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婚約破棄されたので悪役令嬢は「裏方」に転職します  作者: 秋月 もみじ


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第3話 秋祭りと外交官


祭りの朝は、鐘の音ではなく潮の匂いで始まった。


海猫亭の窓を開けると、港町の空気がいつもと違う。焼き菓子の甘さ、花の香り、それから——人の気配。通りにはもう、出店の準備をする人々が行き交っている。


企画書通りだ。出店者の搬入は日の出から。一般客の入場は鐘三つから。


「よし」


ワークエプロンを締めて、裏方テントに向かった。


テントは広場の裏手、建物と建物の隙間に張った小さな布幕の空間だ。折りたたみの机に進行表を広げ、修正ペンとメモ帳を並べる。ここが今日の私の持ち場。


「姐さ——カタリナさん! 花飾り、全部設置しました!」


ピートが息を切らせて駆け込んできた。手にはラヴァンディの紫い花弁がくっついている。


「ありがとう。東通りの角は?」


「ソレイユとラヴァンディ、交互に。カタリナさんの図面通りです」


「完璧。次は南広場の看板をお願い」


ピートが敬礼のような仕草をして走っていく。


鐘が三つ鳴った。


人が流れ始めた。


進行表に目を落としながら、耳を澄ます。群衆のざわめき。足音の密度。笑い声の方角。


——東通りの混雑率、想定内。南広場はまだ余裕がある。ヨハンの楽団が演奏を始めれば、人の流れが南に向かうはず。


「ヨハンさん、予定通り鐘四つで演奏開始お願いします」


テントの外に声を飛ばすと、白髪の老楽師が弦楽器を掲げて応えた。


「任せな、嬢ちゃん」


鐘四つ。ヨハンのリュートが鳴った瞬間、南広場に向かう人の流れが生まれた。音が道標になる——企画書十四ページの音響設計が、ちゃんと機能している。


「三番通りの出店、行列が伸びてます!」


ノーラが報告に来た。


「想定してました。ピート、三番通りの角にあるソレイユの鉢——あれを五メートル西にずらして」


「花を動かすんですか?」


「花があると人は立ち止まる。立ち止まる位置をずらせば、行列の形が変わります」


ピートが半信半疑で花を移動させた。


三分後、三番通りの混雑が解消された。


「……嘘でしょ」


ピートが口を開けている。ノーラも目を丸くしていた。


嘘じゃない。人の流れは、ほんの小さな配置の変化で制御できる。花一鉢で。看板一枚で。音ひとつで。


これが、裏方の仕事だ。


昼を過ぎた頃。


テントで進行表に書き込みをしていると、布幕の外から声がかけられた。


「失礼する。この祭りの運営責任者に会いたいのだが」


低いバリトンの声だった。落ち着いた響きだけれど、どこか硬い。聞き慣れないアクセントがある。


顔を上げた。


テントの入口に、長身の男が立っていた。


黒髪。深い緑の目。飾り気のない外套の下に、銀の刺繍が覗いている。帝国式の外交官服——ガルディアの紋章だ。


脇に控える二人は護衛だろう。一人は寡黙そうな長身の男、もう一人はやや若く、好奇心の強そうな目をしている。


町長から聞いていた。今日の外交視察は、ガルディア帝国の特使。名前は——。


「ルシアン・ヴェルディエ殿下、でいらっしゃいますか」


「肩書きは不要だ。ルシアンで構わない」


短い返答。無駄がない。


来客対応用の笑顔を作ろうとして、失敗した。顔の筋肉がうまく動かない。初対面の相手には、いつもこうだ。


「……ご視察ありがとうございます。運営を担当しております、カタリナです」


名乗りながら、心の中で自分を叱る。ぎこちない。もっと柔らかく話せないのか。


しかしルシアン殿下は、私のぎこちなさには構わず、テントの中の進行表と図面にちらりと目を向けた。そして、単刀直入に聞いた。


「この祭りの動線設計は、あなたが?」


「……はい」


「会場に入った瞬間に気づいた。群衆の動線が不自然なほど滑らかだ。出店の配置、音響の設計、看板と花飾りによる視線誘導——すべてが連動している。偶然では、こうならない」


息を呑んだ。


一目でそこまで読み取ったのか。


いや、違う。この人は「読み取れる目」を持っている。各国の行事を見てきた外交官だからこそ、運営の質の差がわかるのだ。


ルシアン殿下の緑の目が、まっすぐ私を見ていた。


「もう一つ聞きたい」


「……なんでしょう」


「三年前、エスタリア王都で国際晩餐会が開かれた。私はあの場に出席していた」


心臓が跳ねた。


三年前。あの晩餐会。宮廷行事局を通さず、私が一人で設計から運営まで担当した夜。裏方テントから一歩も出ず、進行表と睨み合いながら夜通し走り回った——あの仕事。


「あの晩餐会の動線設計と、今日の祭りの設計は同じ手法だ。群衆の密度制御、音響配置、VIP誘導の自然さ。同一人物の仕事だと確信している」


呼吸が止まった。


この人は、三年前のあの一夜の運営を——覚えている。


「あなたが、あの晩餐会の運営者ですか」


静かな声だった。詰問ではない。確認だ。すでに答えを持っている人間の、最後の裏付け。


「……なぜ」


声がかすれた。


「なぜ、そんなことを覚えていらっしゃるんですか」


ルシアン殿下が、ほんの一瞬、目を細めた。


「あの晩餐会は、外交官として十年のなかで最も快適な場だった。各国の使節が自然に交流できる配置。騒音と静寂の切り替え。会場の空気そのものが、交渉に集中させるように設計されていた」


