無名として現れ、伝説となって去った。
少年は、いつも何かが足りなかった。
腹が減っているわけではない。家が貧しいわけでもない。父は無口だがよく働き、母は季節ごとの野菜を煮て、温かい飯を食卓に並べた。畑を耕せば土の匂いが鼻につき、夏には額から汗が落ちた。秋になれば収穫があり、冬には薪を割って火を焚いた。
同年代の子供たちとも遊んだ。
川へ入り、魚を追い、木に登り、日が暮れるまで走り回った。
楽しくないわけではなかった。
笑うこともあった。
けれど、家へ帰る頃には決まって胸の奥に空白が残った。
これではない。
何が違うのかは分からない。ただ、何をしてもどこか足りなかった。
父のように畑を耕し、この村で歳を取り、やがて家を持つのだろうと考えてみても、その先に自分が立っている姿だけは、どうしても想像できなかった。
そんなある日、村に一人の旅人が来た。
日に焼けた外套を羽織り、腰に一本の剣を提げた男だった。
流浪の剣士らしい、と誰かが言った。
少年がその男を見つけたのは、村外れの空き地だった。
剣士は一人で剣を振っていた。
誰に見せるでもなく、何かを斬るでもなく、ただ何度も刃を空へ走らせていた。
少年は足を止めた。
鉄の刃が光を弾き、風を裂く。
踏み込む足。
沈む腰。
振り抜かれる腕。
その全てが、それまで少年の見てきた何よりも美しかった。
胸の奥にあった空白へ、初めて何かが触れた。
目を逸らせなかった。
息をすることすら忘れていた。
だが、それは長く続かなかった。
剣士は何度か剣を振ると、満足したように息を吐いた。
そして、剣を鞘へ納めた。
その瞬間、少年の胸に別のものが湧いた。
怒りだった。
なぜ、そこで止めるのか。
なぜ、その程度で剣を納められるのか。
もっと先がある。
もっと速く、もっと鋭く、もっと美しく。
剣を握ったことすらない少年にも、それだけは分かった。
先があるのなら、なぜ行かない。
剣士であるのなら、なぜ頂を目指さない。
旅人が村を去った日の夕方、少年は家の裏で一本の木の枝を拾った。
握り方も知らない。
構え方も知らない。
それでも、見よう見まねで振った。
ひゅ、と。
頼りない音がした。
少年はもう一度振った。
また、ひゅ、と鳴った。
日が暮れても、振った。
母に呼ばれても、あと一度だけ振った。
その日からだった。
少年の中にあった空白が、少しずつ埋まり始めたのは。
それから少年は、毎日剣を振った。
正確には、剣ですらなかった。
最初の一年は、山から拾ってきた木の枝だった。太すぎれば削り、細すぎれば捨て、握ったときに最も馴染む一本を探した。
朝、鶏が鳴くより先に起きる。
家の裏へ出て振る。
朝飯を食い、父と畑へ行き、日が傾けばまた振る。
夕餉を終えれば、月の下で振った。
誰かに教わったわけではない。
構えも、足の運びも、刃筋も知らなかった。
あの日見た流浪の剣士の姿だけを頼りに、自分の身体に問い続けた。
どうすれば、もっと美しく振れるのか。
最初は腕だけだった。
次第に腰を使うようになった。
腰を使えば足が気になり、足を直せば肩の動きが気になった。
一つを直すと、それまで見えなかった粗が一つ増えた。
昨日より良くなったはずなのに、昨日より下手になったように感じる。
だからまた振った。
春には、雪解け水が山から流れ込んだ。
少年の足元にも柔らかな草が生え、木の枝を振るたび、朝露が散った。
夏になると、背中を汗が流れた。掌の皮は破れ、乾き、また破れた。母が巻いた布はすぐに赤く滲んだが、少年は翌朝にはそれを外していた。
秋には、落ち葉が舞った。
刃もない木の枝でそれを斬ろうとした。
一枚も斬れなかった。
冬になると雪が積もった。
膝まで埋まる雪の中でも振った。毎日同じ場所に立つものだから、そこだけ雪が踏み固められ、やがて黒い土が覗いた。
そうして春が来た。
また夏が来た。
秋が過ぎ、冬が来た。
