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婚約破棄されたので悪役令嬢は「裏方」に転職します  作者: 秋月 もみじ


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第4話 契約と紅茶


秋祭りの翌朝。身体中が筋肉痛だった。


祭りの撤収を深夜まで手伝い、海猫亭に戻ったのは鐘十二——真夜中を回っていた。それでも朝五時には目が覚める。前世から引き継いだ業病のようなものだ。


カモミールの紅茶を淹れ、窓辺に立つ。港はもう動き出している。漁船が沖に向かい、市場の朝が始まる。


祭りは終わった。けれど、昨夜の申し出が頭から離れない。


多国間サミットの運営。


やりたい。その気持ちは、昨夜から変わっていない。


けれど——。


鐘七つ。部屋の扉が叩かれた。


「カタリナ嬢。約束通り伺った」


ルシアン殿下の声は、朝から変わらず落ち着いている。この人に寝起きという概念はあるのだろうか。


部屋に通す。海猫亭の二階角部屋は狭い。製図台と書棚と寝台で大半が埋まっている。ルシアン殿下の長身が入ると、いよいよ窮屈だった。


護衛の二人は階下で待機しているらしい。


「座ってください。……椅子が一脚しかなくて」


「構わない。立っている方が集中できる」


外交官の習性か、立ったまま革鞄から書類の束を取り出す仕草に淀みがない。


机の上に置かれたのは、十数枚の契約書だった。


「サミット運営委託契約書。報酬額、権限範囲、スタッフ配置、実施期間、秘密保持条項を記載してある。確認してほしい」


手に取った。


前世の癖で、まず最終ページの署名欄と違約条項から読む。次に報酬。権限範囲。責任の所在。秘密保持の範囲と例外規定。


……丁寧だ。穴がない。


いや、一箇所。


「ルシアン殿下」


「ルシアンで構わないと言ったが」


「お仕事中ですので。——三点、修正をお願いしたいのですが」


ルシアン殿下が顔を上げた。緑の目が、ほんの少し見開かれた。


「第四条、運営方針の決定権について。現行案では『委託者と受託者の協議による』となっていますが、運営の最終決定権は私に帰属させてください。現場判断は裏方に委ねていただかないと、有事の対応が遅れます」


