まさか、まだ好きだとでもお思いですか?
「すまない、他に愛する人ができたんだ」
と言って頭を下げたのはどこの誰だったかしら。
片腕に幼げで可愛らしい容姿の女性を抱いて、貴方は私に綺麗なつむじを晒してみせた。
8つの時に婚約を結んでから10数年。
貴方を支えるために育てられ生きてきた私に、
貴方が少し待ってくれと言ったから適齢期を過ぎても結婚も待ったたこの私に、
貴方は婚約の解消を言い渡した。
曰く、私よりも5つ下のその女性はもう貴方の子を腹に宿しているとか。
かわいらしい見た目の彼女が、貴方の職場で補佐として働く姿が、小動物のようで愛らしかったからとか。
侯爵家という出自に甘えて、学問を極めることも働きに出ることもせず浪費を繰り返す私は、借金苦で苦しむ彼の家には相応しくないとか。
20を過ぎ25も目前の私は、嫁き遅れで相応しくないと彼の浪費家の祖母が反対しているとか。
貴方は、つらつらと私を捨てて若い女に乗り換える言い訳を並べた。
誰のために、
私が、
生きてきたかなど、
気づきもせずに。
侯爵家の私が、働かないのは婚約者の貴方の祖母が、女が働くことを是としなかったから。
貴方の母が、伯爵家の嫁が働くのは外聞が悪いと、頂けていた王太子妃付き女官の話を、私に無断で勝手に蹴ったから。家の格が近く幼い頃からの仲良しだったのに、小さな頃からの約束でお互い楽しみにしてたのに、貴方の母が私になんの承諾もなく断ったから。
学業の成績だって、自分の成績が見劣ると癪だから貴方自身で手を抜くように言ったじゃない。賢しい女は嫌われるぞと言って。
古くからある家の格と、優良な経営で得た潤沢な資金で貴方の家を助けるために、私たちの婚約は結ばれたのに。
行き遅れなのは、この歳になるまで待ったのは、全部貴方がそう望んだからだったのに。
私を冷たくあしらう貴方に、
お世辞にも優れているとは言えない貴方に、
周りに捨てろとさえ言われた貴方に、
私がここまで尽くしたのは、
全部、
全部、
貴方が
とてもすきだったから。
優秀な兄と可愛い妹に挟まれた私は、親の関心が得られなくていつもさみしかった。
いちばんさいしょは何でも兄様で、
いちばんだいじは何でもかわいい妹。
貴方が最初だったのだ。
わたしをいちばんにしてくれたのは。
あの頃はあなただけだった。
わたしにいちばんにあいにきてくれた。
わたしをいちばんにさそってくれた。
わたしにいちばんの宝物をくれた。
わたしをいちばん大事にしてくれた。
わたしが、いちばん、大好きだよって、言ってくれた。
だから、
だから、大好きだった。
貴方が1番私の特別だった。
この気持ちは貴方に少しも伝わっていなかったのだろうか。
私は、貴方の望むような女性には育てなかった。
貴方より目線ひとつ高い身長は、今からじゃとても縮めない。
テストの点は下げられても、周囲の評価は変わらない。
貴方が望むよりも低いこの声は、どんなに変えようと努力しても高くなることはなかった。
生まれついての立場と身分と環境で培ったこの性格は、どれだけ装うと貴方の理想にはならないのだから。
だから、貴方は私を捨てたとでも言うのだろうか。
貴方が選んだ相手ではなかったから。
貴方の望むような女ではなかったから。
そんな私が悪いから。
結局のところ、貴方は私のことが少しも好みではなかっただけだった。
私は背を丸めなければ隣を歩けないような男の事など、さっさと忘れるべきだった。
割り切ってしまえば良かったのだと今なら思う。
自分に都合のいい相手を選んで、過去の女を軽く捨てられるような男はろくでもない。
大好きな親友に言われたように、さっさと捨ててしまえばよかった。
尊敬する兄に言われたように、こちらから切ってしまえばよかった。
可愛い妹に言われたように、私をもっと大事にしてくれる人は沢山いたのに。
お陰で大切な私の時間を、ドブに捨ててしまっていた。
今はそれだけが心残りで。