それを何度も繰り返した。
少年の背は伸びた。
声が低くなった。
父と並んで畑に立てば、いつの間にか同じ高さになっていた。
村の子供たちも変わった。
昔、川で魚を追った者たちは、誰かの娘に恋をした。村を出た者もいた。父親の仕事を継いだ者もいた。
やがて祝言が続いた。
赤子を抱いて歩く者も増えた。
少年――いつしか青年と呼ばれるようになった男にも、何度か縁談の話が来た。
悪い話ではなかった。
相手の娘を嫌っていたわけでもない。
ただ、考えてみても、そこに自分の人生が見えなかった。
朝に畑を耕し、夕方には家へ帰り、妻と子のいる食卓につく。
穏やかな暮らしだった。
父も母も、きっとそれを望んでいた。
だが、その時間に剣を振れない。
それだけで、男には選べなかった。
十八になった頃、初めて鉄の剣を買った。
名のある鍛冶師が打ったものではない。
村へ来た行商人が荷車に積んでいた、ごく普通の剣だった。
男は畑仕事を手伝って貯めた金をほとんど使い、それを買った。
初めて握った鉄は重かった。
木の枝とは違う。
振れば剣先が遅れた。
止めようとすれば腕が持っていかれた。
男は、その日のうちに自分が何も分かっていなかったことを知った。
そして、嬉しかった。
まだこれほど先がある。
その日から、剣を振る時間はさらに長くなった。
春。
夏。
秋。
冬。
剣は少しずつ男の手に馴染んでいった。
いや、馴染んだのは剣ではなく、男の身体の方だったのかもしれない。
余計な力が抜けた。
踏み込みが小さくなった。
振りかぶる幅が狭くなった。
それでも刃は以前より速く走った。
誰かに習えば、もっと早かったのだろう。
名のある道場へ行けば、十年で知れたこともあったかもしれない。
だが男は行かなかった。
自分で見つけたかった。
一歩進むたび、その先に新しい一歩が現れることが楽しかった。
何年か経った春、母が死んだ。
長く患ったわけではなかった。
ある朝、床から起き上がれなくなり、それから幾日もしないうちに息を引き取った。
男は葬儀を終えると、一人で山へ入った。
村から離れた岩場に、春の短い間だけ咲く白い花があった。
母が好きだった花だった。
幼い頃、一度だけ連れていってもらったことがある。
男は半日かけてそこまで登り、咲いていた花を数本摘んだ。
墓前に添えた。
風が吹き、白い花弁が小さく揺れた。
男はしばらくそこに立っていた。
何も言わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、母の名が刻まれた木の墓標を見ていた。
夕刻。
男はいつもの場所に立っていた。
剣を振った。
一度。
また一度。
その日の剣は、いつもより重かった。
だから、重くなくなるまで振った。
さらに年月が過ぎた。
父の背中が丸くなった。
かつて一日中鍬を振るっていた腕も細くなり、畑へ出る時間が短くなった。
それでも父は、男に畑を継げとは言わなかった。
何十年も剣を振るう息子を見ていれば、もう分かっていたのだろう。
冬の終わり。
父も死んだ。
男はその翌朝、山へ入った。
雪の上に鹿の足跡を見つけ、半日追った。
仕留めた鹿を背負って山を下り、肉を捌いた。
父の好物だった。
炙った鹿肉を墓前へ置いた。
冷たい風の中、湯気が細く昇った。
男はそれを眺めた。
それから立ち上がり、剣を振った。
悲しくなかったわけではない。
父も母も愛していた。
ただ、その悲しみのために剣を置くという考えが、男にはなかった。
季節は、それでも止まらなかった。
男の髪に白いものが混じり始めた。
村の家々は建て替わり、かつて一緒に遊んだ子供たちは老人になった。
その子供たちが大人になり、そのまた子供が山へ遊びに来るようになった。
男は村外れの山に小さな小屋を建てた。
そこで暮らした。
畑はほんの僅かだった。
食うために芋と豆を育て、山菜を採り、川で魚を捕った。
