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目の前の景色は、一瞬真っ暗になってからいきなり変わった。
『──へぇええ……??』
理音が、そんな間抜けすぎる声を出した原因は、他ならぬ理音自身にあった。
自分が、ありえない状況にあったのだ。しかも、目の前で。
一瞬目の前が真っ暗になった後、次に目に映った光景は、手を伸ばせば届く距離で、血まみれになって横たわる自分の姿だった。
『……ぇぇえええ??』
穴が開きそうなほどに凝視してみても、やはりそれは自分だし、しかも血まみれな上にぴくりとも動かない。
『え、ど……っ? なぁ……っ!?』
混乱しすぎて、口すらまともに動かない。それ以前に、自分がなにを言いたいのかすらもよくわからなかった。
そんな理音の耳に、状況を説明するかのように、一部始終を見ていた女が叫んだ。
「きゃあああああああああ!! だ…誰か…っ、誰か救急車を呼んでちょうだい!! 轢き逃げよぉっ!!」
瞬時に辺りがざわめき出した。
『轢き逃げ……』
そうだ、と理音は思い出す。
ついさっきまで、自分は横断歩道を渉っていたのだ。
信号は、確かに青だった。
それから、クラクションの音が聞こえて、振り向いたらいきなり目の前が真っ暗になって…。
『わたし……もしかして死んだ…?』
理音はようやく事態を把握した。そして把握すると同時に、目の前のこの自分はもう生き返らないなと、無情にも他人事のようにそう思った。
『あっ! てことはわたし今、幽霊!? わー、幽霊ってこんなんなんだー!! すご! しかも空に浮いてるし!! さいこーっ!』
そう感動しながら、理音は思いのままに宙を飛び回ってみた。
今、轢き逃げされて死んだことを把握したとは思えないほど、理音のテンションは高かった。
『やーん、天国のご先祖様! わたし天国逝けるかわかんないけど、てゆーかご先祖様天国に逝ったか知らないけど今会いに行くよーっ!! 待っててねー! てゆーかできればザビエルに会いたいーっ!!』
理音のそんなノー天気な言葉も、さすが死んでいるだけあって生きている人間には聞こえないらしい。
『あれっ? でも幽霊ってこの世に未練のある人がなるんだよね。えーっ? わたし未練なんてないよー!? 早く天国に逝かせてよーっ!! あー、でも地獄行きならこのままがいいーっ!』
そう言った途端、なんとも我儘なその注文を、聞き入れたとでも言うかのように、金色の光が理音に降り注いだ。
『えっ!! なにっ!?』
驚きと好奇まじりで天を見上げると、そこには畳半畳程度の大きさしかない、謎の物体Xが宙に浮いていた。天から降り注いでいると思った金色の光も、実際は6mほど上空に浮遊しているその物体Xから出されていた。
そ の姿を見て、理音は思わず口にする。
『ださっ! ショボっ! なにこれ!?』
その飛行物体Xは、存在云々を問う以前に、つっこみたいところが満載だった。
まず、何回修理したのか問いたいほど、ボロい。その上ショボい。最後の『なにこれ』に関しては、その姿があまりにもちんちくりんだったということを率直に表している。
『え! なに!?』
気付くと、自分の意思とは全く関係なしに、徐々に身体が引き上げられていた。
『なにこれー! UFO!?』
上空の飛行物体Xが光を出して理音を引き上げる様は、まさにUFOが人間を連れ去る姿に似ていた。ただ違うのは、理音が幽霊だということと、この謎の飛行物体Xが、一般の人の目には映っていないらしいということ。
遠のいて行く地上では、救急車が来て理音を担架に乗せ車内へ運び込んでいる。
『やだー! なにー!? 宇宙人?! わたし解剖されるのっ?』
往生際悪く理音は暴れてみるが、全く意味はなく、逆に飛行物体Xは、理音との距離を保ったまま急に速度を上げ空高く昇って行った。いくら今の自分が幽霊と言えど、雲に近付くにつれ、下を見れなくなってきた。自分の足下にはなにもないのだ。もしも落ちたら、と考えると、頭の中では、先ほどの血まみれの自分よりももっと悲惨な自分の姿を思い浮かべてしまう。
