第5話 旧交易館と届かない荷
旧交易館は、港の東端に建つ石造りの三階建てだった。
潮風に晒された外壁は白く粉を吹き、正面の大扉は蔦に半ば覆われている。かつてはアルセイア大陸五カ国の商人が集い、条約の草案がこの場で交わされたと聞く。今は倉庫と集会所を兼ねた、忘れられかけた建物だ。
私はルシアン殿下と並んで、その大扉をくぐった。
「……広い」
足を踏み入れた瞬間、空間が頭の中に展開された。
縦およそ四十歩、横三十歩。天井高は二階分を吹き抜けにすれば約八メートル。南面に窓が六つ、北面に搬入口が二つ。東の回廊は二階へ続く階段に接続し、西側には控室として使える小部屋が三つ並んでいる。
この感覚は、いつも唐突にやってくる。目で見るより先に、空間の骨格が数字と配置図になって頭に落ちてくる。便利なようでいて、慣れるまでは目眩がした。今はもう、深呼吸ひとつで整理できる。
「主会場をこの大広間に置いて、各国代表席は南窓側に配置します。自然光が均等に入るので、照明魔道具の消費を抑えられます」
私は歩きながら、指で空間を区切った。
「受付と身元確認は正面大扉の外、テント設営で対応。大扉を入ってすぐの空間は緩衝帯として空けます。ここに人が溜まると奥への動線が詰まるので」
「緩衝帯」
ルシアン殿下が私の言葉を繰り返した。彼は手帳を開いていたが、書く手が止まっている。
「はい。人は入口で立ち止まる習性があります。知人を見つけて挨拶を始めたり、会場の雰囲気に圧倒されて足が止まったり。だから入口から主会場までの間に、五歩分の空白を設けるんです。立ち止まっても後続が詰まらない距離です」
「……なるほど」
殿下は手帳に何かを書きつけた。その横顔は、秋祭りの裏方テントで初めて会った時と同じ──観察するような、けれど否定のない目をしていた。
「VIP動線は東の回廊を使います。二階への階段を経由すれば、大広間を通らずに控室へ直行できます。護衛の配置も回廊の幅なら二列で十分です」
「西側の小部屋は?」
「各国随行員の待機室と、緊急時の退避室を兼ねます。三部屋ありますから、ガルディア・サヴォワ・その他で分けるか、用途別に分けるか。これは各国の関係を見て最終決定しましょう」
私がそこまで話した時、ルシアン殿下はようやく手帳を閉じた。
「グランヴェール嬢」
「はい」
「今の説明に、図面は使いましたか」
「いいえ。……ああ、すみません、口頭だけでは分かりにくかったですか。後で平面図を」
「そうではなく」
殿下は回廊の暗がりに目を向けた。窓の少ない東側は昼間でも薄暗い。彼は腰の魔灯を外し、低く掲げた。柔らかな橙色の光が石畳に広がり、私の足元まで照らす。
「図面なしで、歩いただけで、ここまでの配置が出てくる。……三年前の晩餐会も、こうやって設計したのですか」
足元の光が温かかった。それが魔灯の熱なのか別の何かなのか、考えないことにした。
「はい。あの時は大広間の柱の位置が厄介で、給仕の動線が何度やっても交差してしまって。結局、柱を目隠しの装花台に転用して、動線を一方通行に変えました」
「あの装花台は動線のためだったのか」
「……気づく方がいるとは思いませんでした」
「美しかったので、印象に残っていた。理由を知って、なお良い」
私は慌てて回廊の先へ歩き出した。褒められ慣れていない、というのは正確ではない。七年間、褒められたことがほとんどなかったのだ。行事が成功すれば行事局の功績、失敗すれば裏方の不手際。その評価軸に慣れきっていた自分が、今さら「良い」のひと言で動揺するのが少し情けなかった。
「地下も見ますか。旧い文書庫があると聞いています」
「ぜひ」
地下への階段は狭く、石段が湿気を含んで滑りやすかった。ルシアン殿下は魔灯を前方に向けたまま、半歩先を降りた。護衛のつもりか、それとも単に足場を確認しているだけか。どちらでもいいことだった。──どちらでもいいと思うことにした。