肉が欲しければ山へ入った。
猪も狩った。
鹿も狩った。
冬を越す前には、時折熊も仕留めた。
剣一本で生きていたわけではない。
だが、生きることの全てが剣を振るためにあった。
眠る。
食う。
身体を休める。
そして振る。
村には、そんな男を面白がる物好きもいた。
酒を置いていく者。
塩を持ってくる者。
収穫した野菜を余分に包んでくる者。
男は礼を言うこともあれば、黙って受け取ることもあった。
ある頃から、その中に一人の少年が混じるようになった。
まだ十にも届かない、小柄な子供だった。
母親に持たされたのであろう籠を小屋の前へ置き、帰るでもなく、男が剣を振る姿を遠くから見ていた。
男は気にしなかった。
ある日、少年は木の枝を持ってきた。
少し離れたところで、それを振った。
握り方も悪い。
足も動いていない。
腕だけで振っている。
男は一度だけそちらを見た。
それだけだった。
何も教えなかった。
少年も何も聞かなかった。
やがて山には、二つの音が響く日が増えた。
一つは、空気に溶けるような老人の剣。
もう一つは、ひゅ、ひゅ、と頼りなく空を叩く木の枝の音だった。
その頃にはもう、男に勝てる剣士など、ほとんど残っていなかった。
時折、噂を聞きつけて山へ来る者がいた。
どこかの騎士。
名のある道場の師範。
戦場を渡り歩いた傭兵。
皆、男の前に立った。
そして山を下りた。
男は勝ったことを数えなかった。
何人に勝ったかも覚えていなかった。
それよりも、一太刀振るたびに残る僅かな濁りの方が気になった。
ほんの僅か。
誰にも見えないほどのものだった。
剣先が、自分の思った場所より髪一本ぶん遠い。
呼吸と踏み込みの間に、言葉にもできないほど小さな隙間がある。
刃が空気を裂く瞬間、自分というものが邪魔をしている。
他人には分からなかった。
男にしか分からなかった。
だから振った。
老人と呼ばれる歳になっても、振った。
そんなある秋の日だった。
山へ来た村人が、小屋の前に酒を一本置いた。
いつもならそのまま帰る男だったが、その日は妙に興奮していた。
「終わったぞ」
老人は剣を振る手を止めなかった。
「戦争だよ。大陸戦争。ようやく終わった」
何十年と続いた戦だった。
老人がまだ若かった頃から、海の向こうでは国が国を食らい、人が人を殺し続けていると聞いていた。
それが終わったという。
若き皇帝が、自ら軍を率いて最後の敵国へ攻め入った。
城門を破り、戦場へ立ち、敵将を自らの剣で斬った。
そして大陸を一つにした。
まだ三十代。
その名を、レオンハルト・ヴァルゼイン。
人々は彼を、統一帝と呼び始めているらしい。
そして剣を知る者たちは、もう一つの名で呼んでいた。
剣帝。
老人の剣が止まった。
ほんの一瞬だった。
剣先から一枚の枯葉が落ちた。
老人は何も言わなかった。
村人も、それ以上は話さなかった。
やがて老人はまた剣を振った。
剣帝。
その名は、それから何度か耳にした。
百の兵を一人で破った。
帝国随一の騎士を子供のように退けた。
大陸中から挑戦者が集まったが、誰一人として届かなかった。
噂は山の中にまで流れてきた。
だが老人は山を降りなかった。
会いたいと思わなかったわけではない。
むしろ、剣帝という存在を知ってから、老人の剣は以前より僅かに速くなった。
それでも行かなかった。
まだだった。
自分の剣には、まだ何かが残っている。
速さではない。
力でもない。
技でもなかった。
斬ろうとする自分自身が、まだ剣の中に残っていた。
春が過ぎた。
夏が過ぎた。
秋が過ぎた。
冬が過ぎた。
老人の腕から筋肉が落ちた。
背は少し丸まり、視力も昔ほどではなくなった。
若い頃なら一日振れた剣も、今では半日も振れば指が震えた。
それでも剣だけは、若い頃より美しかった。
強く振ろうとしなくなった。
速く振ろうともしなくなった。
正しく振ろうとさえしなくなった。
