05『契約』
――魔の森に入って三日目の朝。
つまり、魔女の家で過ごし始めてから二日目のこと。
少年は一本のナイフを握って、魔の森をゆっくりと歩いていた。
森に入ったとき、初めに持ってきていた武器は、気づけばどこかへ失くしていた。
別に構わないとは思う。
どんな名刀を振るっても、どんな強弓から放たれた矢でも、尋常の武器では魔物に傷ひとつ負わせることはできないからだ。どんな達人が使ってもそれは変わらない。
技術や筋力の問題ではないのだ。
魔物を傷つけるには、相応の武器が必要になる。
魔法の武器か、あるいは聖法の武器か。
いずれにせよ――魔物という《幻想》を相手取るには、対する側にも《神秘》が求められる。
ただ逆を言えば、それが魔力ないし聖気の込められた武具であるのなら、どんな鈍らにだって魔物を傷つけるだけの殺傷力を持たせられるということだ。
そして質で言うのなら、少年が手に入れた得物は魔物と相対するに当たって、これ以上ないというほど最高質の武器であった。
「――教会で言うところの、いわゆる《神賜兵装》というヤツね」
その武器を手渡すときに、魔女はそんな言葉を少年に語った。
だが、いわゆる、などと言われても少年は神賜兵装なんて言葉を聞いたことさえなかった。
首を傾げる少年に、魔女は「ああ」と手を打って言う。
「そうか、今はそうだったわね。うっかりしてた」
「……?」
「なんでもないわ、気にしないで。要するに、強い力を持つ武器だってことがわかればいいから」
とりあえず、言われた通りの理解だけを少年は得ていた。
魔法だろうが聖法だろうが、いずれにせよ彼が容易に手に入れられるようなものではないのだから。自分がその言葉を知らないのは、単に平民身分だからだろう、と。
少年は首肯し、魔女も同じく頷きを返して続ける。
「伝説で語られていたりするでしょう? たとえば勇者の聖剣とか、神殿騎士の聖盾とか」
言われてみれば、話くらいは聞いたことがあった。
たとえば聖女が行使する神秘の力は《聖力》と呼ばれる正の力によるものだと聞くし、逆に目の前の魔女や魔物が持つ力は、《魔力》と呼ばれる負の力がその源になっているという。
だがそれによって行使される聖法にも魔法にも、少年はとんと縁がない。どちらにしたところで、自分とは無関係な、よくわからない不思議な力という程度の認識だ。
疑問だったのは、まず渡された兵装が武器にはまったく見えなかったこと。
それと、なぜ邪悪の象徴である魔女が、それとは正反対に神性の具現たる聖法の武器を持っているのかという点だ。
「以前、ちょっとした経緯で手に入れる機会があったのよ。別に大したことじゃないわ」
魔女はあっさりとした口調で言うが、普通に考えれば大問題だろう。
それは、教会の教えとは真っ向から対立する事実なのだから。
天上の神から賜わされるという兵具を、よりにもよって魔女が持っていていいはずがない。
それくらいのことならば、少年にだってさすがにわかった。
――まあ、今さら気にすることでないのも事実だ。
元より少年は、この期に及んで教会の教えなど遵守する気も、信仰する気もない。戒律の話をするのなら、この魔の森に立ち入った時点で教会の教えには完全に背いている。
まして――邪教の魔女と契約してしまったのだから。
どうだっていい、と少年は思う。
たったひとり、敬虔な信仰に生きた少女さえ裏切った神など。
少年は、欠片だって信じてはいなかった。
「それじゃあ、これを手に持ってみて」
魔女に手渡された聖なる武具を、少年は頷いて受け取った。
それは、およそ武器と呼べる形をしていなかった。
たとえるのなら、植物の種に似ていようか。小さく透明な水晶を成形して、手のひら大の球体に変えたみたいな見た目をしている。
ただし脆そうに見えて、その実、渡された種はおそろしく硬く、そして重かった。鉄も鋼も、黄金でさえ、この硬度と密度には劣ることだろう。