一拍、間が空いた。


「裏方が完璧だったからこそ、私は交渉に全力を注げた。あの環境を作った人間に——ずっと会いたかった」


目の奥が、熱くなった。


七年間。


誰にも気づかれなかった。引き継ぎ書を差し出しても受け取ってもらえなかった。名前すら記録に残っていない。


それなのに、この人は——たった一度の晩餐会で、裏方の仕事を見抜いて、三年間覚えていた。


「……っ」


涙を堪えた。仕事中だ。裏方テントで泣いてどうする。


目元を手の甲で押さえて、息を整えた。


「……恐れ入ります。すみません、三番通りの混雑が——失礼します」


仕事に逃げた。情けないとは思う。でも、今この人の前に立っていたら、本当に泣いてしまう。


テントを出る寸前、振り返らずに聞いた。


「殿下。あの……ありがとう、ございます」


「助かります」じゃなく、「ありがとうございます」。ノーラに教わった通りに、素直に。


後ろでかすかな衣擦れの音がした。何かの動き——笑ったのか、頷いたのか。振り返る勇気はなかった。


夕暮れの広場は、祭りの終わりの温かさに包まれていた。


「カタリナさん、最高だったよ!」


「来年もお願いね!」


「うちの店、今日の売上が去年の倍だ!」


町の人々が口々に声をかけてくれる。ピートが「姐さん——カタリナさんのおかげっす!」と興奮し、ヨハンが「いい祭りだった。嬢ちゃん、やるな」と楽器を鳴らした。


ノーラが私を抱きしめた。太い腕の力が、温かい。


「あんた、うちの町の宝だよ」


……宝。


顔が熱い。耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。


「そんな大げさな……」


「大げさじゃないよ。あんたの企画書がなかったら、いつも通りの地味な祭りだった。今年は違った。みんな笑ってた」


みんな笑ってた。


その一言が、胸の真ん中に沁みた。


片づけをしていると、船着き場から来た商人がノーラに話しかけているのが聞こえた。


「王都じゃまたやらかしたらしいぜ。外国の大使を招いた茶会で、席順を間違えたとかで大騒ぎだって」


「あらまあ。最近の王都は散々だねえ」


三番通りの花飾りを外す手が、一瞬止まった。


席順。茶会の席順は国際礼法の基本中の基本だ。引き継ぎ書の五十三ページからの席次テンプレートがあれば、間違えようがない。


——受け取ってくれていれば。


首を振った。ラヴァンディの花束を抱えて、片づけに戻る。


もう、私の仕事じゃない。


夜。


裏方テントの撤収を終え、最後の道具を海猫亭に運び込もうとした時。


「カタリナ嬢」


暗がりの中、聞き覚えのある低い声がした。


ルシアン殿下が、テントのあった場所の近くに立っていた。護衛の二人は少し離れた場所で控えている。


「まだいらっしゃったんですか」


「最後まで見届けたかった。——祭りの終わりは、裏方が一番遅くまで残る。そうだろう」


そうだ。表舞台が華やかに終わった後、最後に灯りを消すのは裏方の仕事。それを知っている人は少ない。


「用件を伝えたい」


ルシアン殿下の声には、昼間と同じ落ち着きがあった。けれど、どこか——慎重さが混じっている。次の言葉を選んでいるような間。


「正式に依頼したい仕事がある」


「仕事、ですか」


「三ヶ月後、港町レミエールで多国間サミットが開かれる。五カ国の代表が参加する安全保障会議だ。——その運営を、あなたに任せたい」


秋の夜風が、頬を撫でた。


多国間サミット。五カ国。安全保障会議。


港町の秋祭りとは、規模が桁違いだ。


「……私に、ですか」


「今日の祭りを見て確信した。この規模の設計を、この精度でできる人間は大陸に何人もいない」


心臓が音を立てていた。大きな仕事だ。国際的な舞台だ。前世の記憶が叫んでいる——やりたい、と。


けれど同時に、別の声も聞こえる。


また権力者の仕事を引き受けるのか。また裏方で使われて、名前も残らず、用が済んだら捨てられるのか。


左手首のブレスレットを、右手の指先が触れていた。


「……考えさせてください」


「もちろんだ。明日、改めて詳細を持って伺う」


ルシアン殿下が軽く頭を下げて、踵を返した。


護衛の二人と合流し、宿の方へ歩いていく背中を見送る。


黒髪の背中が夜闇に溶えていく。


右手はまだ、ブレスレットを握っていた。


海猫亭の部屋に戻り、窓を開けた。潮の匂いと、祭りの残り香。


机の上に、今日の進行表が広げてある。書き込みだらけの紙面を見下ろして、深く息を吐いた。


多国間サミット。


「……段取り八分」


呟いた言葉は、誰にも届かない。


けれど、心臓はまだ鳴っていた。仕事への高揚か、それとも——あの緑の目に見据えられた時の動揺の残りか。


わからない。わからないけれど。


明日が来るのが、少しだけ楽しみだった。

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