第6話 名前のない報告書はいらない
帝国商船は、朝靄の残る港に静かに入ってきた。
船名は『青鷲号』。ガルディア帝国の商務省旗を掲げた中型の輸送船で、喫水の深さから見て、積荷は相当なものだった。ルシアン殿下の書簡から五日。帝国の対応は、予想より一日早かった。
「カタリナさん、荷下ろしの段取りはどうする?」
グスタフが波止場で声を上げた。早朝から港の労働者たちが集まっている。レミエールに帝国の商船が直接入るのは珍しいことで、好奇の目と期待が入り混じっていた。
「建材は第三倉庫へ直送してください。食材は仮設の冷蔵庫——港湾事務所の地下室を借りています。布地と装飾品は旧交易館の二階搬入口から。搬入口は北側です」
私は波止場に立ち、荷札と積荷目録を照合しながら指示を出した。頭の中で、港の空間が組み上がる。船から波止場まで十二歩。波止場から第三倉庫までは荷車で三分。旧交易館の北側搬入口までは五分。同時に三方向へ荷を流せば、全量の荷下ろしは二時間で終わる。
「荷車は三台を循環させます。一台が倉庫で降ろしている間に、次の一台が船から積んで、三台目が戻ってくる。止まる荷車がないように回してください」
「三台循環か。頭いいな、それ」
グスタフが感心したように唸り、労働者たちに指示を飛ばし始めた。
ルシアン殿下は船側にいた。帝国の税関書類と通行許可証の確認を、船長と直接やり取りしている。外交特使が税関実務まで自分でやるのかと一瞬驚いたが、考えてみれば彼は最初から現場に立つ人だった。契約交渉も、会場の下見も、書簡も。机の上だけで仕事をする外交官ではない。
荷下ろしは一時間四十分で完了した。予定より二十分早い。
「カタリナさんのおかげだよ。いつもの倍の量が半分の時間で片付いた」
港の労働者のひとり——赤髭のバルトが、汗を拭きながら笑った。
「段取りが良ければ、力仕事も楽になるだろ。うちの親方にも教えてやってくれ」
「私は段取りしか取り柄がないので、力仕事はバルトさんたちのおかげです」
「謙遜するねえ」
バルトは豪快に笑い、仲間たちと倉庫の方へ歩いていった。私は積荷目録の最終確認をしながら、少しだけ口元が緩むのを自覚した。自分の仕事が、目の前の人たちの役に立っている。それが見える場所にいる。王都の宮廷では、それすら許されなかった。
午後、事務所に戻ってから、私はルシアン殿下に封書を差し出した。
「殿下、ご報告があります」
五日前の夜に届いた脅迫状だった。便箋と封筒を薄手の手袋で取り出し、机の上に並べる。
「これが五日前の夜、事務所の机の上に置かれていました。施錠はしていましたが、窓の鍵が古く、外から開けられた可能性があります」
ルシアン殿下は便箋を読み、封蝋を確かめ、紙を光に透かした。その一連の動作に淀みがなかった。慣れている。外交官は、文書の真贋を見分ける訓練を積んでいるのだろう。
「封蝋の紋章は、エスタリア王家のものに似せていますが、鷲の右足と左足が逆です。公式の紋章型ではありません」
「……気づいていたのですか」
「七年間、宮廷行事の招待状や公式文書を扱っていましたから。王家の紋章型は業者が厳重に管理しています。これは私的に模造したものです」
「紙は」
「王都の文具店『羽根ペン亭』の高級綿紙です。透かしが入っています。一般には流通していません。購入記録を辿れば、差出人の候補は絞れるはずです」
ルシアン殿下は便箋を机に戻した。指先に力がこもっていた。表情は変わらない。けれど、声が低くなっていた。
「五日前に届いたものを、なぜ今まで」
「物資の搬入を優先しました。脅迫状で作業を止めれば、相手の思う壺です」
「——それはそうだが」
殿下は一度口を閉じ、窓の外に目を向けた。港の喧騒が遠くに聞こえる。
「今後、この種のものが届いた場合は、翌朝までに共有してください。証拠の保全だけではなく、安全の問題です」
その声は、契約交渉の時とも、会場視察の時とも違う調子だった。硬いのに、冷たくはない。怒りが私に向いていないことは分かった。けれど、誰に向いているのかを確かめるのは、少し怖い気がした。
「分かりました。以後はそうします」
「この便箋と封筒は、帝国外交文書として記録に残します。サミット準備に対する妨害行為の証拠として、公的に保全する意味があります」