この硬さと重さなら、確かに投擲すれば武器に使えないこともないとは思う。
が――神聖な武器だと渡されたにしては、さすがに少し、頼りなさすぎることも事実だった。
さては担がれたのだろうか。
そう疑って、少年は怪訝な視線を魔女へと向けた。
その様子に魔女は苦笑して首を振る。
「もちろん、そのまま使うものではないわ。想像して。強く、そう――何よりも強い、自らの意志と覚悟を反映した武器を」
「……意志と、覚悟……」
「そう。その種子は貴方の心を、魂を源にして武器へと育つわ。この世にただひとつ、貴方だけの強い武器に。――兵装自体と、契約を結ぶのよ」
告げられ、知らず少年は自然と瞳を閉じていた。
右手に乗せた種子を軽く握り締め、少年は武器を想像する。
強い武器である必要はない。
ただ一度、この森の主を殺せる武器でさえあればそれでいい。
――彼女さえ助けられれば、それで。
途端、手のひらの種子が光を発した。無色の、けれど力強い輝きを。
閉じた目の瞼越しにさえ、種子から溢れる強力なエネルギーが感じ取れる。どこか温かい気配だった。
やがて輝きは、巻き起こったときの同様の唐突さで収まった。
そして気づけば少年の手には、一本の短刀が握られている。
「これが……おれの武器、なのか?」
「ええ。この世にただ一本だけの、それが貴方の武器よ」
「……なんだか」
弱そうだ、というのが少年の偽らざる感想だった。
飾り気のないただの短刀。刃は鋭く、柄に装飾はなく、武器としての実用性は高そうだが、これを使って魔物と相対するのは少し現実味に欠けている。
もっと長くて強い聖剣とか、遠くから魔物を射抜ける聖弓なんかを想像していた少年としては、ちょっと拍子抜けというか、若干がっかりしたくらいだ。
そんな少年の感慨を読み取ってか、魔女はゆったりと苦笑する。
「その武器を完全に扱うには、まだ貴方の実力が足りていないのよ」
「……てことは、これはもっと育つのか」
「察しがいいわね。その通り、この種子は宿主の実力と意志に応じて、その形と強さとを自在に変える。生憎、持ち主の思い通りにとはいかないけれど、貴方に最も適した武器であることは間違いないわ」
「……まあ、ナイフなら弓よりはましだけど」
「サギタの弟子と聞いていたから、私もてっきり弓になるかと思っていたけれど。貴方、よほど弓の才能がないのね」
「…………」
少年は魔女の言葉を意図的に無視した。
その何が気に入ったのか、やはり魔女は愉快げに微笑むだけだ。
「まあ、元の性能が充分にいいのだから、その程度でも魔物と戦うには足ることでしょう。あとはどう使うかというだけ――貴方次第よ」
「……これで、森の王を殺せばいいんだな?」
「そう。あまり時間もないでしょうから、急ぎなさい。凡百の魔物とは違って、森の王は手強い魔物よ――少なくとも、神賜兵装がある程度で安心していい相手じゃないわ」
魔女からの忠告じみた言葉を受ける。だが少年は別の箇所が気がかりだった。
魔物のことは、とりあえずどうでもいい。どんな無理難題だろうと、やらなければいけないことに変わりはないのだから。道が見えているだけ幸運だと思う。
ただ気になるのは――、
「――なあ魔女。あんた、どうして自分で戦わない?」
「どういうこと?」
「森の王を殺したいだけなら、あんたが自分でやったほうがずっと楽じゃないか。そもそも、魔女は魔物の仲間なんじゃないのか? どうして同じ森に住んでいる仲間を殺すんだ」
「――私に森の王は殺せない」
魔女は端的に言った。
どこか余裕のないその返答が、さきほどまでの魔女と違いすぎる。
思わず少年は息を呑んだ。
魔女は、けれどすぐに息を吐いて落ち着き、それからゆったりと言葉を重ねる。
「……そもそも、魔女と魔物は別に仲間じゃないわよ。魔物は自然発生するものだから、別に魔女の眷属というわけじゃない」
