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婚約破棄されたので悪役令嬢は「裏方」に転職します  作者: 秋月 もみじ


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第9話 裏方は、最後に表に出る


 サミット当日の朝は、雲ひとつない冬晴れだった。


 旧交易館の大広間に、最初の光が射し込んだのは午前六時。私はそれより一時間早く会場に入り、すべての最終確認を終えていた。


 席の配置。給仕動線。装花の角度。祭壇の高さ。窓の開閉。控室の温度。搬入口の施錠。護衛の配置図。進行表の最終版。チェック項目は八十七。すべてに印をつけ終えた時、ペンを持つ指が少し震えていた。


 緊張ではない。——いや、緊張だった。嘘をつくのはやめよう。これは、二十一年の人生で最大の仕事だ。


「カタリナ」


 マーサが裏方テントに顔を出した。手にはカモミールの湯呑み。蜂蜜入り。


「飲みな。空きっ腹に緊張は毒だよ」


「ありがとう、マーサ」


 湯呑みを受け取った。温かかった。蜂蜜の量が少し多い。甘やかされている、と思った。今日くらいは甘えてもいいか、と思い直した。


 午前九時。五カ国の代表団が、順次到着した。


 最初はバルトゥーク王国。北の街道から馬車三台。護衛の騎士が八名。代表は武官出身の外務大臣で、短い挨拶の後、迷いなく席に着いた。正面玄関から大広間まで、立ち止まる人は一人もいなかった。入口の緩衝帯が機能している。


 次にアマリージュ公国。第二桟橋に小型の外交船が着岸し、南門から入場。海路の代表団は船酔いで体調を崩すことがあるため、南門から大広間までの経路に休憩用の長椅子を二脚置いておいた。使われなかったが、公国の随行員の一人が長椅子を見て安堵の表情を浮かべたのを、私は裏方テントの隙間から確認した。


 サヴォワ聖教国。東の丘陵路から、白い天蓋付きの馬車。代表は聖教国の枢機卿に相当する高位聖職者で、静かな物腰の老人だった。月桂樹荘での一泊を経て、穏やかな足取りで着席した。


 ガルディア帝国。代表団の到着と同時に、ルシアン殿下が裏方テントに顔を出した。


「帝国代表団、着席完了。問題ありません」


「ありがとうございます。殿下もお席に」


「ええ。——準備は万全ですか」


「八十七項目、すべて確認済みです」


「では、あとは任せます」


 殿下はそれだけ言って、大広間に向かった。任せる、という言葉を、この人は軽くは使わない。それを知っているから、私は背筋を伸ばした。


 最後にエスタリア王国。代表団の先頭にいたのは、アルベルト・エスタリア王太子だった。


 三ヶ月前に私を断罪した人物が、私が設計した動線を歩き、私が配置した席に着く。その光景を裏方テントから見つめながら、私は奇妙な静けさを感じていた。怒りでも悲しみでもない。ただ、事実としてそこにある。


 アルベルト殿下の隣には、ヴァイス侯爵の姿があった。宮廷行事局長として代表団に同行している。灰色の髪を丁寧に整え、堂々とした体躯。四十八年の人生で培った威厳が、その背中にあった。


 全員の着席を確認し、私は進行表の最初の項目に目を落とした。


 開会の辞。そして、聖女の祝福。



 リゼット・フォンターナが壇上に立った。


 白と水色の衣が、南窓からの光を受けて淡く輝いている。壇上の装花は白百合——リゼット自身が選んだもの。高さ三十センチの木製壇は、彼女の華奢な体を会場全体から見える位置に持ち上げていた。


