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婚約破棄されたので悪役令嬢は「裏方」に転職します  作者: 秋月 もみじ


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第7話 五カ国の返書


 旧交易館の大広間は、十日前とは見違えるほど変わっていた。


 壁面の蔦は取り払われ、石壁が丁寧に磨き直されている。南面の窓は枠ごと交換され、秋の午後の光がまっすぐに差し込む。床の石畳は目地を埋め直し、テーブルと椅子の仮配置が始まっていた。


「カタリナさん、主賓席はこの位置でいいかい」


 家具職人のトーマスが、大広間の中央やや南寄りに長卓を置いて振り返った。白髪交じりの髭面に、職人らしい実直さが滲んでいる。


「もう半歩だけ南へお願いします。窓からの光が正面に当たる角度にしたいんです。逆光にならず、かといって影が落ちない位置が——そこです」


「細かいねえ」


「細かいのが仕事なので」


 トーマスは苦笑しながら卓を動かした。半歩。たった半歩の違いだが、主賓席に座った人物の顔に光が均等に当たるか、片側に影ができるかが変わる。外交の場では、席の配置ひとつが国家間の力関係を暗示する。影の中に座らされた代表は、それだけで格下に見られかねない。


 私は大広間を歩きながら、残りの席の配置を確認した。五カ国の代表席は南窓側に弧を描く形で並べる。弧の中心が主賓席。左右に二カ国ずつ。席の間隔は均等に、どの国も主賓から等距離になるように。


 給仕動線は時計回りの一方通行。厨房は東の搬入口に仮設し、配膳ルートと下膳ルートを完全に分離する。王都の園遊会で何度も設計し、何度も報告書から名前を消された、あの動線の完成形がここにある。


「カタリナさん、東の回廊に絨毯を敷くかい。VIPが通るんだろう」


「いえ、絨毯は不要です。石畳のまま、滑り止めの溝を彫ってもらえますか。絨毯は足音を消しますが、護衛にとっては不審者の接近に気づきにくくなります」


「なるほど。護衛の都合まで考えるのか」


「裏方は全員の都合を考える仕事ですから」


 トーマスは感心したように頷き、弟子に溝彫りの指示を出した。レミエールの職人たちは腕が良く、仕事が早い。王都の宮廷業者のように格式を気にして手が遅くなることがない。図面を渡せば、翌日には仕上がっている。この十日で、私は彼らを信頼し始めていた。



 午後三時。事務所に戻ると、ルシアン殿下が窓際の席で書類を読んでいた。


 その手元に、見慣れない封書があった。


 封蝋は紺色。紋章は盾と剣——エスタリア王国外務省の公式印だった。今度は偽造ではない。鷲の足の向きも、紋章の細部も、正規のものだ。


「殿下、それは」


「先ほど、公式の外交便で届きました。宛先は、ガルディア帝国外交特使——私です」


 殿下は封書を開き、中の書簡を机の上に広げた。


 エスタリア王国外務省の公式書式。署名は外務次官の名前だが、その上に添えられた承認印は宮廷行事局長——ゲオルク・ヴァイスの紋章だった。行事局長の承認印が外務省の書簡に付くのは、通常ではありえない。ヴァイス侯爵が外務省に圧力をかけた証拠が、皮肉にもこの書簡自体に刻まれていた。


「要旨を読みます」


 殿下の声は平坦だった。


「『多国間サミットの会場として選定されたレミエール港町は、エスタリア王国の自治特区であり、王国の直轄領ではない。したがって、同地における国際行事の開催はエスタリア王国の公式行事として認めがたく、会場選定の再検討を求める』」


 私は椅子に座ったまま、書簡の文面を頭の中で分解した。


 論点は三つ。レミエールが自治特区であること。直轄領でないこと。公式行事として認めがたいこと。


 一つ目と二つ目は事実だ。レミエールはエスタリア王国の領土内にあるが、自治権を持つ特区として百年以上の歴史がある。王都の直接管轄ではない。


 しかし、三つ目は——。


「殿下」


「はい」


「このサミットは、エスタリア王国の公式行事ですか」


「いいえ」


 殿下はペンを置いた。


「五カ国共催の多国間サミットです。エスタリアは五カ国のうちの一カ国に過ぎない。会場選定はエスタリア単独の権限ではなく、参加国の合意事項です」


「つまり、エスタリア外務省には——」


「会場選定の決定権がない。異議を申し立てることはできますが、他の四カ国が賛同すれば、エスタリア一国の反対では覆せません」


 私は影帳簿を取り出した。革鞄の留め金を外し、該当の頁を探す。三年前ではない。もっと古い記録——七年前、私が宮廷行事局に配属されて最初の年に整理した、過去の外交行事の一覧表だった。


