第1話 始まりの始まり(伊織視点)
隣で啓介の奴が、ヤケに浮かれている。 奴にしてみれば、珍しく俺が自分の頼みを聞いてくれたように思えるのだろう。
だが、俺がこんな所に来てしまったのは、金が欲しかったからでも、友情を大切にしたからでもなかった。
話は、一昨日の夜に遡る。
俺が大学のエアコンが壊れるという悲劇を乗り越え、何とか予定していた講義を全部終えて帰宅した直後。 予定外の悪夢は、ついそこまで来ていた。
父「おい、伊織。 今年の夏休みだがな、1週間ばかり田舎に帰ろうと思うんだが」
伊織「行ってくれば?」
俺は素っ気ない返事をした。
うちの家族は仲が悪い、などという事はないが、この歳になって、何もないド田舎への帰省を喜ぶ男などいない。 俺も例に漏れず、そんなタイプだ。
父「何を言ってるんだ? 今年のドライバーはお前だぞ?」
伊織「冗談…」
父&母「本気」
大学生の子供を持つ親にしては、仲が良いであろう父と母の声がハモった。
父「何のために、お前の自動車学校の費用を払ってやったと思っているんだ」
母「そうよ。 あんたと来たら、ろくにアルバイトもしないで…。 お金を払わないなら、身体で払いなさい」
俺は去年、自動車学校の費用を払ってもらった事を、単純に後悔した。
だが、それにしても『身体で払え』とは、俺の親ながらよく言う。
運転などしたくもないのはもちろんだが、『この両親』と計3人、車という密閉空間に閉じ込められるなんて、真っ平御免だ。
その悲劇をいくらかでもマシな物にする役目の姉は、おととし就職のために上京していて、今はこの家にはいない。
母「大丈夫よ。 帰省ラッシュを避けるために、お父さんも有給取ったから。 宮崎まで… 丸1日もあれば着くでしょ」
いや、だから、1日も俺を運転席に縛りつけるつもりなのか?
だいたい、着いたら着いたで、最寄りのコンビニには、車がないと行けないようなド田舎なのだ。
伊織「悪いけど、俺は予定があるんだ!」
母「そう来ると思ったわ! でも、どうせ伊織の事だから、口から出任せなんでしょ?」
俺の思考を先読みしたかのように、母親の反撃は手早かった。
伊織「そ、そんな訳…」
母「なら、証拠を見せなさい!」
父「こそこそと逃げ回るなど、男の風上にもおけん奴だ。 父さん、伊織をそんな風に育てた覚えてはないぞ!」
育てた覚えがないのは勝手だが、だったらせめて、名前ぐらい男らしくしてほしかった。
親戚の叔父さんが
『身体が小さくて、元気よく泣かなかったから』『勝手に女の子と思い込んで考えた名前』
と暴露したのを思い出す。
『馬鹿な』と言いたいが、俺の姉の名前が詩織で、母が早織である事を考えるとだなぁ…。
そんな親のために、なぜ俺が貴重な休みを提供しなければならないのだ?
啓介「いやぁ~。 藤村と緒に働けるなんて、今から心が踊るぜ」
伊織(…踊りたいなら、1人で盆踊りでもで踊ってろよ…)
そう心の中で悪態をついたが、もう俺には逃げ場はなかった。 このバイトに受からなければ、1週間後には悪夢のド田舎者紀行。
…そう。
俺が母親にした言い訳とは、啓介が鞄にねじ込んだ後、捨てるのすら忘れていたバイト情報誌だった。
『まさか俺が』と驚く両親に、このバイトが高給であり、友達の啓介も一緒であると…。
まったくもって心にもない事を、約10分に渡って力説し、なんとかド田舎紀行は保留となった。 ただしあの母親の事だから、俺が採用されるはずないと、タカをくくっている可能性は十分にある。
啓介「おい、聞いたか? 適性テストの結果がイマイチだと、時給の安い仕事しかできないらしいぜ? ここはなんとしても、時給1800円をGETしなければっ!」
そんな事だろうとは思っていた。 まあ俺としては、試験に落ちて、荷物運びにでも回される方がありがたいんだが。
たが、点数が悪すぎて採用すらされなければ、母親の思惑に嵌まる事になる。 断じてそれだけは避けたい。
俺は都会が似合う男のはずだ!
…そうであってほしい…。