追放された悪役令嬢を待っていたのは
雪が、音もなく鼠色の空から落ちていた。
吹き込む寒風を遮ることもできない、古びた無蓋の荷馬車。
その揺れが止まったとき、アナスタシアは凍りついた睫毛を震わせて、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「着いたぞ、罪人。降りろ」
御者の荒々しい声とともに、降りかけた背中を小突き出される。
足元はおぼつかず、冷え切った膝が雪に沈んだ。擦り切れた焦げ茶色の外套は風を通し、かつて「雪結晶の肌」と社交界で讃えられた頬を、氷の刃のような冷気が容赦なく削っていく。
――ここが、私の終わる場所。
アナスタシア・アルスター。
名門アルスター公爵家の長女として生まれ、蝶よ花よとして育てられたはずの彼女は、いまや爵位も身分も、家名すらも剥奪された、ただの流刑囚だった。
罪状は、夫である王太子ルシアンの寵妃に対する、毒殺未遂。
すべては、王家と王子が見栄を守るためだけに仕立て上げた、悪質な嘘だった。
十八歳で王命により王太子妃となって、六年。
アナスタシアはどれだけ周囲の期待を受けようと、子を宿すことができなかった。
最初は祈るように、やがては縋るように神殿へ通い、苦い薬湯を飲み干し、身を削るような思いで過ごした。だが、子はできなかった。
夫であるルシアンの視線は日を追うごとに冷酷になり、王宮の貴族たちの陰口はあからさまな侮蔑へと変わっていった。
「王統を絶やす石女」
「穀潰し」
「役立たずの公爵令嬢」
そして半年前、ルシアンが深く寵愛していた側室イリスが身籠った。
王太子は狂喜し、愛する側室を正式な『正妃』へと格上げし、その腹の子を正統な世継ぎに据えたいと望んだ。
だが、名門公爵令嬢であるアナスタシアを「子ができない」という理由だけで一方的に離縁して側室を据えれば、「王家が名門の娘を不当に使い捨て、王子が愛欲に溺れて秩序を乱した」と宮廷中から非難され、王家の面目が丸潰れになってしまう。
ならばどうするか?
答えは残酷なほど簡単だった。
正妃を『悪女』に仕立て上げ、排除すればよいのだ。
「世継ぎを宿した無辜の寵妃を妬み、母子ともに毒殺しようとした希代の悪女」
そう筋書きを作れば、王太子は「悪女の被害者」となり、愛する側室を正妃に据える大義名分ができる。そして「王家の血を狙った大逆罪人」を出した実家の公爵家も、連座を恐れて文句を言えず、娘を切り捨てるしかなくなる。
父は一度もアナスタシアの弁明を聞くことなく、保身のために絶縁状に署名したのだ。
王太子妃の座を追われ、爵位を剥奪され、国外にも等しい最果ての地――『魔の黒嶺』と呼ばれる極北の辺境への追放。
それが、二十四歳になったアナスタシアに下された宣告だった。
王統を継ぐ子を産む道具としてすら役に立たず、愛されることもなく、誇りも名誉も、信じていた家族も失った。
今の自分には、本当に何一つ残っていない。
この雪の中に倒れ伏して、眠るように息絶えることができたら、どんなに楽だろうか。
そう思って項垂れたアナスタシアの耳に、幾重もの規則正しい足音が届いた。
ざっ、ざっ、と雪を踏みしめる音。
顔を上げると、視界を埋め尽くしたのは黒鉄の甲冑を纏った兵士たちの列だった。誰もが研ぎ澄まされた刃のような気を放ち、無言で整列している。
そして、その中央を割って、一人の男が歩み出てきた。
黒銀の豪奢な毛皮付き外套を羽織り、腰に佩いた長剣の鞘には純金の意匠が輝く。
吹雪の中でなお鮮烈に輝く、夜空色の深い藍の髪。
そして――光をも射抜くような、しかしどこか切実な光を宿した、真鍮色の瞳。
歳の頃は二十代前半。
若くして鋭く研ぎ澄まされた威厳を纏ったその青年の顔を認めた瞬間、アナスタシアの心臓が、跳ねるように跳躍した。
「……え?」
知っている。
この顔を、この瞳を、アナスタシアは知っていた。
あまりにも変わり果て、精悍になり、大人の男の骨格になってはいるけれど。
記憶の奥底、もっとも暖かく、もっとも残酷に引き裂かれた宝箱の中に眠っていた面影が、一瞬で蘇る。
「……ジル……?」
掠れた声が、風に攫われた。
青年が、ピクリと肩を揺らした。
ジルヴェスター。
