第8話 聖女の祭壇と、選ばなかった道
サミットまで二週間を切った朝、旧交易館の前にレミエールの住民たちが集まっていた。
花屋のピートが会場入口の装花を仮組みし、グスタフが食材の最終発注リストを持って走り回り、トーマスの弟子たちが大広間の最後の仕上げに取りかかっている。港町の空気は普段ののんびりした潮風とは違って、柔らかな緊張と期待に満ちていた。
「カタリナさん、バルトゥーク王国の代表団は北の街道から入るんだろう。宿はどこだい」
「港通りの『白帆亭』です。馬車三台分の駐車場を確保済みです。バルトさんに馬の世話を頼んであります」
「アマリージュ公国は?」
「海路でいらっしゃいます。港の第二桟橋に直接着けて、そのまま旧交易館の南門から入れるルートを作ってあります」
「サヴォワの聖教国は?」
「東の丘陵路から。宿は『月桂樹荘』——静かな場所をご希望とのことでしたので」
グスタフは目を丸くした。
「全部頭に入ってるのかい」
「入れておかないと、当日に判断が遅れますから」
五カ国の代表団。それぞれの到着経路、宿泊先、護衛の配置、食事の好み、宗教上の制約、座席の序列。同時に管理すべき情報は百を超える。空間把握の能力は物理的な配置に特化しているが、情報の整理は純粋に七年間の訓練の成果だった。頭の中に棚を作り、項目ごとに並べる。棚が足りなくなったら、新しい棚を作る。それだけのことを、毎日繰り返す。
午前中の打ち合わせを終え、事務所に戻ろうとした時、港の方角から馬車の音が聞こえた。
四頭立ての馬車。車体は白漆で、側面にフォンターナ家の紋章——百合と聖杯——が金で描かれている。サミットの代表団ではない。各国の到着は来週の予定だ。
馬車の扉が開き、一人の女性が降り立った。
淡い金の髪を緩く編み、白と水色の衣を纏っている。胸元に聖女認定の銀の徽章。細い手首に聖教国から授かった珠数。顔立ちは端正で、表情はどこまでも穏やかだった。
リゼット・フォンターナ。
三ヶ月前、王立学園の卒業式で涙を流しながら私を告発した聖女が、レミエールの港に立っていた。
「お久しぶりです、カタリナ様」
その声は、あの日と同じだった。柔らかく、儚げで、誰もが庇護したくなるような響き。私はこの声が大広間に響いた時の光景を覚えている。『カタリナ様に……ひどいことを言われたのです……』。涙で途切れる声。同情する視線。断罪の空気が一気に固まった瞬間。
「お久しぶりです、リゼット様。レミエールへようこそ」
私は普段通りの声で返した。動揺はしていない——と思う。少なくとも、声は震えなかった。
「このたび、エスタリア王国代表団の随行として、サミットの祝福を務めさせていただくことになりました。微力ながらお役に立てればと思います」
「それはありがたいお申し出です。聖女様の祝福があれば、サミットの格も上がりましょう」
形式的な挨拶を交わした。リゼットの目は微笑んでいたが、視線は私の背後——事務所の方を一瞬だけ見た。何があるか確認しようとする目だった。
随行していた侍女が三人。そのうちの一人——栗色の髪を低く結った若い女性——が、周囲を観察するように視線を巡らせていた。
午後、旧交易館の大広間で、リゼットとの打ち合わせを行った。
聖女による祝福は、サミット開会式の冒頭に行われる。五カ国の代表が着席した後、聖女が祝詞を読み上げ、祝福の光魔法を灯す。形式としては短い儀式だが、配置次第で式典全体の印象が変わる。
「カタリナ様、祭壇の位置についてご相談がございます」
リゼットは大広間の中央を見渡しながら、穏やかに切り出した。
「祝福の祭壇は、主賓席の正面に置いていただきたいのです。聖女の祝福は各国代表に等しく届くべきですから、すべての方の視線が集まる場所が最もふさわしいかと」
すべての方の視線が集まる場所。それはつまり、式典で最も目立つ位置だ。
主賓席の正面は、五カ国の代表の視線が交差する焦点にあたる。ここに祭壇を置けば、祝福の間、すべての代表がリゼットを正面から見つめることになる。聖女が式典の中心に立つ構図。外交の場で、一国の聖女が全体の焦点に立つことの意味を、リゼットが理解していないとは思えなかった。
