文字で、「山田 一馬」と書いてあったのだ。私の名前である。
少し考えたのち、これは妻が何かの設定にでも使った名残だろうと見当をつけた。しかし設定するようなものが何かあっただろうか。インターネットにもまだ繋げていない。仕事で使うアプリケーションもまだ入れていない。もしやパソコンショップの店員が動作テストの時にでも入れたかと思ったが、それも奇妙な話である。私の名義で注文したが、別に客の名前を使うテストがあるとも思えない。
だがその飾り文字がやけに気になった。そもそもこれはテキストなのか、もしかしたらグラフィックかもしれない。試しにメモ帳を開いて、そこにCtrl+Vでペーストしてみたが、何も起きなかった。それではとペイントを開いてそこにペーストしてみたが、やはり何も起きない。一体何だろう。
「何してるんだ?」
背後から聞き慣れない、だが妙に親しみのある男の声がした。私は椅子から飛び上がった。いまこの家には私ひとりのはずだったからだ。そして振り向いてもう一度驚いた。そこに立っていたのは私だったのだ。いや私たちと言うべきか。というのも私の背後にいた私の数は二人、すなわちこの私を含めて私は三人、つまり要するに私が二人増えていて、「私たち」は「私」の複数形で……?
「だ、誰だッ!」
思わず素っ頓狂な声で叫んだ。相手は一瞬目を丸くしたが、続いて私を小馬鹿にするように、いや面白がるようにふふふと笑った。
「誰って、お前さ」ひとりが答えて、もうひとりが頷く。
「俺って……、いや、見た目は確かに似ているが」
「似てるも何も、同じ人間だから」さっきは黙っていたほうが、妙なことを言い添える。
「どういうことだ?」
「どういうことって、わかるだろう? 俺に分かってあんたに分からないはずがない」
「ふざけるな。どこから入ってきた」
興奮する私に、二人は顔を見合わせた。顔立ちから服装までいまの私に瓜二つ、いや三つだ。やがて一人が頷くと、すっと右腕を伸ばして私の前のキーボードに触れようとした。
「何をしようっていうんだ」その手を振り払おうとするが、もう一人が宥めるように私の腕を抑える。
「まあ、見てな」
キーボードに触れた『私』は人差し指を左のCtrlキーに置くと、小指でVを叩いた。画面には何も起こらない。続けてトントントンと三度叩く。やはり何も起こらない。
「一体、どういう――」後ろを振り返って声が止まった。彼らの後ろに、さらに四人の私がいたのである。
「つまりこういうことさ」
キーボードから手を離して、『私』が言った。
「俺たちはコピーということ」全員が合唱した。
私は頭が痛くなった。こんなことあるはずがない。ナンセンスだ。要するにあれか、このクリップボードをペーストすると新しい私が生まれるというわけか? 冗談にもほどがある。
試しにCtrl+Vを連打してみた。そのたびに新しい「私」が湧いて出る。何なんだ。キーを叩く指先がだんだんと激しくなる。いつしか部屋には立錐の余地もなくなり、私たちは部屋から溢れて廊下までもが埋まって、その先は……もう分からなくなった。
「おい、やめろ。床が抜けるぞ」ひとりが言う。
「あはは」私は弱々しく笑った。「最近……枕を変えたからかな」と呟く。しかしその言葉が空中に消える前に、別なひとりが答えていう。
「関係ないと思うな。俺だって最近変えたけどなんともない」
それに他の私たちがそうだな、俺もだ、あんたもかと唱和する。ああもう、なんてこった。
「あんたたちを消す方法はないのか?」
私が訊くと、一番後ろにいた私が答えて、
「ない。そもそも人を消すなんて軽々しく言うものじゃない」きわめて常識的な答えだ。
頷きあう私たちの中から、また別な私がいう。
「消えるにしたって、そもそも誰が消えるべきだってんだ? ありていにいって、俺は嫌だよ」
「それは、もちろん――」
俺が残る、そう言いかけて私は口をつぐんだ。そうだ。この状況を鑑みるに、この『私たち』を消す方向に話を持っていくのは明らかに危険である。しかし口を閉じてもあまり意味がなかった。なにせ相手も私である。考えることにそう差はない。