「殿下、これを」


 該当の頁を開いて差し出した。


「四十二年前、第三回アルセイア通商会議がレミエールで開催されています。当時のエスタリア国王が自ら出席し、条約に署名しています。つまり、エスタリア王国自身がレミエールでの国際行事を公式に認めた前例があります」


 ルシアン殿下は帳簿を受け取り、記載を確認した。目が僅かに見開かれたが、すぐに元の表情に戻った。


「……この記録は、宮廷行事局の公式記録にもありますか」


「あるはずです。ただ、私が在籍していた頃、四十年以上前の記録は書庫の奥に移されていて、閲覧する人間はほとんどいませんでした」


「しかし、あなたは閲覧した」


「配属初年度に、過去百年分の行事記録を全て目録にしました。……何が役に立つか分からないので」


 殿下は帳簿を机に戻し、長い息を一つ吐いた。呆れとも感嘆ともつかない吐息だった。


「この前例を添えて、四カ国に書簡を送ります。レミエールでの開催に賛同するかどうかを正式に照会する。エスタリアの異議を多数決で退ける形です」


「各国の外交担当は、既にサミットの準備を承知していますか」


「ええ。先日送った報告書で、会場と運営体制は通達済みです。返答は早いはずです」


 ルシアン殿下は新しい羊皮紙を四枚取り出した。


「ただし、書簡だけでは弱い。会場の設計図を添付したい。各国の代表に、この会場がいかに合理的に設計されているかを見せれば、賛同の根拠が強まる」


「設計図ですか」


「大広間の配席図、動線図、警護配置図。可能ですか」


「……今日中に仕上げます」


「急がせて申し訳ない」


「いえ、頭の中にはもうあります。紙に起こすだけです」


 それは正確な表現だった。空間把握で捉えた配置は、既に数字と図形として頭の中に存在している。それを平面図に変換する作業は、時間さえあれば難しくない。


 問題は、時間だった。四カ国への書簡を同時に発送するなら、設計図も四部必要になる。一部につき、清書で二時間。四部で八時間。今から始めれば——明け方には終わる。


「徹夜になりますが」


「私も書簡を四通書きます。同じ時間です」


 その夜、事務所の机を挟んで、ルシアン殿下と私は向かい合って座った。


 殿下は帝国語で書簡を綴り、私は製図用の細い筆で設計図を描いた。窓の外は暗く、机上の魔灯だけが手元を照らしている。


 言葉はほとんど交わさなかった。必要がなかった。殿下が書簡の文面を考える時、ペンが止まる音がする。私が製図の線を引き直す時、紙を擦る音がする。それだけで、互いが同じ締切に向かって手を動かしていることが分かった。


 深夜を回った頃、殿下が不意に立ち上がった。


 紅茶を淹れに行ったのだと思った。けれど、棚の前を通り過ぎて窓際に立ち、夜の港を見つめた。


「殿下?」


「——いえ。少し、考えていました」


「何を、ですか」


「これが終わったら何をするか、ということを」


 この書簡のことか、サミット全体のことか。訊こうとして、やめた。殿下が何を考えていたとしても、今は手を動かす時間だった。


「考えるのは、全部終わってからにしませんか。……私はいつもそうしています」


「……ええ。そうしましょう」


 殿下は席に戻り、ペンを取った。私も筆に戻った。


 三枚目の設計図を仕上げた頃には、窓の外がうっすらと白み始めていた。四枚目の最後の線を引いた時、朝の最初の光が机の上に届いた。


 そして、私はそのまま机に突っ伏した。


 意識が落ちたのは一瞬だった——と思う。目を覚ました時、窓からは完全な朝日が差していた。少なくとも一時間は経っている。


 肩に、何か温かいものが掛かっていた。


 深い緑色の外套。上質な羊毛の織物で、裏地に帝国紋章の小さな刺繍がある。ルシアン殿下のものだった。


 殿下は向かいの席で、四通目の書簡に封をしているところだった。私が起きたことに気づくと、視線だけをこちらに向けた。


「おはようございます。設計図は四枚とも確認しました。不備はありません」


「……おはようございます。すみません、寝てしまって」


「三時間半の徹夜です。寝る方が普通です」


 私は外套を畳もうとして、少し迷った。返すべきだ。返すべきなのだが、羊毛の温もりが名残惜しかった。——何を考えているのだ。私は外套を丁寧に畳んで殿下の机の端に置いた。