地下の文書庫は、想像より広かった。棚が壁面を埋め、古い羊皮紙の束が整然と並んでいる。埃の匂いの奥に、微かにインクの残り香がした。
「百年以上前の通商条約の原本もあるそうです。サミットの資料室として使えるかもしれません」
「使えます」
殿下の即答に、私は少し驚いた。
「外交の場では、過去の条約原本がその場にあるかどうかで議論の質が変わる。引用を口頭で争うより、原本を見せる方が早い。この文書庫は資産です」
なるほど、と私は頷いた。裏方の視点と外交官の視点は違う。けれど「現場にあるものを最大限使う」という発想は同じだった。
旧交易館を出ると、午後の陽が傾き始めていた。
港の通りを事務所へ戻る途中、グスタフの店の前を通りかかった。海産物の卸売を営む恰幅の良い商人で、秋祭りでは鮮魚の搬入を一手に引き受けてくれた人物だ。
「おう、カタリナさん。ちょうど良かった」
グスタフは店先の木箱を積み直しながら、渋い顔をしていた。
「実はな、ここ数日、王都経由の物資が妙に遅れてる。検品強化とかで港湾管理局が荷を止めてるらしいんだが、うちだけじゃない。レミエール向けの荷全体が引っかかってる」
「検品強化……この時期に?」
「おかしいだろう。秋の繁忙期に検品を厳しくする理由がない。しかも止められてるのは食材と建材が中心だ。嫌がらせにしちゃ的が絞られてる」
食材と建材。サミットの準備に必要な物資と重なる。
偶然とは思えなかった。私は無意識に、腰の鞄──影帳簿の入った革鞄に手を触れた。港湾管理局はエスタリア王国の管轄。宮廷行事局と管轄は異なるが、ヴァイス侯爵の影響力は行事局だけに留まらないことを、私は七年間の経験で知っている。
「グスタフさん、ありがとうございます。少し確認させてください」
事務所に戻ると、ルシアン殿下はすでに窓際の長卓で書類を広げていた。契約以来、彼はレミエールの宿に滞在し、日中は私の事務所を執務室代わりに使っている。小さな事務所に帝国外交特使が座っている光景は、最初こそ落ち着かなかったが、十日もすれば慣れた。慣れたというか、彼が居ても仕事の邪魔にならないことが分かった、という方が正確だ。
「殿下、少しお時間をいただけますか」
グスタフから聞いた話を伝えると、ルシアン殿下はペンを置き、数秒だけ目を閉じた。考えている時の癖だと、もう知っていた。
「エスタリアの港湾管理局に直接抗議すれば、政治問題になる。サミットの準備段階で両国の関係に亀裂を入れるのは避けたい」
「はい。ですから、別の方法を考えました」
私は地図を広げた。レミエールからガルディア帝国のハーフェン港までの航路を指で辿る。
「帝国の商船ルートを使って、必要な物資を直接レミエールに入れることはできますか。検品の問題はエスタリアの国内手続きですから、帝国から直接入る荷には適用されません」
「……レミエールは自治特区だ。帝国船の入港に制限はない」
「ええ。それに、サミットはガルディア帝国が主催国のひとつです。主催国が会場設営のために自国の物資を搬入するのは、外交上まったく問題がないはずです」
ルシアン殿下は目を開けた。翠緑の瞳に、微かな笑みが混じっていた。笑みというより、感心とも呆れともつかない表情だった。
「今の提案を、怒りではなく実務で出せるのが、あなたの強さだ」
「怒りで動いても荷は届きませんので」
「帝国商務官に書簡を出します。今日中に」
殿下は新しい羊皮紙を取り出し、万年筆を走らせ始めた。迷いのない筆致だった。私は少しだけ、自分が契約相手として認められている実感を得た。──嬉しいと思ってしまった自分を、慌てて棚の整理に紛れさせた。
夕食は、海猫亭でノーラと三人だった。