七十九の春。
山は深い霞に包まれていた。
老人はいつもの場所へ立った。
草には朝露が溜まり、濡れた土の匂いがした。鳥の声は霧の向こうから聞こえ、遠くの木々は輪郭すら失っていた。
老人は剣を抜いた。
構えなかった。
斬ろうとも思わなかった。
何十年もの間、剣を振るたびに胸のどこかにあった、もっと速く、もっと鋭く、もっと美しくという思いさえ、その朝にはなかった。
ただ。
剣が動いた。
それだけだった。
音はしなかった。
老人は剣を下ろした。
しばらくして、目の前の霞がゆっくりと二つに分かれた。
刃の通った一筋だけが、向こうの森まで真っ直ぐに開いていた。
風はなかった。
草も揺れていない。
霞だけが、斬れていた。
老人は長いこと、それを見ていた。
驚かなかった。
笑いもしなかった。
ただ、これまで剣を振るたびに残っていたものが、何もなかった。
斬ったという感覚すらなかった。
剣を振ったという感覚さえ、ひどく遠かった。
やがて霞は再び閉じていった。
老人は静かに剣を鞘へ納めた。
その日の午後。
七十年近く離れなかった山を、老人は初めて自分の意志で下りた。
老人が山を下りたことに、村の者たちは驚いた。
長い年月、あの山にいるのが当たり前だった。朝になれば剣を振る音が聞こえ、夕暮れになれば小屋から細い煙が上がる。それが村の景色の一部になっていた。
老人は何も告げなかった。
小屋の戸を閉め、腰に剣を差し、そのまま村を抜けていった。
見送る者の中に、あの少年もいた。
少年は何か言いたそうにしていたが、老人は振り返らなかった。
ただ歩いた。
帝都までは遠かった。
だが老人にとって、その道程に特別な意味はなかった。
野宿をし、川の水を飲み、必要なら獣を狩った。
町へ寄れば、大陸統一を祝う旗がまだ掲げられていた。
酒場では統一帝の武勇が語られ、市場では皇帝の名を冠した菓子や酒まで売られていた。
レオンハルト・ヴァルゼイン。
統一帝。
剣帝。
どこへ行っても、その名は聞こえてきた。
老人は聞くだけだった。
何も言わず、また歩いた。
やがて帝都が見えた。
大陸の中心。
巨大な城壁。
その奥に、白い石で築かれた皇城が聳えていた。
老人は足を止めなかった。
城門まで来ると、槍を持った兵が前へ出た。
「止まれ」
老人は止まった。
兵は老人を見た。
粗末な衣。
古びた靴。
腰には一本の剣。
どう見ても、皇帝に謁見を求めるような者には見えなかった。
「何用だ」
老人は答えなかった。
ただ、城の奥を見た。
兵が眉をひそめる。
「聞こえなかったのか。ここは――」
老人の視線が動いた。
それだけだった。
兵の言葉が止まった。
殺気ではなかった。
怒気でもない。
老人は剣に手すら触れていない。
それでも、槍を握る手に汗が滲んだ。
前へ出ようとした足が、動かなかった。
理由は分からない。
ただ身体だけが理解していた。
この老人に刃を向ければ死ぬ。
それは恐怖というより、もっと単純で、もっと確かなものだった。
崖から一歩踏み出せば落ちる。
炎に手を入れれば焼ける。
それと同じように。
剣を向ければ、死ぬ。
城門の前にいた兵たちが、誰からともなく道を開けた。
老人はその間を通った。
止める者はいなかった。
やがて話は城内へ伝わった。
名も名乗らぬ老人が、兵を一人も傷つけることなく城門を越えた。
そして、その報告を聞いた近衛の剣士たちも、老人を止めることができなかった。
剣を知る者ほど、老人の前から退いた。
最後には、誰も命令しなくとも玉座の間まで道が開いた。
重い扉が開く。
老人は中へ入った。
広い玉座の間だった。
磨かれた石床。
高い天井。
左右には重臣と近衛が並び、その最奥に玉座がある。
そこに、一人の男が座っていた。
若かった。
三十代半ば。
長い大陸戦争を終わらせた男とは思えないほど、身体には衰えがなかった。
肩まで伸びた金の髪。
鋭い目。