「リゼット様、ご提案をいただきありがとうございます。一点、ご説明させてください」
私は大広間の見取り図を広げた。
「祝福は式典の冒頭に行われます。つまり、代表団が着席し、開会の辞が述べられた後、最初の儀式です。冒頭の儀式は入場の流れを受けて行うのが自然ですので、祭壇は入口側——大広間の北側に配置するのが合理的です」
「しかし、入口側では代表の皆様に背を向ける方もいらっしゃるのでは」
「いいえ。北側に祭壇を置く場合、代表席の弧の開口部が北を向く配置になります。すべての代表が祭壇を正面に見る形です」
見取り図の上で、指で席の配置を示した。南窓側に弧を描く五カ国の代表席。弧の開口部は北。北に祭壇を置けば、全員が祭壇を向く。
「一方、主賓席の正面——南窓側に祭壇を置きますと、代表同士の視線の交差点に聖女様が立つことになります。外交の場では、視線の焦点に特定の国の関係者が立つことは、その国に対する優遇と解釈される場合があります。エスタリアの聖女様がその位置に立たれると、五カ国の中立性が疑われる恐れがあるのです」
リゼットの微笑みが、ほんの僅かだけ固くなった。
「……カタリナ様は、私が目立ちたいからそう申していると、お思いですか」
「いいえ。聖女様が祝福の効果を最大にしたいとお考えなのは当然のことです。ですから、北側の祭壇には高さを設けます。一段高い壇上から祝福を行えば、光魔法の到達範囲も広がりますし、視覚的にも聖女様の存在感は十分に伝わります」
私は見取り図に壇上の寸法を書き加えた。高さ三十センチの木製壇。聖女が一段高い位置に立つことで、祝福の構図は美しくなる。同時に、壇上は入口側にあるため、祝福が終われば自然に退場できる。式典の中心に居座る構図にはならない。
リゼットは数秒だけ沈黙した。
「……分かりました。カタリナ様のご提案に従います」
「ありがとうございます。壇上の装花はリゼット様のご希望に沿いますので、後日ご指示ください」
打ち合わせは十五分で終わった。リゼットは微笑みを崩さないまま大広間を去った。その足取りに乱れはなかったが、随行の侍女たちの表情は硬かった。予定通りに運ばなかったことが、彼女たちの顔に出ていた。
その夜のことだった。
事務所の二階で帳簿を整理していた私のもとに、マーサが階段を上がってきた。
「カタリナ、ちょっといいかい」
マーサの声はいつもより低かった。普段は辛口ながらも温かい声が、今は警戒の色を帯びている。
「どうしました」
「さっき、裏口の鍵を確認しに行ったら、窓の下に人がいた。こそこそ中を覗こうとしてたよ」
「……誰ですか」
「フォンターナ家の三番侍女。栗色の髪を低く結った娘。宮廷にいた頃に何度か見かけた顔さ。忘れないよ、あたしは」
マーサは腕を組んだ。元宮廷メイド長の記憶力は、貴族の顔と名前と家紋を網羅している。この人の前で正体を隠すのは至難だ。
「追い返しました?」
「『フォンターナ家の三番侍女さん、夜のお散歩かい。お嬢様によろしく』って言ったら、蒼い顔して走っていったよ」
私は思わず口元を押さえた。笑ってはいけない場面だが、マーサの一言の破壊力は凄まじい。名前も身元も把握していることを一発で伝え、しかも脅迫ではなく挨拶の形で退場させる。七年間の宮廷で磨かれた、言葉の刃だった。
「マーサ、ありがとうございます。今日の件は日時と状況を記録に残します」
「そうしな。あの手の連中は一度で諦めない。けど、顔が割れたからには二度目はやりにくいだろうさ」
私は革鞄から記録帳を取り出し、日時・場所・人物・状況を書きつけた。脅迫状、侵入未遂。証拠は着実に積み重なっている。
マーサは記録を書く私の手元を見つめ、それから小さく嘆息した。
「あんたは昔から、捨てない子だったね。紙切れ一枚、数字ひとつ。全部取っておく。あの頃は心配してたけど、今になって思うよ——あんたのその癖が、あんたを守ってるんだ」