『いやーっ!! 死ぬー!』
もうすでに死んでいるのだから、これ以上死なないだろうことはわかっているが、このような状況に陥ると、人間思わず「死ぬ」と口にしてしまうものだ。
『きゃー! 雲雲! 止まってー!!』
眼前に迫った雲を見て、飛行物体Xに向かってそう叫ぶが、当然理音の言うことを聞くわけもなくものすごい勢いで雲を突き抜けていった。
理音は思わず目を瞑ったが、思っていたよりも抵抗はなく、それに突き抜けたあとは飛行物体Xもスピードを下げたようだった。
一安心して目を開ける。
すると、そこには突き抜けたはずの雲が頭上にあった。
「……え、」
なんで、と思ったその瞬間。今まで自分を照らしていた光が急に消えた。
なんとなく、悪い予感がした。
思えば、地上から引き上げられていく時、そのきっかけとなったのは、飛行物体Xから放射されていた光なのだ。
それが消えた今。
当然、理音の身体は落ちる。
「──っ!! きゃーッ!!」
先ほどみたいに自分の意思通りには浮けなかった。
頬が削げ落ちるんじゃないかと思うほどの風圧を受けながら、理音の身体は重力に従い頭から真っ逆さまに落ちていく。
そして意識が飛ぶか飛ばないかのその時。痛くはないが、身体が地面に叩きつけられた。しかし、のどと胸元辺りだけには強い衝撃が走り、一瞬呼吸ができなくなる。空気を求め必死で呼吸をしようとすると、逆に肺の中の酸素を全部吐き出すはめになってしまった。
本当に酸欠になりかけた時、激しく咳き込んだお陰で、なんとか空気を確保できた。
「──っな…っんなの…!?」
思いがけない出来事に理音の思考はついていかなかった。わけがわからず頭は混乱するばかりだ。
痛みはないが、まるで持久走の直後のように身体全体が重くて、どうにも起き上がれない。それどころか、大の字の態勢のまま、指一本動かせなかった。悪足掻きに全身を動かしてみたところ、首から上だけはあえて動くようだった。
「……、は…」
声混じりの深呼吸の後、できる限り首を持ち上げて辺りを見回してみる。
「……なに、…ここ……」
そして理音の目に映ったのは、まさに天国。
辺り一面の花畑に、右手には林、数十m先には湖も見える。少し落ち着いてみれば、自分がいるこの花畑も、地面は土じゃなくオレンジ色の、俗に言う低反発枕と同じような感触のものだった。
「とゆーことはぁ……やったぁー!! わたし天国逝けたんだ! よかったぁっ! おめでとう、わたしっ!!」
まだここが天国だと断定できない中、理音はそう言って喜んだが、この状況は喜べるものではない。それは、喜んだ瞬間、理音も悟った。
「……誰か、…来ないかなぁ……」
もとい、「来てくれないかなぁ」。
さすがに、このまま誰にも見つからないというのはまずいだろう。それは、いくらノー天気な理音にもわかった。
「……もしかしてここは三途の川の近くで、わたし実はまだ死ぬ寸前とか?」
そんな想像を膨らませてみても、当然現状が変わるわけではなく。そして身体が動くわけでもなく。その上時間の経過もわからないわけで。一番わからないのは、第一に、ここが一体どこなのかって話で。
だって、天国って本当にあるのか知らないしね。いや、天国であってほしいけど。うん。
「……誰かいませんかぁ…」
あえて疑問系にしないでそう問う声には、半分以上諦めがうかがえる。理音自身、誰か来るとは思えなかったからだ。
が、しかし。
これ幸運、理音の耳に、足音が聞こえた。
「すいませんっ! 助けて下さい!!」
できる限り頭を起こし上げて、音のした方を向きそう言う。
だが、足音の正体は人間ではなく猫だった。
湖の方から、走るでもなく逃げるでもなく、のそりのそりと理音に近付いてくる。
猫かぁ…猫に助けてもらえるわけないし……猫かぁ……猫……ネコ!?