頷き一つ。


「妥当だ。修正する」


速い。交渉慣れしている。


「第十一条、公式記録への記載について。サミット運営責任者として、私の名前を公式報告書に記載することを条件に加えてください」


ペンが止まった——ように見えたのは、気のせいだっただろうか。


「当然のことだ。記載する」


「ありがとうございます」


この条件は、譲れなかった。


遠い場所の、長い仕事の中で、私は一度——いや、何度も、自分の名前を消された。企画書の表紙から。報告書の担当者欄から。七年分の公式記録から。


二度と、同じことは繰り返さない。


「三点目。第十五条、契約終了後の競業避止義務を削除してください」


「理由を聞いてもいいか」


「この仕事が終わった後も、私は自分の意志で次の仕事を選びたいからです。誰かの組織に縛られるのは——もう、十分に経験しましたので」


ルシアン殿下が、一瞬だけ私の顔を見た。何かを読み取ろうとするような、静かな目。


「……削除する。当然だ」


三点すべて、即諾。


前世を含めて、契約交渉でこんなに話の早い相手は初めてだった。


「条件は以上です。内容に問題がなければ、お引き受けします」


「ありがたい」


短い言葉だったけれど、声の温度が少しだけ変わった気がした。


契約書に署名する。羽根ペンのインクが乾くのを待つ間、ルシアン殿下が鞄からもう一つ、小さな包みを取り出した。


「……それは?」


「茶を淹れる。交渉が成立した後は、一杯飲むのが私の習慣だ」


皇子が、自分で茶を淹れる。


包みの中身は小さな茶缶と、携帯用の湯沸かし器——手のひらほどの魔道具で、底面に小さな魔法陣が刻んである。水を入れて魔法陣に触れると、静かに湯が沸く。


手慣れた動作で茶葉を量り、湯を注ぐ。その手つきは——淹れ慣れている、というだけではなかった。一つひとつの工程を丁寧に、大切にしている。


カップが差し出された。


口に含んだ瞬間、目を見開いた。


カモミールブレンド。蜂蜜の量。茶葉の蒸らし加減。


私がいつも飲んでいるものと、ほとんど同じだった。


「……これ」


「気に入らなかっただろうか」


「いえ。その逆です。私の好きな紅茶と、ほとんど同じなんです」


ルシアン殿下の表情が変わった。


見間違いではない。あの、常に冷静な緑の目が、明確に——驚いて、それから、喜んでいた。


「本当か」


声まで変わっている。いつもの低い平坦な声に、わずかだけれど弾みがあった。


「好みが合う人間は信頼できる。——これは私の持論だ」


「それは、論理的ではないのでは……」


「論理ではない。経験則だ」


真面目な顔で言い切られた。


おかしい。おかしいのだけれど、笑いそうになるのを堪えながら紅茶を飲む。カモミールの香りが、喉の奥を温かくした。


不思議と、悪い気がしなかった。


契約相手にこんな感情を抱くのは、職業的にどうかと思う。でも、この人が紅茶の好みが同じだったことにあんなに嬉しそうな顔をするなんて、誰が予想できただろう。


外交官なのに。皇子なのに。


窓からの陽が、カップの中の琥珀色を光らせた。


午後。ルシアン殿下が宿に戻った後、市場に買い出しに出た。


サミットの準備は明日から本格化する。その前に、港町の物流を改めて確認しておきたかった。


市場の通りを歩いていると、顔見知りの商人——ロレーヌ方面から来る布地商のグスタフが手招きした。


「カタリナさん、ちょっといいかい」


「グスタフさん。何か」


「王都の話なんだがね」


グスタフが声を落とした。


「聖女とかいう嬢さんが、王室行事を立て直すって息巻いてるらしい。でも、出した企画書がひどくてね。花屋の親方——ディルクって知ってるかい? 王都で一番大きい花屋の——あの人が言ってたそうだ」


ディルク。知っている。七年間、園遊会と舞踏会の花飾りを一手に担ってくれた職人だ。


「なんて」


「『以前の担当者の指示書はこんなものではなかった。あの方の書く発注書は、花の品種だけでなく、色の配置、香りの動線、替え花の指定まで細かく書いてあった。今の指示書は素人の走り書きだ』——って」


胸の奥が、じわりと熱くなった。


ディルクは私の名前を知らない。行事局の名前で発注書を出していたから、「以前の担当者」としか呼びようがない。


それでも、仕事の質を覚えていてくれた。


「……そう、ですか」


声が少し震えた。気づかれないように、咳払いで誤魔化す。


「もう一つ」


グスタフの声が、さらに低くなった。


「最近、エスタリアの宮廷筋から変な圧力がかかってるって話があってね。港町に出入りする業者に、『ある人物に協力するな』って。具体的な名前は聞いてないんだが——」


「ある人物」。


心当たりがある、と言えば嘘になる。心当たりしかない。


断罪され、追放された元公爵令嬢が、隣国の外交特使と契約して国際サミットの運営を引き受けた——その噂が、もう王都に届いているのだろうか。


「まだ噂の段階だ。実害が出てるわけじゃないが、気をつけた方がいい」


「……ありがとうございます、グスタフさん」


市場から海猫亭に戻る道すがら、考える。


妨害。宮廷からの圧力。物資の差し止め、業者への脅し——やり口は想像がつく。宮廷行事局長の権限があれば、「国際行事に必要な物資の輸出許可」を恣意的に遅らせることはできる。


七年間、あの組織の中にいた。裏方として、制度の隅々まで見てきた。


だからこそ、対策も見える。港町は交易の要衝だ。エスタリア経由がだめなら、ロレーヌの海路がある。カラヴィアの商船ルートもある。迂回路はいくらでも——


「カタリナ嬢」


海猫亭の前で、声をかけられた。


ルシアン殿下が、宿の壁にもたれて立っていた。さっき別れたばかりなのに。


「殿下。お戻りでは」


「一つ聞きたいことがあった」


緑の目が、いつもよりわずかに鋭い。


「港町の商人から妨害の噂を聞いた。エスタリアの宮廷筋から、業者への圧力がかかっている可能性がある、と」


——聞いている。市場での噂は、もう殿下の耳にも届いているのか。情報収集が速い。さすが外交官だ。


「私も今、同じ話を聞いたところです」


「そうか」


ルシアン殿下の表情が、ほんのわずかに硬くなった。唇が一瞬引き結ばれ、すぐに元に戻る。何かを判断した——ように見えた。


「明日、対応を協議しよう。今日は休んでくれ。——祭りの翌日に契約交渉をさせたのは、無理をさせた」


「大丈夫です。これくらい——」


「祭りの撤収が深夜まで続いたのは知っている。裏方が一番遅くまで残る。昨夜、自分で言ったことだ」


返す言葉がなかった。


自分の台詞を覚えていて、こちらの体調を気にかけている。そのことが——少しだけ、くすぐったかった。


「……わかりました。休みます」


「ありがたい」


殿下は頷いて、宿の方に歩いていった。


部屋に戻り、寝台に腰を下ろす。


机の上には、署名済みの契約書が置いてある。「サミット運営責任者:カタリナ・グランヴェール」。私の名前。


隣に、飲みかけのカモミールティーのカップが残っていた。ルシアン殿下が淹れてくれた紅茶。冷めかけているけれど、まだ甘い香りがする。


妨害の噂。宮廷の影。


厄介なことになるかもしれない。


でも——不思議と、怖くはなかった。


契約書がある。名前が記載される約束がある。自分の仕事を正当に評価してくれる相手がいる。


冷めた紅茶を、最後のひと口まで飲み干した。


カモミールの余韻が舌の上に残った。あの人が淹れた紅茶は、自分で淹れるのと同じ味がするのに、ほんの少しだけ——温かい気がした。


たぶん、気のせいだ。


たぶん。

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