細身ではあるが、剣を握る者の身体だった。
老人は一目で分かった。
強い。
これまで山へ来たどの剣士とも違った。
立っていなくても分かる。
呼吸。
視線。
指の置き方。
玉座に座っているだけなのに、身体のどこにも隙がなかった。
レオンハルトもまた、老人を見ていた。
長い沈黙が流れた。
重臣たちは何が起きているのか分からなかった。
だが、剣を持つ近衛だけは息を殺していた。
やがて皇帝が立ち上がった。
「名は」
老人はしばらく答えなかった。
皺の刻まれた手が、腰の剣に触れた。
七十年近く。
それ以外のものを選ばなかった。
家も。
妻も。
子も。
名誉も。
地位も。
何かを奪われたわけではない。
捨てたという意識すらなかった。
ただ、そのどれよりも剣があった。
「全て、剣に置いてきた」
老人はそう言った。
玉座の間が静まり返った。
レオンハルトだけが笑った。
それは嘲笑ではなかった。
むしろ、久しく忘れていたものを見つけた者の顔だった。
皇帝は玉座の脇に置かれていた剣を取った。
大陸戦争をともに駆け抜けた剣だった。
鞘から抜く。
美しい剣だった。
抜剣の動作一つで、それが分かった。
無駄がない。
速さも、重さも、軌道も完成されている。
老人は皇帝の剣を見た。
そして初めて、ほんの僅かに目を細めた。
レオンハルトも老人を見る。
「抜け」
老人は剣を抜いた。
ただ、それだけだった。
玉座の間にいたほとんどの者には、何が起きたのか分からなかった。
古びた剣。
名剣でもなければ、宝剣でもない。
何度も研がれ、刃幅の細くなった、ごく普通の剣。
だが。
レオンハルトの表情が変わった。
目が見開かれた。
次いで、口元がゆっくりと吊り上がる。
歓喜だった。
それまで何人の剣士が挑んできたか分からない。
敗北を知らなかった。
剣を交える前から勝敗が分かることも多かった。
剣帝と呼ばれるようになってから、彼にとって剣は長い間、退屈なものになっていた。
だが今。
老人が剣を抜いただけで分かった。
そこに型はない。
流派もない。
構えすらない。
なのに、あまりにも美しかった。
無駄というものが、どこにもなかった。
何十年という年月が、余計なものを一つずつ削り落としている。
残っているのは、剣だけだった。
レオンハルトは笑った。
「……来い」
老人が一歩出た。
最初の一合は、あまりにも静かだった。
剣が触れ合う音が、一度だけ響いた。
それだけ。
だが近衛の一人が息を呑んだ。
見えなかった。
皇帝の剣は、戦場で幾千もの命を奪った剣だった。
速く、重く、美しい。
老人はそれを受けなかった。
半歩だけずれた。
剣先が老人の衣を掠める。
同時に老人の刃が皇帝の頬を通った。
一本の髪が落ちた。
レオンハルトは笑みを深くした。
次の一撃。
今度は速かった。
床を蹴る音すら遅れて聞こえた。
横薙ぎ。
老人は身を沈める。
返す刃が皇帝の脇腹へ向かう。
レオンハルトが剣を落とし、それを受けた。
鋼が鳴る。
老人の腕が震えた。
老いた身体だった。
筋力では皇帝に及ばない。
速度も及ばない。
持久力など比べるまでもない。
それでも。
剣だけは、老人の方が深かった。
三合。
四合。
五合。
戦いは静かに続いた。
誰も声を上げなかった。
歓声もない。
怒号もない。
ただ、鋼が触れ合う音だけが広い玉座の間に響いた。
レオンハルトは攻めた。
戦場で磨いた剣だった。
一撃ごとに相手を殺すための重さがある。
だが老人は、その全てを最小限の動きで外した。
大きく避けない。
受けない。
ただ、そこにいない。
髪一本。
指一本。
その程度の距離だけずれる。
そして返す剣には、何の力みもなかった。
レオンハルトは理解した。
自分の剣は完成している。
少なくとも、これまでそう思っていた。
だが老人の剣は、その完成の先にある。
剣を振るという意識すらない。
斬ろうともしていない。
刃があるべき場所へ、ただ在る。