十五年前、アナスタシアがまだ九歳、彼が八歳だった頃の、唯一無二の幼馴染。
あの頃、アナスタシアは公爵家の夏の離宮で過ごしていた。
領地の庭の裏、小川のほとり、全てが新鮮な世界で出会ったのが、一代限りの功績男爵の息子だったジルヴェスターだった。
平民出の軍人だった彼の父が授かった男爵位は一代限り。父が死ねば平民に落ちる身の上であり、高貴な貴族たちからは「泥男爵の子倅」と見下されていた。
けれど、幼いアナスタシアにとってそんなことはどうでもよかった。
二人で森を駆け回り、シロツメクサで花冠を編み、秘密の木登りをした。
転んで膝を擦りむいた彼を包帯で手当てしたとき、八歳のジルヴェスターは真っ赤な顔をして、ぽろぽろと涙をこぼしながら言ったのだ。
『俺、絶対にアナスタシアを守れるくらい強くなる。強くなったら、迎えに行くよ』
『ふふ、嬉しい。約束ね、ジル』
子供の、他愛のないおままごと。
だが、その日の夕暮れ、二人の関係は大人たちによって暴力的に断ち切られた。
公爵令嬢が泥男爵の息子などと遊んでいるのを知った公爵家の従者たちは激怒し、ジルヴェスターを殴り飛ばし、二度と近づくなと罵倒した。
アナスタシアはその日のうちに王都へ連れ戻され、二度と会うことを許されなかった。
それから、十五年が経ったのだ。
なぜ、彼がここにいるのか。
ここは魔獣が跋扈し、罪人が捨てられる最果ての黒嶺だ。なぜ彼が、こんな豪奢な外套を着て、兵たちを率いているのか。
「……ご無沙汰しております、アナスタシア様」
低く、よく通る声だった。
青年――ジルヴェスターは、彼女の前で立ち止まると、静かに右手を胸に当てて一礼した。敬意を示す、高位貴族への礼法だった。
「へ、辺境伯閣下……!」
護送してきた御者が、青ざめて雪の上に平伏する。
その言葉に、アナスタシアは息を呑んだ。
「辺境伯……? ジルが……?」
「俺の名はジルヴェスター・フォン・ハインライン。この北部黒嶺領を預かる領主であり、国境守護軍総督を務めております」
ジルヴェスターは淡々と、しかし噛みしめるように名乗った。
その名を聞いて、アナスタシアの頭の中で、王宮で耳にした噂が一本の線につながった。
――北の黒狼。
平民の身分から、身一つで北の最前線に志願し、十年にわたる魔獣との死闘を制した英雄。
凶悪な魔獣の群れを討ち滅ぼし、未踏の古代鉱山を開削して莫大な富を国にもたらし、死の荒野を王国最強の防衛都市へと変貌させた規格外の武人。
その功績のあまりの大きさに、国王は彼に世襲辺境伯の爵位を授け、北方の軍事と財政の全権を委ねたという。いまや王都の大貴族はおろか王家ですら、彼の軍事力と経済力には頭が上がらないと噂されていた新興の巨星。
それが、あの小さかったジルだったのか。
二十三歳という若さで、彼は王国でも指折りの最高位の地位へと登りつめていた。
十五年間。
彼がどれほどの血を流し、どれほどの地獄をくぐり抜けてきたか、その引き締まった肉体と、頬に微かに残る古傷が雄弁に物語っていた。
だが。
その事実を理解した瞬間、アナスタシアの胸を刺したのは歓喜ではなく、耐えがたい羞恥と絶望だった。
アナスタシアは咄嗟に、泥にまみれた両手で顔を覆った。
「……見ないで」
唇が震え、自然と涙がこぼれた。
「見ないで、お願いだから……ジル、見ないで……!」
「アナスタシア様?」
「私は……私はもう、あなたの知っているアナスタシアじゃないわ!」
叫ぶ声は濡れ、みじめに掠れていた。
「公爵令嬢でもない。王太子妃としても役立たずで、子供の一人も産めなくて……! 嫉妬に狂って夫の寵妃を殺そうとした悪女として、家からも王宮からも捨てられて追放された、汚らわしい罪人よ! 誇りも、美しさも、名誉も、何一つ残っていない……空っぽの、何もない女なのよ!」
一つ口にしてしまえば、それ以外の全ても溢れ出た。
見られたくなかった。
他の誰かに見下げられても耐えられた。
だが、かつて自分に憧れ、無邪気に将来を誓い合ってくれた彼にだけは、こんな惨めで擦り切れた姿を見られたくなかった。
彼は光り輝く英雄になり、自分は泥に塗れた醜女になった。
その残酷な落差が、アナスタシアの心を粉々に引き裂いていく。