「なら、魔女と魔物は敵同士なのか?」
「それも厳密には違うわね。同じ魔の属性を持っているから、魔物は魔女を殺さない。魔物が狙うのは人間だけよ。そして逆に同じ属性だからこそ、魔女からも魔物には手出しできないの」
「……ならどうして森に住んでるんだ?」
「外は騒がしいから。もっとも、最近はこの森も騒がしくなってきたけれど」
魔女はどこか遠くを眺めるようにそんなことを言った。
少年は、自分への当てつけだろうか、と判断する。
――よくわからない、というのが正直なところだ。魔女の説明は、そういった神秘に類いするもの知識に疎い少年では、とんと理解できない理屈ばかりである。
ただとりあえず、魔女が魔物に攻撃できないという結論だけは理解できた。
要するに、その代わりを少年が務めればいいという話だ。
「……わかった。やってやるさ」
少年は、覚悟を決めて頷く。
魔女はやはり、普段通りの超然とした笑みを見せて答えた。
「――お願いね」
※
――森の王を弑す。
それが、魔女と交わした履行すべき契約。
それから数日後、少年は森の中にいた。
いわば訓練だ。すでに数体の魔物を、少年は武器の力で屠ることに成功している。
強い力を持つ武器も、当てられなければ意味がない。少年が選んだ戦術は、持ち前の隠れ潜む才能を活かした奇襲戦法――つまり狩人の手法だった。いや、ある意味では暗殺者のそれかもしれない。
元より、ほかに選べる戦術もなかった。
手に入れた武器に溺れるほど、少年も狩人として未熟ではない。格好がつかないとは思うが、その程度のことにこだわっていられる状況でないことも理解している。
今、少年は一本の樹の上に身を潜めていた。
貰った武器は種の形に戻し、息を殺して魔物が訪れるときを待つ。神から賜わされたというこの兵装は、持ち主の意志に応じて武器と種子の形態を自在に変えることができる。不意打ちを旨とする少年には、助かる特性だと言えよう。
――理想は、自然と一体化すること。
風に、葉に、自らを溶け込ませていくように。
それだけで少年は森の一部に変貌する。自己という概念を殺し、魔物の感覚さえをも偽る。
ふと、眼下に魔物が現れた。いつだったか見た、熊に似た魔物と同じような姿だ。同じ個体なのかはわからないが、少なくとも同じ種族ではあるらしい。
数日前は、逃げることしかできなかった相手。少年はそれを視界に確認する。
しかし、脈動や呼気どころか、思考さえ彼は乱さない。
凪の中にいる少年は、考えるという過程を超越して――ただ動く。
「――……」
降りる、というよりは、いっそ落ちると表現したほうが近い挙動で、少年は通りがかった魔物目掛けて幹を蹴った。
狙うは首だ。魔物とて生物を模している以上、その急所は動物と大して変わりない。
その瞬間、魔物もまた自らを狙うさっきに気がついた。
だが魔物は防御行為を行わない。自らを害し得る武器がほとんどないのも理由のひとつかもしれないが、それ以上に、魔物にとって人間を殺すこと以上の目的など存在しないのが大きな要因だろう。
ただ人を殺すこと。
それが魔物の生存理由なのだから。
しかし、それゆえに、魔物はある意味で野生の生物よりも本能に劣る。
直後、勢いよく振るわれた巨腕が少年を襲う。
気づかれるのが早すぎた。
少年は、だが冷静に狙いを首から腕に変更する。直撃すれば大怪我は免れないそれも、来るとわかっていれば対応は容易い。
少年は武器の形を取らせた兵装に、落下の勢いを乗せて振るう。
交差するように走った線と線が、交わる一点で片側を断つ。
魔物の片腕は、バターよりも抵抗なく、少年の武器であっさり落とされた。
野生の獣ならば、この時点で逃走を選ぶだろうか。
初撃で仕留められず、逃走の機会を許すなど狩人としては二流の仕事だ。
だが、魔物が逃げるなどあり得ない。
片腕をなくしても、なお怯むことなく少年を狙う魔物。