「マーサに教わったんです。『証拠のない正義は愚痴と同じ』って」
「あたしはもう少し上品な言い方をしたはずだけどね」
マーサは鼻を鳴らして、階下に戻っていった。私は記録帳を閉じ、革鞄の留め金を丁寧に閉めた。
翌朝。事務所にルシアン殿下が来たのは、いつもより早い時間だった。
表情に変化はない。けれど、椅子に座る前に窓の外を確認し、扉の鍵を閉め直した。普段はしない動作だった。
「グランヴェール嬢、一つ報告があります」
「はい」
「昨日、エスタリア宮廷から帝国外交部宛に書簡が届きました。内容は——サミット終了後、あなたを王都に呼び戻したいという打診です」
私はペンを置いた。
「呼び戻す、というのは」
「宮廷行事局への復帰です。正式な肩書と待遇を与える用意がある、と。ヴァイス侯爵の名前は出ていませんが、行事局長の承認印が押されています」
六話の外務省書簡と同じ構図だった。ヴァイス侯爵は自分の名前を前面に出さず、公的な枠組みの中で動く。
けれど、今回は異質だった。物資妨害でも、会場への異議でも、脅迫状でもない。私を排除するのではなく、取り込もうとしている。
妨害が通じなかったから、懐柔に切り替えた。
「殿下。この打診に、帝国としての対応は必要ですか」
「外交手続き上は、帝国が返答する義務はありません。サミット運営は帝国との委託契約に基づいていますから、契約当事者であるあなたの判断が優先されます」
「では、私が断れば終わる話ですか」
「ええ。あなたが断れば、それで終わりです」
殿下の声はいつも通り平坦だった。けれど、「あなたが断れば」の部分だけ、ほんの僅かに速かった。気のせいかもしれない。けれど、外交官の話速が乱れることの意味を、私は考えないわけにはいかなかった。
窓の外を見た。港の朝の風景。荷車が行き交い、漁師たちが網を繕い、パン屋の煙突から白い煙が上がっている。ここは王都ではない。宮廷ではない。私が自分で選んだ場所だった。
「お断りします」
「……理由を、先方に伝える必要があります」
「理由は簡単です。私は自分で選んだ場所で、自分の名前で仕事をします。他の誰かの看板の下に戻るつもりはありません」
言葉にしてみると、迷いは何もなかった。
七年間、名前を消されて働いた場所に戻る。肩書と待遇を与えるという約束。それが本当に守られる保証はない。仮に守られたとしても、ヴァイス侯爵の管理下で働くことに変わりはない。
けれど、それ以前の問題として——私はもう、誰かに許可を求めて働く生き方に戻りたくなかった。
ルシアン殿下は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
それが安堵なのか、別の感情なのか、私には判別がつかなかった。判別がつかないまま、殿下は顔を上げた。いつもの冷静な表情に戻っている。
「承知しました。帝国外交部を通じて、正式にお断りの返書を送ります」
「ありがとうございます」
「なお——」
殿下はペンを取り、書類に目を落とした。
「契約書の第十五条で競業避止義務を削除したのは、あなたの判断でした。つまり、サミットが終わった後も、あなたは自由にどこへでも行ける。王都にも、帝国にも、あるいはどこにも行かないという選択もできる」
「ええ。だから私はここにいるんです。縛られているからではなく、選んでいるから」
殿下のペンが一瞬止まった。それからまた動き出した。
「……それは、私にとっても重要な情報です」
その声は、外交官の声ではなかった。何の声かは分からない。分からないまま、私は自分の仕事に戻った。
サミットまで、あと二週間。
脅迫状、物資妨害、会場への異議、侵入未遂、懐柔の打診。ヴァイス侯爵の手札は、一枚ずつ潰されている。残った手札が何かは分からない。けれど、それがサミット当日に切られることだけは、ほぼ確実だった。
私は設計図を広げ、当日の進行表の最終版に取りかかった。想定すべきは、段取り通りに進む場合だけではない。段取りが崩された時に、どう立て直すか。
裏方の仕事は、本番が始まってからが本当の勝負だった。