「そういうことだ。あんたが残る理由もない。これだけ増やした責任上、真っ先にあんたに消えてもらうのが筋という考え方もある」
しばしの沈黙。
「まあでも、ひとり殺せば何とやらだ。すぐ全員の殺し合いになる。それはちょっとまずかろうよ」気弱な私が言って、
「その通り。その通りだ」阿諛者の私が言う。
「で、どうする。とりあえず腹も減るし、下に降りて飯でも食うか」腹ぺこの私が言って、「そうするか」「幸恵は今晩生け花だっけ」「冷蔵庫に晩飯入れてあるって言ってたな」とかなんとか言いながら、皆ぞろぞろと部屋を出ていった。押すな、危ない、……、無数の足音が激しく家を揺らす。そして(多分)、最初に現れた私のコピーと私だけがこの部屋に残った。彼はほかの者が出て行ったのを確認すると、口を開いた。
「みんな降りていったな。さて、俺に提案がある。いまのうちに連中を消すんだ」
「何だって?」私は戸惑った。
「当たり前だろう。あんなに沢山俺達がいて、これからどうやって社会生活を送るつもりなんだ」
「そりゃそうだが、消すってどうするんだ。殺すのか」
「アンドゥだよ。Ctrl+Z。元に戻すってやつだ。それを一回やるたびに、新しいほうから俺たちは消えていくはずだ」相手はにやりと笑った。さらに続けて、
「ひとり消せば下の連中は何が始まったかすぐ気づく。ここになだれ込んで俺たちを止めにかかるだろう。やるなら一気にやらないと駄目だ」
「ふむ」私は考えた。「しかし、なぜ俺にいう? 俺を騙して俺も殺すとか、お前一人が残る方法はいくらでもあるだろう」
「馬鹿だなあ。消してる最中に踏み込まれたら、ひとりでは対処のしようがないだろう。それに俺にはあんたを消せない。俺はお前よりあとに出来てるから、アンドゥしていくと俺のほうが先に消えてしまうんだよ」
「なるほどね」私は答えた。そういうことなら話は簡単だ。しめしめ――。だが相手はお見通しというように笑うと、
「おっと、お前の考えていることは俺にもわかる。妙な気を起こすなよ。俺まで消そうとしたら、即座に新しい俺を作ってブロックしてやるからな」
見抜かれていた。やむを得ない。二人に減るだけでも今より随分ましである。しかし私にはまだひとつ疑問があった。
「しかしなぜ――なぜお前だけ、なんだかこう、ほかの俺達と違うんだ? お前が気づくことならほかの俺だって気づいていいはずだ。実はもう気づかれてるんじゃないのか?」
「それは分からん。しかし、コピーが一人一人別人であることは確かだ。むろんほとんど同じではあるんだろうが、全員湧いて出たシチュエーション、例えば周りにいた俺たちの人数とかが違うせいなのか、あるいは密かに通し番号でもついてるのかもしれない。だがとにかく皆ちょっとずつ発言や行動が違うのは確かだ。能力も違うのかもしれない」
「しかし差が小さいとすると、今は大丈夫でも早晩あいつらは俺たちの意図に気づくな」
「恐らく」
喋っていて、なんだか誰が喋っているのか分からなくなってきた。全部自分が喋っているようにも思えるし、全部こいつが喋っているようにも思える。まったく、なんて状態だ。
「じゃあ、やるか」 私は覚悟を決めた。
私が両手の人差し指を左のCtrlとZのキーに合わせると、『私』は同様にVのキーと右のCtrlに指を置いた。準備が整った。階下から、「おーい、なにやってんだ」と私の声がする。
「いくぞ!」私が言うと、相手も緊張するのが分かった。
私はZキーを叩きだした。途端に階下がどよめく。怒号が飛んで、廊下と階段を駆ける私の足音がドタドタと響いた。連打。階段を上がってきた足音が消える。別な足音。消える。
「叩くのが早すぎる。処理が追いつかないとかえって遅くなるぞ」
『私』が注意した。私はそれを無視してキーを叩き続ける。『私』が心配げに後ろを振り返った。階段のほうの足音が徐々に減ってゆく。そのとき、ドアが開いて三人の私が部屋に躍り込んできた。
「来たな!」『私』が叫んだ。次のタッチで三人の一番後ろの一人が消え、残りがこちらに殺到する。『私』はキーボードを離れて一人にタックルした。次のタッチでフリーなほうが消える。助かった。だが次のタッチでは階段の足音が消えた。『私』が別な私に馬乗りになって、その顔を殴りつけている。次のタッチでようやく下になった私が消え、『私』はすとんと床に落ちた。