「お願いだから、あっちへ行って……。私を、ここで一人で死なせて……!」
雪の上に額を擦りつけるようにして、アナスタシアは泣きじゃくった。
だが、その冷たい手を、温かく大きな両手がそっと包み込んだ。
壊れ物に触れるような、痛いほどの優しさ。
「……何もないなんて、言わないでください」
低く、切実な声。
アナスタシアが涙で霞む目を上げると、ジルヴェスターは泣きそうな顔をして彼女を見つめていた。
その真鍮色の瞳から、一筋の雫が零れ落ち、アナスタシアの荒れた手の甲を濡らした。
「十五年もかかってしまいました」
ジルヴェスターの声が、初めて微かに震えた。
「あなたの隣に立っても、二度と誰にも引き離されない男になるまで……十五年も」
「ジル……?」
「俺は、公爵家の令嬢であるあなたに追いつきたくて、あなたの隣に立っても誰にも引き離されない男になりたくて、死に物狂いでここまで駆け上がってきました。けれど爵位を得たとき、あなたはすでに王太子の妃になっていた。……俺は己の遅さを呪い、あなたの幸せをただ祈るしかなかった」
ジルヴェスターは彼女の手を、自分の頬へと押し当てた。
がっしりとした頬の温もりが、アナスタシアの指先から凍りついた心へと伝わっていく。
「王都から、あなたへの理不尽な断罪と、この地への流刑の報せが届いたとき……俺は王太子をこの手で斬り捨ててやろうかと思いました。けれど、一刻も早くあなたを助け出すために、全速力で馬を走らせて国境へ向かった。……間に合って、本当によかった……」
彼の大きな手が、アナスタシアの細い指をぎゅっと握りしめる。
「アナスタシア様。俺にとって、あなたが公爵令嬢だったから尊かったのではありません。王子の妃だったからでも、世継ぎを産むためでもない。俺が好きだったのは、花冠を編んで、泥だらけの俺の手を握って笑ってくれた……アナスタシア様、あなたそのものだ」
「ジル……っ……」
「あなたがすべてを奪われ、何も持たないと言うなら……俺の持てるすべてを、あなたに捧げさせてください」
ジルヴェスターは真鍮色の瞳を真っ直ぐに彼女に向け、誓うように告げた。
「十五年かけて築き上げたこの領地も、城も、財産も、軍勢も、そして俺の命も、すべてあなたのものです。王都の連中があなたを悪女と呼ぶなら、俺はその悪女を守る盾となり剣となりましょう。誰一人として、もうあなたを傷つけさせない」
彼はアナスタシアの荒れた指先に、祈るように唇を落とした。
「十五年待たせて、本当にすみませんでした。……俺の妻になってくれますか、アナスタシア様」
その瞬間、アナスタシアの胸の奥で、張り詰めていた氷が音を立てて崩れ去った。
六年間の地獄。
冷たい夫の目、王宮の嘲笑、「石女」という罵倒、実の父からの絶縁状。
誰も信じてくれず、誰も愛してくれず、ゴミのように捨てられた。
もう二度と、誰かに望まれることなどないと諦めていた。
けれど。
この人は、十五年間ずっと、自分だけを想い続けていてくれた。
すべてを失った自分を、少しも穢れていると思わず、自らのすべてを差し出して抱きしめてくれた。
「あ……あああ……っ……!」
喉の奥から、堰を切ったように嗚咽が溢れ出した。
アナスタシアはジルヴェスターの胸に崩れ落ち、彼の首にしがみついて子供のように泣きじゃくった。
大粒の涙が、彼の胸元を濡らし、降り積もる雪を溶かしていく。
ジルヴェスターは力強い腕で、折れそうなほど細い彼女の体をしっかりと抱き留めた。
二度と誰にも奪わせないように、壊れないように、温もりを確かめるように。
「もう大丈夫です。……迎えに来ました、アナスタシア様」
ジルヴェスターはアナスタシアを軽々と横抱きにして、愛馬へと向かって歩き出した。
整列していた黒鉄の騎士たちが、敬意を込めて一斉に剣を掲げ、主とその腕に抱かれた女性のために道をあける。
遠く、暖かな篝火の灯る城館の門が、二人を迎え入れるように大きく開かれていた。
腕の中、まだ涙を震わせているアナスタシアの冷たい頬を、ジルヴェスターは慈しむように見つめ、優しく微笑みかけた。
「まずは帰りましょう。暖かい場所へ」
最後までお読みいただきありがとうございました。