「ありがとうございます」


「風邪をひかれると、サミットの準備が止まります」


 実務上の理由だった。実務上の理由のはずだった。けれど殿下は、それ以上は何も言わず、封をした四通の書簡を鞄にしまった。


 廊下の向こうで、扉が小さく閉じる音がした。


 振り返ると、ノーラが台所の入口に立っていた。——いつからいたのだろう。その顔は、にやにやという表現が最も正確だった。


「ノーラ」


「何も言ってないよ。朝ごはん、作るね」


 何も言っていないが、すべてを語る顔だった。私は深呼吸して、設計図の最終確認に意識を戻した。



 四通の書簡と設計図は、その朝のうちに魔法郵便鳥で発送された。


 ガルディア帝国本国、サヴォワ聖教国、東のバルトゥーク王国、南のアマリージュ公国。四カ国の外交担当に同時に届く。


 結果は、三日後に出た。


 最初に届いたのはバルトゥーク王国からの返書だった。『レミエールでの開催を歓迎する。設計図を拝見し、会場の適格性に疑義はないと判断する』。簡潔で、軍人気質の国らしい返答だった。


 同日の午後にアマリージュ公国。『素晴らしい会場設計に感銘を受けた。設計者の名前を記録に残したい』。外交辞令ではあるが、私の名前が各国に届いていることを示していた。


 翌日、サヴォワ聖教国。『聖都としての立場から、平和的な国際行事の開催地としてレミエールを承認する。自治特区であることは、中立性の証左と考える』。


 最後に、ガルディア帝国本国から。『既に承知の通り、当帝国は本サミットの運営体制を支持する。レミエール港町における開催に全面的に賛同する』。


 四通の返書が事務所の机に並んだ時、ルシアン殿下は静かに言った。


「五カ国中四カ国が賛同。エスタリアの異議は退けられました」


 私は四通の返書を見つめた。四枚の羊皮紙。四カ国の公式印。それぞれの国の言葉で書かれた賛同の文面。


 ヴァイス侯爵が外務省を動かし、王国の名を使って仕掛けた妨害が、四枚の紙切れで無力化された。暴力ではなく。脅迫でもなく。根拠と前例と、四カ国の合意によって。


「殿下。前例を見つけたのは私ですが、この結果を作ったのは殿下の書簡です。外交の力です」


「書簡に添付した設計図が各国の判断を後押ししています。結果を作ったのは、あなたの仕事です」


「……お互い様、ということにしましょうか」


「ええ。お互い様です」


 この人と仕事をしていると、功績の押し付け合いではなく、功績の分かち合いになる。それが妙に心地良かった。王都では一度も経験したことのない感覚だった。



 その夜、レミエールの港の酒場で小さな祝宴が開かれた。


 グスタフが「サミットの会場が正式に決まったんだから祝わなきゃ」と言い出し、バルトが樽を一つ提供し、ノーラが海猫亭から料理を運んだ。トーマスは弟子たちと一緒に来て、ピートは花束を持ってきた。


 港の酒場は狭く、人でいっぱいだった。誰もが笑っていて、誰もが杯を掲げていた。カタリナさんのおかげだ、と口々に言われるたびに、私は「皆さんのおかげです」と返した。嘘ではない。設計図を描いたのは私だが、それを現実の会場にしているのは、この町の人たちだ。


 ルシアン殿下は酒場の隅で、控えめに杯を傾けていた。帝国の外交特使が港町の酒場で地酒を飲む光景は、どう考えても場違いだった。けれど彼は居心地悪そうにはしていなかった。バルトに肩を叩かれても、グスタフに地酒の講釈を聞かされても、穏やかに頷いている。


 祝宴が落ち着いた頃、私は殿下の隣に座った。


「殿下」


「はい」


「ありがとう——ではなく」


 言い直した。ありがとうは何度も言った。けれど、今言いたいのは、それとは少し違う言葉だった。


「一緒に仕事ができて、良かったです」


 殿下のペンが——持っていないのに、指が微かにペンを持つ形になった。動揺した時の癖だと、今初めて知った。


「……私もです」


 短い返答だった。声は普段通りの低さで、抑揚も変わらない。けれど、その三文字を言うまでに、僅かな間があった。


 酒場の喧騒の中で、その間だけが妙に静かに聞こえた。


 窓の外では、港の灯台が変わらず光を回していた。帝国の報告書が届き、四カ国の賛同が揃い、サミットの会場は揺るがないものになった。


 けれど、終わったわけではない。


 ヴァイス侯爵の正攻法は封じられた。外務省を使った公式ルートは、国際的な合意の前に無力化された。追い詰められた人間が次に何をするか——七年間の宮廷勤務で、私はよく知っていた。


 正攻法が通じなくなった時、人は別の手を使う。


 サミットまで、あと一ヶ月を切っている。

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