「外交文書に?」
「帝国が主催するサミットの運営責任者に対する脅迫は、帝国への外交的侮辱と解釈できます。記録に残すことで、法的な意味を持たせられる」
私は少し目を見開いた。脅迫状を個人の問題ではなく、国際的な枠組みの中に位置づける。その発想は、私にはなかった。
「……殿下、それは、私を守るためですか。それともサミットを守るためですか」
「両方です」
即答だった。迷いのない声だった。
私は「ありがとうございます」とだけ返し、便箋を帝国の封筒に移す作業に取りかかった。手が少しだけ温かかった。
その日の夕刻、予期しない来客があった。
事務所の扉を叩いたのは、若い男だった。二十代の半ば、薄茶の髪を丁寧に撫でつけ、仕立ての良い旅装に身を包んでいる。胸元の小さな徽章にはエスタリア王国の宮廷行事局の紋章が刻まれていた。
「初めまして。宮廷行事局書記官のエミール・ヴェーバーと申します。このたび、レミエール港町の視察を命じられまして」
柔和な笑顔だった。人当たりが良く、声も穏やかで、悪意の欠片も見えない。七年間、宮廷で様々な顔を見てきた私にとって、それはむしろ警戒すべき完璧さだった。
「ようこそ、レミエールへ。どのようなご視察でしょうか」
「多国間サミットの会場がこちらに決まったと伺いまして、宮廷行事局としても連携の可能性を探りたいと。あくまで非公式の、下見のようなものです」
非公式の下見。宮廷行事局が、断罪で追放した元裏方の動向を「非公式に」確認しに来た。ヴァイス侯爵の名前は出さないが、彼の指示であることは疑いようがなかった。
けれど、私は笑顔を崩さなかった。
「それはありがとうございます。会場の一部をご案内しましょうか。旧交易館の大広間は、既に基本の動線設計が終わっています」
案内したのは、大広間の主会場部分だけだった。VIP動線、地下文書庫、控室の配置は見せていない。見せても問題のない範囲と、見せてはならない範囲は、最初から頭の中で線を引いてある。
エミールは丁寧に頷きながら大広間を歩き、時折手帳に何かを書きつけていた。
「素晴らしい会場ですね。この広さと天井高があれば、百名規模の式典にも対応できそうだ」
「ええ。南面の窓からの採光も申し分ありません」
「ところで——」
エミールは何気ない調子で付け加えた。
「王都では最近、リゼット・フォンターナ様が新しい園遊会の企画を見事に成功させたと評判です。聖女様の手腕は流石だと、宮廷でも話題になっていまして」
横で聞いていたノーラの眉が、僅かに動いた。ノーラは秋祭りの時からずっと、王都の噂を私以上に気にしている。
「そうですか。成功されたのなら、それは良いことですね」
私はそれだけを返した。
エミールの目が、一瞬だけ揺れた。怒りか、悔しさか、動揺か——何かしらの反応を期待していたのだろう。返ってきたのが穏やかな肯定だけだったことに、彼は少し面食らったように見えた。
「……ええ、まあ、そうですね。では、本日はこのあたりで。お忙しいところ、ありがとうございました」
エミールが事務所を去った後、ノーラが腕を組んだ。
「カタリナ、あんた本当に平気なの。リゼットが成功したって聞いて」
「成功したなら良いことでしょう。園遊会が滞りなく行われることは、出席する人たちのためになる」
「そういうことじゃなくて」
「分かってる」
私は窓の外に目を向けた。夕陽が港の水面を赤く染めている。
「分かってるけど、今は目の前の仕事を片付ける方が先。感情は、全部終わってからでいい」
ノーラは何か言いかけて、けれど口を閉じた。代わりに私の肩をぽんと叩いて、厨房に戻っていった。
夜。事務所の灯りの下で、私は影帳簿を開いた。
三年前の園遊会の記録。会場の平面図、給仕動線、装花の配置、予算表、発注先リスト。すべて私の筆跡で、すべて私が設計したもの。
リゼットが「成功させた」という園遊会。その企画の原型がここにある。私のマニュアルを受け取らなかったはずの宮廷が、本当にゼロから新しい企画を成功させたのか。それとも——。
考えても今は確かめようがない。けれど、帳簿は閉じなかった。該当のページに薄い栞を挟み、革鞄にしまった。
証拠は捨てない。判断は、材料が揃ってからでいい。