着地した少年は、返す刃で今度は魔物の心臓を狙う。
走るような、射抜くような鋭い点が、的確に魔物の胸の中心――心臓代わりの魔力炉へと突き刺さった。
充分すぎるほどの致命傷だ。
魔物はその肉体を魔力へと還元し、光の粒子となって森の空気に溶けていく。生物ならぬ魔物は、その肉体も当然のように魔力だ。血を流すことはない。
その様を、少年は感慨もない視線で見届けていた。
戦える武器を得ただけで、こうもあっさり魔物を殺せるようになるのか。
そんな考えが浮かばないわけではなかったが、今さら別に感傷を覚えたりはしない。
少年が疑問するのは、これで本当に森の王が殺せるのか――その一点だけだ。ほかの魔物など、言ってしまえばどうでもいい。
王、というからには凡百の魔物よりも強いのだろう。
実際、このように訓練を積むよう少年へ告げたのは魔女だった。しかしこの短時間で、これ以上の上達を見込めるかと問われれば疑わしい。
一応、たいていの魔物ならば殺せる程度の実力は身につけた。
あるいは初めから持っていた。
あとは新しい武器への慣れだったが、これも問題はないと判断する。
――そろそろ、本命へ移ってもいいのではないだろうか。
少女は今も、少年の帰りを待って町で苦しんでいる。そのはずだ。
もちろん、無策で王に特攻して返り討ちに遭うのも馬鹿げているとは理解できた。
だが、そろそろ頃合いだろう。
訓練を取るか、それとも時間を選ぶか。その分水嶺に訪れていると、少年はそう判断する。
魔女が少年の元を訪れるのは、いつだってそんなときだった。
「――腕を上げたわね」
唐突に、そんな声が背後からかけられる。
なんの気配も感じなかった。魔女は察知などすり抜けるように現れる。
とはいえ、このところ何度もあった事態であるため、少年も今さら驚いてみせたりはしない。
ただ無言のまま魔女へと振り返った。
「あら。つまらないわね、反応なしなんて」
若干気分を害したように魔女が言うが、そんなことにかかずらっている時間はない。
少年は、無視して言葉だけを告げる。
「普通の魔物なら、もう殺せるようになった。そろそろいいんじゃないのか」
「森の王を舐めてはいけないわ。仮にも魔物の主――その力は、ほかの魔物とは比べ物にならないのだから」
「わかってる! でも――」
言い募る少年。だが時間がないのだ。
少女はもう、いつ病で命を落としてもおかしくない。
「でも確かに、そろそろ行ってもいい頃合いかもしれないわ」
魔女は、だがあっさりと前言を翻すように告げる。
「今の貴方の刃なら、森の王にも届き得る。もともと新しい実力を得たわけではないのだから。単に貴方は、覚えていた――忘れていた技術を再確認しただけ。それで無理なら、初めから望みなんてないわよね」
「……いいのか?」
「そもそも、私に許可をとる必要なんてないもの。私はただ助言しただけ。無策に殺せる相手じゃないことは事実だわ」
「…………」
「怒らないでよ。一応、貴方のために言っているつもりなのだから」
魔女はそう言って肩を揺らす。
さすがに、そこで反感を抱くほど少年も子どもじゃない。
「……森の王はどこにいる?」
「もう行くのね?」
問いに、魔女は質問で返す。
少年は無言を返答に代え、魔女は小さく溜息を零した。
「……たいていは、あの魔樹の近くにいるわね」
「なら行ってくる。――約束は守れよ」
「もちろん。魔女は契約を守るわ。――なんなら、それ以上のことを教えてあげてもいい」
無視して進もうとした少年だったが、魔女の言い回しが少し気になった。
教える、という表現にだ。
思わず立ち止まり、けれど振り返らず言葉を待つ少年に、魔女は淡々とした口調で告げた。
「貴方が助けようとしている聖女だけど」
「あいつが……どうかしたのか?」
魔女の言葉に感情はなく。
少年は、そのひと言に息を呑んだ。
「――もう、手遅れかもしれないわよ?」