その美しさに、レオンハルトは笑った。
久しく感じていなかった感情だった。
怖い。
嬉しい。
もっと見たい。
もっと剣を交えたい。
そして同時に、分かってしまった。
勝てない。
それが、堪らなく嬉しかった。
皇帝は一度、大きく距離を取った。
肩で息をしていた。
老人も息は荒い。
剣先が僅かに下がっている。
老いた身体は確実に限界へ近づいていた。
それでも剣だけは、少しも濁っていなかった。
レオンハルトが笑う。
「この俺、統一帝にして剣帝が認める!」
玉座の間に声が響いた。
「お前が最強だ。剣術において、お前の右に出る者はない!」
重臣たちがどよめいた。
近衛たちは言葉を失った。
老人だけは何も答えなかった。
ただ剣を上げた。
レオンハルトも構える。
最後の一合になることを、二人とも分かっていた。
皇帝が踏み込んだ。
生涯で最も速い踏み込みだった。
大陸戦争のどの戦場でも出したことのない速度。
これまで積み重ねた全てを、一太刀に乗せる。
老人も動いた。
いや。
動いたようには見えなかった。
剣だけが、そこにあった。
鋼が交差する。
一瞬。
そして静寂。
二人はすれ違っていた。
レオンハルトは動かなかった。
老人も動かなかった。
やがて皇帝の喉元に細い線が浮かんだ。
そこから血が一筋、ゆっくりと流れた。
レオンハルトは指で触れた。
赤い。
老人の剣が届いていた。
自分の剣は届いていない。
皇帝は目を閉じた。
そして剣を下ろした。
敗北だった。
初めてだった。
レオンハルトは長く息を吐き、振り返った。
老人は立っていた。
背筋を伸ばし、剣を握ったまま。
その顔は穏やかだった。
レオンハルトは何かを言おうとした。
だが、老人は答えなかった。
風もない玉座の間で、白い髪だけが僅かに揺れた。
そこで皇帝は気づいた。
老人は、もう息をしていなかった。
立ったまま、死んでいた。
剣を握ったまま。
世界で最も強い剣士として。
だが、その顔には完全な満足はなかった。
安らかではあった。
悔いがあるようにも見えなかった。
それでも、僅かに遠くを見ている。
皇帝の向こう。
玉座の向こう。
さらに、その先。
レオンハルトには分かった。
老人は、自分を倒すためだけにここへ来たのではない。
世界最強という名が欲しかったのでもない。
剣の果てを見たかった。
そして今。
頂へ立ったからこそ、その向こうにまだ先があることを知ってしまった。
老人は、それを見ながら死んだ。
レオンハルトは喉元から流れる血を拭わなかった。
しばらく老人を見ていた。
やがて、剣を鞘へ収めた。
その日から。
統一帝レオンハルト・ヴァルゼインが、自ら剣帝と名乗ることは二度となかった。
老人の亡骸が村へ戻ったのは、それから幾日か後のことだった。
帝国の紋章を掲げた馬車が、村の入口で止まった。
村人たちは何事かと集まった。
あの老人が帝都へ向かったことは知っていた。だが、何をしに行ったのかまでは誰も知らなかった。
馬車から降りてきた兵たちは、老人の亡骸を丁重に運び出した。
その顔は穏やかだった。
ただ眠っているようにも見えた。
村人たちは声を失った。
長い間、山にいるのが当たり前だった。
朝になれば剣を振る音が聞こえ、夕暮れには小屋から煙が上がる。
気難しい老人でもなかった。
愛想がいいわけでもなかった。
ただ、ずっとそこにいた。
それがもう戻らないのだと理解するまでに、少し時間がかかった。
老人の亡骸は、山へ運ばれた。
小屋の近く。
彼が何十年も剣を振ってきた場所を望める、小高い場所だった。
墓石は建てられなかった。
名を刻もうにも、村の者たちでさえ老人の名を知らなかった。
昔は呼ばれていたのかもしれない。
父や母は知っていたのだろう。
だが、それを知る者はもうこの世にはいなかった。
代わりに、一本の剣が墓前へ立てられた。
老人が生涯握り続けた剣だった。