ルシアン殿下は宿に戻り、ノーラが焼き魚の皿を運んできた頃には、話題は自然と噂話に移っていた。
「聞いた? 王都の園遊会、今年もぐだぐだだったらしいよ。給仕の動線がめちゃくちゃで、貴賓席に料理が届かなかったとか。去年も同じことがあったのに、全然改善されてないって」
「……そう」
私はパンをちぎりながら、できるだけ平静を装った。園遊会の運営は、かつて私が設計していた。引き継ぎ書に動線図も改善案もすべて書いた。あの百ページのマニュアルに。
受け取ってもらえなかった、あのマニュアルに。
「あの会場なら、南側の回廊を開放すれば渋滞は解消するのに。給仕動線を時計回りの一方通行にして、貴賓席への専用ルートを回廊経由で──」
言いかけて、口を閉じた。
ノーラが目を丸くしていた。それはいい。問題は、入口に立っていたルシアン殿下が、こちらを見ていたことだった。
「……宿にお戻りになったのでは」
「書簡を出した帰りに、忘れ物を取りに。……続けてください。聞きたい」
「いえ、別に、大したことは」
「南側の回廊を開放して、時計回りの一方通行にする。その先は?」
耳が熱かった。なぜこの人は、私が口を滑らせた瞬間にいるのだろう。段取りが完璧なのは仕事だけで十分なのに、登場の間まで完璧にしないでほしい。
「……貴賓席への専用ルートを回廊経由で確保し、給仕の折り返し地点を厨房の東口に設定すれば、配膳時間は半分になります。あとは中庭の装花を低くすれば見通しが良くなって、迷子も減ります」
「それは引き継ぎ書に書いてあった内容ですか」
「はい」
ルシアン殿下は何も言わなかった。ただ、小さく頷いて、忘れ物──魔灯の予備石だった──を棚から取り、「失礼しました」と出て行った。
ノーラが焼き魚を私の皿に追加しながら言った。
「あの人、あんたの話してる時だけ目の色変わるよね」
「変わりません。翠緑です。ずっと」
「そういう意味じゃないって」
焼き魚は美味しかった。話題を変える努力は、この夜に限っては実らなかった。
事務所に戻ったのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
机の上に、見覚えのない封書が置かれていた。
白い封筒。封蝋は深紅。紋章の型押しは──鷲と王冠。エスタリア王家の紋章に、酷似している。酷似、というのは、よく見ると鷲の足の向きが微妙に違うからだ。公式の王家紋章は右足を前に出す。この封蝋は左足だった。
私は鞄から薄手の手袋を取り出し、封を切った。七年間の宮廷勤務で身についた習慣だった。指紋を残さない、封蝋の破片を散らさない。
中の便箋は一枚。筆跡は丁寧だが、癖を消すように均一だった。
『サミットの運営から手を引け。身の程を知れ。
貴女の居場所は、もうどこにもない』
手が震えることはなかった。──嘘だ。少しだけ、震えた。
けれど、次の瞬間には便箋を裏返し、紙質を確認していた。高級な綿紙。王都の文具店「羽根ペン亭」の透かしが入っている。この紙を使えるのは、ある程度の身分の者に限られる。
封蝋の紋章は王家のものに似せているが、公式ではない。つまり、これは宮廷の公式な通告ではなく、誰かの私的な威嚇だ。
私は便箋と封筒を、影帳簿と同じ革鞄にしまった。証拠は捨てない。七年間で学んだことのうち、最も役に立っているのはこの習慣だった。
窓の外では、港の灯台が規則正しく光を回していた。
明日の朝、まず帝国商船の入港予定を確認しよう。それから会場の採寸図を清書して、ルシアン殿下に提出する。脅迫状のことは──報告すべきだろう。証拠として共有することに、実務上の合理性がある。
感情ではなく、手順で考える。怖いと感じる暇があるなら、次の段取りを組む。
それが、七年間で私が覚えた、たったひとつの戦い方だった。
革鞄の留め金をしっかりと閉じて、私は灯りを落とした。