「よし」肩で息をしながら、『私』はキーボードに戻った。そして口を開くと、「いま何人消した?」と私に訊いた。
「えっ」私は数えていなかった。とにかく沢山消せば助かるという立場上、彼ほどには気が回らない。
「こういうことは大体でもいいから当たりをつけておけよ」相手は吐き捨てるように言った。『私』がVキーに置く指に緊張がこもるのが分かる。やがて階下の物音が少なくなって、『私』は私のタッチの間にVの入力を挟みだした。スピード調整のつもりだろう。背後で新たな私が湧いてはまた消えていくのがわかる。あまり気分のいいものではない。
「よし、お前はZを止めろ。俺が両方打つ」『私』が言って、私はそれに従った。
「下を見てこい」
私は一階に降りて、部屋をすべて見て回った。人っ子ひとりおらず、ただむさ苦しい私の臭いだけがむっとする濃さで残っている。ひどい状態だ。幸恵はなんて言うだろう。私は二階に戻った。『私』はキーボードの前に座っている。
「誰もいなかったか?」
「ああ」
「よし。じゃあ奴らはもういい。俺たちの問題をどうにかしよう。率直に言うが、生き残りにかけては俺が不利だ。さっきはモノの弾みで消されるんじゃないかと思って冷や冷やしたよ。急にピッチを変えられたら打つ手がなかった。しかし流石に俺だな、あんたが誠実な男でよかった」
「まあな」答えたが、別に調整したつもりはない。
「提案がある――俺たち、タイムシェアリングして生きていかないか」
「タイムシェアリング?」
「そう。職場には日替わりで出向く。引き継ぎが面倒なら週替わりでもいい。食費は倍かかるが、まあどうにかなるだろう」
「お前が出て行くって選択肢はないのか?」
「幸恵を置いて?」『私』が答える。私ははっとした。幸恵はこの男にとっても妻なのだ。だが妻を共有するつもりはない。私は毅然として言った。
「できればそうして欲しい。お前には第二の人生を模索してもらったほうがお互いのためだと思う」
しかし『私』は渋った。
「参ったな。幸恵のこともそうだが、あんたをPCの前に残して去るわけにもいかなくてね」
これは私が彼を消すという意味だろう。
「まあ、あんたが立ち去ってくれるなら、俺も紳士的にやるつもりだが」
「ふむ――」
そのとき玄関の鍵を開けるガチャリという音がした。幸恵が帰ってきたのだ。それを聞いて我々双方がびくりとした。当然ながら、私が二人いるところを妻に見られてはまずいのである。しかし重要なのはそこではなかった。階下に気を取られた一瞬間、私たち二人それぞれに、相手に対する隙ができたのだ。隙は同時にやってきたが、椅子に座っている分『私』の野郎に不利だった。
私は腕で『私』を突き飛ばした。相手は絨毯の上につんのめる。私は腰を椅子にぶつけてそれを押しのけると、キーボードの前に立ってCtrlとZのうえに指を置いた。
「やめろ!」
『私』が叫ぶ。だが容赦のない私の指は、すでにCtrl+Zを激しく叩いていた。そして興奮のあまり、さらにもう一度――
「あら、ずいぶん空気が悪いわね」
幸恵が呟いた。明かりはついているが、家の中には誰の気配もないようだ。
「あなた、いるの?」返事はない。彼女はハンドバッグを居間に置き、とんとんと音を立てて階段を上った。
「あなた――? あら」
部屋を覗いたが、やはり誰もいない。ただパソコンのディスプレイだけが光っていた。そこには彼女のよく知る小さなウィンドウが開いている。クリップボード・フリーザー。それを見て、幸恵はここで何があったのかを素早く察した。
彼女は椅子に座るとマウスを操作し始めた。DVDからネットで集めた理想の旦那のテンプレートを検索する。これに夫婦固有のアレンジデータを加えることで、家庭にフィットする適当な旦那のコピーイメージを作ることができるのだ。
理屈っぽいだけかと思ってたのに、勝手にひとのPCを覗くような男だったってわけか。ネットに流れてる旦那なんて、ろくでもないのが多いわね。次はこっちを試してみよう。こんどはどんな男かしら――。