 祝詞が始まった。サヴォワ聖教国の古語による祈りの言葉。リゼットの声は澄んでいて、大広間の隅まで届いた。光魔法の淡い輝きが、祭壇の周囲に広がる。


 美しい光景だった。それは認めなければならない。


 祝詞の最後の一節が終わり、光が静かに消えた。各国の代表が小さく拍手を送る。


 ここで退場するのが、進行表通りの流れだった。


 リゼットは、退場しなかった。


「——お集まりの皆様に、聖女として、一つお伝えしなければならないことがございます」


 拍手が止まった。大広間が静まり返る。


 裏方テントの中で、私の手が止まった。進行表にない言葉。進行表にない行動。


「このサミットの運営を担っている女性——カタリナ・グランヴェールは、かつてエスタリア王国の宮廷で、聖女である私に対し、数々の嫌がらせと中傷を行いました。その罪は、卒業式の場で王太子殿下により裁かれ、彼女は正当に追放されたはずです」


 リゼットの声は震えていた。三ヶ月前と同じ、涙を堪えるような震え方。


「にもかかわらず、彼女は今、国際的な舞台で名声を得ようとしています。これは正義に反します。聖女の名において、私はここに——」


「リゼット様」


 私は裏方テントの幕を開け、大広間に足を踏み入れた。


 百人を超える視線が、一斉にこちらを向いた。五カ国の代表、随行員、護衛、給仕。すべての目が私を見ている。


 心臓が跳ねた。足が竦みそうになった。裏方の人間は、表に出るようにできていない。三ヶ月前、この視線の中で断罪された記憶が蘇る。


 けれど、三ヶ月前と違うことが一つある。


 今の私には、証拠がある。


 歩き出す瞬間、視界の端にルシアン殿下の姿が映った。帝国代表席から、こちらを見ている。その右手が僅かに動いた——伸ばしかけて、止めた。半拍の間があって、殿下は手を膝の上に戻した。


 止めてくれたことに、感謝した。これは、私が自分で立つべき場面だ。


「リゼット様。お話の途中に失礼いたします」


 私は壇上の前に立った。リゼットを見上げる形になるが、構わなかった。視線の高低差は、今は問題ではない。


「今のお話について、事実関係の確認をさせていただきたく存じます。お集まりの各国代表の皆様にも、ご判断の材料としてお聞きいただければ幸いです」


 革鞄を開いた。


 七年分の影帳簿。業務日誌。企画書の原本。改善記録。発注先リスト。契約メモ。そして、脅迫状。侵入未遂の記録。


 すべてを、順序立てて並べた。


「まず、私が宮廷行事局で七年間担ってきた業務の記録です」


 影帳簿の該当頁を開き、各国代表に見えるように掲げた。


「国際晩餐会、春の園遊会、秋の叙任式、各季の外交茶会——これらの行事の企画・動線設計・予算管理・現場統括は、すべて私が行いました。公式の記録では宮廷行事局の功績とされていますが、企画書の筆跡と日付をご確認いただければ、原案が誰のものであるかは明らかです」


 声は落ち着いていた。自分でも驚くほど。


「次に、リゼット様が先日『成功させた』とされる園遊会の企画書について」


 二枚の書類を並べて見せた。一枚は私の影帳簿にある園遊会の企画原案。もう一枚は、エミールの視察時に入手した現行の園遊会企画書の概要——ノーラが王都の知人を通じて取り寄せたものだった。


「動線設計、装花配置、給仕ルート——構成の八割が、私が三年前に作成した原案と一致しています。引き継ぎ書を受け取らなかったはずの宮廷行事局が、なぜ私の企画と同じ構成の行事を実施できたのか。可能性は二つです。引き継ぎ書を実際には保持していたか、あるいは私の業務日誌の写しが局内に残っていたか」


 大広間がざわめいた。バルトゥーク王国の代表が身を乗り出し、二枚の書類を見比べている。


「続いて、私がレミエールに移った後に受けた妨害について」


 脅迫状を掲げた。封蝋の偽造紋章、紙の透かし、筆跡の特徴を一つずつ説明した。


「この封蝋はエスタリア王家の紋章に似せていますが、鷲の足の左右が逆です。公式の紋章型ではなく、私的に模造されたものです。紙は王都の文具店『羽根ペン亭』の高級綿紙で、一般には流通していません」