何度も研がれ、細くなった刃。
巻き直された柄。
傷だらけの鞘。
どこにでもある、ただの剣だった。
名工の銘もない。
特別な力もない。
伝説の武器でもない。
それでも、その剣を見た村人たちは誰一人として触れようとはしなかった。
抜いてみようとする者もいなかった。
それが老人のものだったからだ。
少年は、少し離れたところに立っていた。
いつも差し入れを持って山へ来ていた、あの少年だった。
葬りの間、一度も泣かなかった。
ただ、墓標代わりに立てられた剣を見ていた。
ずっと。
何かを覚えようとするように。
やがて人々は山を下りていった。
少年だけが残った。
夕暮れが近づいていた。
山の端が赤く染まり、木々の影が長く伸びていた。
少年は墓前へ近づいた。
剣の柄を見上げる。
手を伸ばしかけた。
けれど、触れなかった。
代わりに足元へ置いていた木剣を拾った。
少し離れた場所へ立つ。
そこは、老人がいつも立っていた場所だった。
少年は構えた。
握り方はまだ甘い。
肩にも力が入っていた。
足の置き方も悪い。
それでも振った。
ひゅ、と。
頼りない音がした。
一度。
もう一度。
また振る。
老人は一度も少年に剣を教えなかった。
構えも。
足運びも。
刃の通し方も。
何一つ。
秘伝などなかった。
流派もなかった。
残された型もなかった。
ただ一つだけ。
毎日、振る。
それだけを、少年は見ていた。
春が来た。
老人の墓の周りに、小さな草花が咲いた。
少年は剣を振った。
夏が来た。
汗を流しながら振った。
秋には落ち葉が舞った。
少年はその一枚を斬ろうとして、何度も空を切った。
冬には雪が積もった。
少年が毎日立つ場所だけ、少しずつ雪が踏み固められていった。
山には、また剣を振る音が戻っていた。
帝都では、統一帝レオンハルトが変わらず国を治めていた。
大陸戦争を終わらせた英雄。
国を統べる皇帝。
人々は変わらず、彼を称えた。
剣帝と呼ぶ者もいた。
だが、その名で呼ばれるたび、レオンハルトは何も言わなくなった。
否定もしなかった。
訂正もしなかった。
ただ、自らその名を口にすることだけは二度となかった。
玉座の間で、喉元に一筋の血を流しながら見た老人の姿を、彼は生涯忘れなかった。
誰にも語らなかった。
名も知らない。
どこで生まれたのかも知らない。
どんな人生を送ってきたのかも、ほとんど知らない。
知っているのはただ一つ。
あの日、自分より強い剣士が、この世にいた。
それだけだった。
やがて時が流れた。
老人のことを知る者は少しずつ減っていった。
村の子供たちは大人になり、かつての大人たちはさらに歳を取った。
それでも山には一本の剣が立っていた。
雨に濡れ。
雪に埋もれ。
朝日を受け。
夕暮れに影を落とした。
その前で、一人の少年が剣を振り続けていた。
老人は名を残さなかった。
流派も残さなかった。
弟子も取らなかった。
剣以外の何かを築こうともしなかった。
ただ、生涯をかけて振り続けた。
その果てに霞を斬り。
大陸最強と呼ばれた皇帝を破り。
そして、自分が辿り着いた頂のさらに向こうに、まだ続く道を見ながら死んだ。
その生涯を知る者は少ない。
だが、剣を振る音だけは残った。
朝靄の中。
少年が木剣を振る。
ひゅ、と。
まだ頼りない音だった。
それでも、昨日より僅かに澄んでいた。
その朝も山には、剣が空を裂く音だけが響いていた。
老人は、無名として現れた。
そして――伝説となって去った。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
「最強の老人を書きたい」から始まり、気づけば一人の男が人生のすべてを剣へ置いていく物語になりました。
剣の果てを追い続けた彼の生涯を、少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。