翌朝、ルシアン殿下がいつもより早く事務所に来た。
手に持っているのは、数枚の羊皮紙を綴じた冊子だった。帝国の公式書式——深緑の表紙に金の帝国紋章が押されている。
「グランヴェール嬢。昨日の件とは別に、確認していただきたいものがあります」
殿下は冊子を机の上に置いた。
「帝国本国に送る正式報告書の草稿です。サミット準備の進捗と、会場選定の経緯を記載しています。提出前に、事実関係の誤りがないか確認をお願いしたい」
私は表紙を開き、頁を捲った。
帝国語と共通語の併記。会場の概要、進捗状況、物資調達の経路、現地協力体制。外交文書らしく簡潔で正確な記述が続く。
三頁目で、手が止まった。
『サミット運営責任者:カタリナ・グランヴェール
前職:エスタリア王国宮廷行事局裏方統括(非公式)
現職:レミエール港町にて企画運営事務所を主宰
本サミットにおける運営設計および現場統括の全権を委託。帝国外交特使との協議の上、会場選定・動線設計・物資調達計画を策定。その手腕は国際水準の実務能力として評価に値する』
文字が滲んだ。
いや、滲んではいない。私の目が潤んでいるだけだった。
七年間。誰にも名前を呼ばれなかった七年間。行事が成功しても、名前が記録に残ることはなかった。報告書には「行事局」とだけ書かれ、私という個人は最初からいなかったことにされていた。
それが——外交文書に、私の名前がある。
「殿下」
「はい」
「……これは、契約の第十一条に基づくものですか」
「ええ。ただし、書いたのは義務だからではありません」
ルシアン殿下は窓際に立ったまま、こちらを見ていなかった。港を眺めている横顔に、いつもの冷静さがある。けれど、声だけが少し柔らかかった。
「あなたの名前が載らない報告書は、報告書として不完全です。事実を記録する文書から事実を省くことは、外交官としてできない」
ああ、この人はそういう言い方をする。
優しいことを、正論として言う。感情ではなく道理として差し出す。だから受け取る側は反論できないし、照れることも許されない。ずるいと思った。とても、ずるいと思った。
私は報告書を机に戻し、目元を指先で押さえた。泣いてはいない。泣いてはいないが、まばたきの回数が増えているのは自覚していた。
背後で、小さな音がした。
振り返ると、ルシアン殿下が窓際の棚から茶缶を取り出していた。携帯用の湯沸かし器に火の魔石をかざし、湯を沸かしている。
「……殿下、私がやります」
「座っていてください。確認作業の途中でしょう」
カモミールの香りが広がった。蜂蜜を匙にひとすくい。分量はこの前と同じだった。
白い湯気の向こうで、殿下は黙って茶を注いでいた。何も訊かない。何も慰めない。ただ、紅茶を淹れている。
私は報告書の残りの頁に目を落とした。文字はもう滲んでいなかった。
カモミールは、少しだけ甘かった。
報告書の確認を終え、事実関係の修正を二箇所だけ提案した。物資の到着日の表記と、旧交易館の正式名称。殿下は即座に修正し、封をした。
「明日の朝、帝国の外交便でハーフェン港経由で本国に送ります。届くまで十日ほどです」
「届いたら、私の名前が帝国の公式記録に残るのですね」
「残ります。帝国外務省の書庫に、少なくとも五十年は保管される」
五十年。私が生きている間ずっと、そしてその先も。
「……大袈裟な話になりましたね。港町の小さな事務所の名前が、帝国の書庫に」
「大袈裟ではありません。事実の記録です」
殿下は封をした報告書を鞄にしまいながら、ほんの少しだけ口の端を持ち上げた。笑顔というには控えめすぎる。けれど、私はその表情を見たことがなかった。
「グランヴェール嬢。明日以降、エスタリア側からの反応が早まる可能性があります」
「エミールの報告が届く頃ですね」
「ええ。彼が何を持ち帰るかで、次の動きが変わる。備えておいてください」
「はい」
備える。それは私の得意分野だった。段取りを組み、想定を並べ、最悪と最善の両方に対応できる手順を作る。
ただ、今日だけは——少しだけ、備えではなく、余韻に浸ることを自分に許した。
帝国の正式な報告書に、私の名前がある。
それだけで、七年分の何かが、ほんの少し報われた気がした。