 次に、マーサの証言を添えた侵入未遂の記録を示した。


「フォンターナ家の侍女が、夜間に私の事務所への侵入を試みた事実も記録しています。元宮廷メイド長マーサ・リンドグレンが人物を特定し、証言が取れています」


 私の声が一度だけ震えたのは、次の言葉を口にした時だった。


「私は七年間、自分の名前を消されて働きました。行事が成功すれば行事局の功績。失敗すれば裏方の不手際。それでも記録を残し続けたのは——いつか、事実が事実として認められる日が来ると信じたかったからです」


 震えた。ほんの一瞬だけ。けれど、その瞬間に帝国代表席からルシアン殿下が半歩だけ前に出たのが見えた。立ち上がったのではない。席に座ったまま、体が半歩分だけ前に傾いた。言葉はない。距離だけが、少し縮まった。


 それだけで十分だった。


 私は息を整え、最後の証拠を提示した。


「以上の記録は、すべて日時・場所・関係者を明記した原本です。検証は各国の代表団にお任せいたします」


 沈黙が降りた。


 最初に動いたのは、ルシアン殿下だった。


「ガルディア帝国外交特使として、補足いたします」


 殿下は立ち上がり、帝国の公式書類を手に取った。


「先ほど提示された脅迫状は、帝国外交文書として既に記録済みです。サミット準備に対する妨害行為の証拠として、帝国外務省の書庫に保管されています。また、サミット会場の選定に際し、エスタリア外務省から会場の正当性に異議が申し立てられましたが、バルトゥーク王国、アマリージュ公国、サヴォワ聖教国、ガルディア帝国の四カ国の賛同により退けられています」


 殿下は各国代表に視線を向けた。


「カタリナ・グランヴェール嬢の名前は、帝国の公式報告書に運営責任者として記載されています。この報告書は帝国外務省の書庫に五十年間保管されます。彼女の実務能力は、本日このサミットが滞りなく開会したことそのものが証明しています」


 バルトゥーク王国の代表が重々しく頷いた。アマリージュ公国の代表が、二枚の企画書を見比べたまま顔を上げた。


 サヴォワ聖教国の枢機卿が、静かに口を開いた。


「聖女認定は、サヴォワ聖教国の権限において行われます。聖女の名を用いて国際的な場で虚偽の告発を行うことは、聖女の資格に関わる重大な問題です。帰国後、聖女認定の再審査を検討いたします」


 壇上のリゼットの顔から、血の気が引いた。涙は——もう流れていなかった。


 そして、エスタリア代表団の中から、一人の男が立ち上がった。


 金の髪と青い目。王太子の礼装。アルベルト・エスタリアが、席を離れて大広間の中央に歩み出た。


 その視線はまず、ヴァイス侯爵に向けられた。侯爵は代表団の後列に座っていた。灰色の髪の下の顔は、無表情だった。しかし、膝の上に置いた手が微かに震えているのを、私は見逃さなかった。


「ヴァイス侯爵」


 アルベルト殿下の声は、三ヶ月前の卒業式と同じく、大広間に響き渡った。


「宮廷行事局長としてのあなたの職務を、本日をもって解く。功績の私物化、部下の業績の横領、国際行事への妨害工作——これらの疑義について、帰国後に正式な調査を行う」


 ヴァイス侯爵は立ち上がらなかった。立ち上がれなかった、というのが正確かもしれない。四十八年間かけて積み上げた地位が、五カ国の代表の前で崩れ落ちる音を、私は聞いた。音はしなかった。けれど、確かに何かが崩れた。