頭を地面に寝かせて、人間ではなかったことに少し落胆していると、近付いてくる猫に疑問が浮かんだ。
のそりのそりと近付いて来るその猫は、異常なまでに大きいのだ。
ライオンの2倍くらいはゆうにあるんではないだろうか。
「えっ、えっ? えっ!?」
理音はまた頭をできるだけ起こし上げて、その猫を凝視する。猫というよりは、虎と言ったほうがまだ近いだろう。模様も色も、猫というよりは虎。猫と虎では大きな違いだ。
理音の中での、猫と虎の今一番の違いは、まず、怖さ。猫ならまだしも、虎はまずいだろう
猫は人を食べたりしないが、虎は仮に食べないとしても、殺すのではないか。
動けない理音に、ライオンの2倍以上ある虎が近付いてくる。
──く…っ、食われる…!!
冷や汗すらでないほど、身の危険を感じる。体が凍るとは正にこの状況。
虎が理音のすぐ横まで来た。
……こーゆー場合、視線って合わせちゃいけないんだっけ…?
そう思ってももう遅い。
理音と虎は、ばっちり目が合ってしまった。理音はまばたきすら出来ない。
視線そらしたら死ぬ……!!
いつかテレビで見た曖昧な知識を思い出す。
しかし、理音の心配に反して、食べるでも殺すでもなく、ただ虎は腰を下ろして、しかも理音の隣りに寝そべった。
驚く理音を無視して、あくびなんかしている。
……助かった……?
まだまばたきできずに乾き始めている目を見開いて、視線だけを隣りの虎に向けてみる。
眠たそうに目をぎゅっと瞑って、日向ぼっこでもしているかのように気持ちよさそうにしている。そのうち眠ってしまうのではないかと思うほど、虎は獣の本能を出していない。ほっと胸を撫で下ろして、それから虎を見る。
結構、かわいいものだ。
今のところ襲われないからそう思えるだけかもしれないが、気持ち良さそうに寝そべる虎は、やはりかわいいと思う。
虎が小さくなれば猫だしね。
少々無理矢理な考えだが、まぁ、そんなものだろう。理音は小さいことなんか気にしない。
「ひぃっ」
虎は眠ったものだと思っていたが、突然、虎の耳がぴくりと動き、理音は思わず悲鳴をあげる。
虎は理音など一瞥もしないで、ゆっくりと身体を起こしながらある一点を見つめた。
理音は動物でも狩りに行くのかと思ったが、どうやら違うようだった。虎は起き上がり、理音の頭の向いている方に駆けて行った。なんだろと思いながら理音がそちらに頭をひねる。すると、いきなり突風が吹き付けた。反射的に目を閉じる。
「壱」
どこからか、そんな声が聞こえた。
声は、風のように余韻を残しながら消える。
突風が止み、辺りが一気に静まる。あの一声で、一瞬にして空気が変わったのだ。木々が揺れる音も湖の水の音も、なにも聞こえない無音だったが、不安というよりは、むしろ安心するような静寂だった。
声の主は、虎の飼い主だろうか。ざくりざくりと音をたてながら地面を踏み、駆けて行った虎を傍らに、声の主は理音に歩み寄って来る。
理音はゆっくりとそちらを向いた。
女だった。
やけに派手な顔立ちだが、下品ではない。
「……」
助けて下さい、と言うのが妥当なのだろうか。
しかし、理音は女の顔に釘付けになって、そんなこと忘れていた。
ハリウッドスターみたいな整った顔に、琥珀色の金の瞳。腰よりも長い、くすみのない金髪は、ゆるく三つ編みにしている。陶磁器みたいに白く滑らかな肌は、誰もがうらやむだろう。
女の顔にすっかり魅入って見つめる理音を、女は少しも笑みを含めない目で見つめ返している。
ふと、女が、理音の胸元を見て、不機嫌そうに眉根を寄せた。そしておもむろに手を伸ばしてくる。
「? なに…」
その時。
今まで動かなかった身体を突き上げるほどに、心臓が激しく脈打った。
ドクン、と大きな音を頭に響かせて、心臓は何度も大きく脈打つ。破裂しそうなくらいに大きく脈打つ心臓は、今にも身体を突き破ってきそうだ。熱くなる身体から、汗が吹き出る。荒くなる呼吸は、次第に空気を失って行く。
そしてついに呼吸ができなくなった。まるで、辺りの空気がなくなってしまったかのようだ。
掠れる視界と薄れてゆく意識の中、理音は女の金色の瞳を見た。
それだけを頭に焼き付けたところで、理音ほ意識を手放した。