そうすればもっと早くやりたいことを始められたのにね。
そう言うと大切な旦那様は少し笑って、私を撫でる。
その時間があったから、今の君がいるんだよと。
ウィルレッドはこの国で最も大きい商家の家長で、貴族との繋がりを求めていた。
20を過ぎた女の貰い手は貴族にはない。
そして、貴族の女は男の庇護がないと生きてはいけない。
父は、せめて不自由しないようにと彼との縁談をまとめてくれた。
ウィルレッドは、とにかく私を尊重した。
侯爵家からきた鼻持ちならない女に見えただろうに、彼は私の意見を聞き話をしてくれた。
好きな男に振られて意気消沈としていた私を、色々なところに連れていった。
この国の隅から隅と、隣の国と、海の向こうと。
綺麗な空も汚い泥も、護るべき宝も醜いものも隠すことなく全て見せた。
よく回る頭を活かしてくれと、ありとあらゆる商談にも私を連れていった。
今まで見たことも聞いたこともなかった話が、そこに溢れていた。
とても、とても楽しかった。
そこでは私の全てが活きた。
今まで培ってきた人脈も、身につけてきた知識も。
全てが私と彼を助け、商談をまとめる力となった。
ありのままの私が、そのまま反映されるような世界は心地よかった。
周囲の1番が欲しくて腐心していたあの頃よりもずっと、今の方が楽しかった。
もっとずっと、私で居られるようだった。
そんな私に、ウィルレッドは事業をひとつ預けてくれた。君の好きなようにして良いからと、君の名前を掲げて良いと。
あのころの溺れるような恋とは違っていたけれど、私は確かにウィルレッドを愛するようになっていた。
私を私として認めてくれる尊重してくれる彼を、私もまた彼として尊重したいと思えるようになっていた。
それはきっと、恋ではなくても愛だと思う。
そしてまた、愛する存在が1人増えた頃。
貴方は、私の前に現れた。
あの頃よりも幾分か老けた姿で。
あの頃よりも遥かに見窄らしい姿で。
姿が変わっていたせいか、不審人物として捉えられた貴方の事が本当に誰か分からなかった。
思い出そうと苦心していると、私を見つけた貴方はまた、よく回る口で捲し立てた。
貴方が愛した女性は飛んだクソ女であったと。
出会った頃はあんなに可愛かったのに、結婚して子供を産んだら悪魔になったと。
王宮で働くこともやめて家に篭もるようになり、子供と遊んでばかりいる。貴方が家に帰ろうものなら、貴方の家政への不参加と子への無関心と義母からの嫌味への庇護のなさを責め立てる。
苦しくなって、浮気をしたら悪魔の首でも取ったかのように非難してきたのだと。
最近では顔を合わせても、子がいなければすぐにでも別れるのに、としか言われないらしい。
こんな俺が可哀想だろうと宣った。
今なら俺を大好きなお前に、俺を養わせてやると偉そうに言い募るのだ。
こんな人が好きだったのかと、過去の自分への恥ずかしさを感じる。
商会の警備員に取り押さえられながらも尚、遠目の私に縋る姿はあまりにも情けなかった。
こんな人のどこが好きだったのだろうかと考えてみても今はもうよく分からない。
ただ、可哀想な人だと思った。
この人はこうやってこれからも誰かのせいにして、誰かを傷つけて生きていくのだろうなと思った。
ママ、と連れていた子が怖がって私の腰に抱きついたので、不審者は見えないところに出してもらうことにした。
誰かと間違えているようなので警邏隊にでも突き出してくださいと、警備員に頼む。
不審な男は何かを未だ捲し立てていたけれど、聞こえないように目の前の我が子の耳を塞いで目を合わせる。
怖がって揺れる瞳にもう大丈夫よと笑いかけて言った。
「パパのところのあまーいケーキ、食べにいこうか?」
それだけでご機嫌になって、元気よく駆け出すのだから子どもは可愛いなと思う。
迷子になったらいけないので、手を繋ごうと子の後を走って追いかけた。
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