 アルベルト殿下は、次に私の方を向いた。


「カタリナ・グランヴェール嬢」


「はい」


「卒業式における私の判断は、事実の確認を怠った、軽率なものだった。あなたの七年間の功績を知りながら——いや、知ろうとしなかった。その不明を、恥じる」


 殿下は頭を下げた。王太子が、公の場で、かつて断罪した相手に頭を下げる。五カ国の代表が見つめる中で。


「申し訳なかった」


 大広間が静まり返った。


 三ヶ月前と同じ広間の静寂。けれど、あの日とは何もかもが違う。あの日、静寂の中にあったのは断罪の空気だった。今日、静寂の中にあるのは——認知だった。私が何をしてきたか、何をされたか、そして何を成し遂げたかを、この場にいる全員が知っている。


「……殿下。顔をお上げください」


 私の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


「お詫びは、受け取りました。ただ、私が欲しかったのは謝罪ではありません。事実が事実として認められること。それだけです」


 アルベルト殿下は顔を上げた。その目に浮かんでいたのは、怒りでも悲しみでもなく、初めて見る種類の痛みだった。自分が間違っていたと認めることの痛み。それを見て、私の中の何かが——憎しみとも怒りとも違う、長い間抱えていた重さが——少しだけ軽くなった。


 すべてではない。七年間の重さが、一日で消えるはずがない。


 けれど、少しだけ。確かに。



 サミットは、その後、予定通りに進行した。


 各国の議題は粛々と議論され、通商条約の改定案が採択された。給仕動線に詰まりはなく、配膳は時間通り。控室の温度管理も問題なし。護衛の交代もスムーズだった。


 裏方テントに戻った私を、マーサが待っていた。


「見てたよ。全部」


「……裏方なのに、表に出ちゃいました」


「裏方が表に出なきゃいけない時ってのは、あるのさ。あんたは立派だったよ」


 マーサの手が、私の頭をぽんと撫でた。五十五年の人生が詰まった、硬くて温かい手だった。



 サミットの全日程が終了したのは、夕方だった。


 各国の代表団が順次退場し、大広間に残ったのは片付けの人員だけになった。ピートが装花を丁寧に取り外し、トーマスが卓と椅子を元の位置に戻している。


 私は大広間の南窓の前に立っていた。夕陽が港の水面を赤く染めている。三ヶ月前に見たのと同じ赤——いや、違う。あの日は公爵邸の窓から見た夕陽だった。勘当を告げられた夜の赤だった。


 足音がした。


「グランヴェール嬢」


 振り返ると、ルシアン殿下が大広間の入口に立っていた。帝国代表の礼装のまま。翠緑の瞳に、夕陽の赤が映っている。


「終わりましたね」


「ええ」


 殿下は大広間を横切って、南窓の前まで歩いてきた。私の隣に、一歩分の距離を空けて立った。


「……終わりました」


 自分で言って、ようやく実感が湧いた。終わった。サミットが終わった。妨害を退け、告発を覆し、事実を認めさせ、行事を完遂した。段取りを組み、証拠を揃え、自分の足で立って、自分の声で話した。


 全部、終わった。


「感情は、全部終わってからでいいと言っていましたね」


 殿下の声が静かに響いた。


 ——それは、私の言葉だった。あの徹夜の夜、殿下が窓際で何かを考えていた時に、私が返した言葉。


「全部終わりました。今なら、いいのではないですか」


 許可を与える声ではなかった。問いかけでもなかった。ただ、事実を確認する声だった。今はもう、段取りの時間ではない。感情を後回しにする理由が、もうない。


 夕陽が窓から差し込んでいた。大広間には私たちだけだった。


「……殿下」


「はい」


「少しだけ、泣いてもいいですか」


「どうぞ。私はここにいます」


 涙は静かに落ちた。声を上げて泣くような涙ではなかった。七年分の、行き場のなかった水が、ようやく流れ出しただけの涙だった。


 ルシアン殿下は何も言わなかった。ハンカチを差し出すこともなかった。ただ、隣に立っていた。一歩分の距離を、変えずに。


 その距離が、今はちょうど良かった。

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