第2話 港町の看板娘
港町レミエールに来て、十日が経った。
朝五時。窓から差し込む光で目を覚ます。宿「海猫亭」の二階角部屋は、狭い代わりに窓が東向きで、港の朝日がまっすぐ入ってくる。
前世の社畜時代にはありえなかった贅沢だ。目覚ましの音で飛び起きるのではなく、光で自然に起きる朝。
カモミールの紅茶を淹れながら、今日の予定を頭の中で組み立てる。
午前は市場の荷運び。午後は酒場「鯨の尾」の帳簿整理。夕方にチーズ屋のチラシの仕上げ。
派手な仕事は一つもない。でも十日間、小さな仕事を一つずつ丁寧にこなしてきた。
「あんた、また来てくれたのかい。助かるよ」
市場の荷主——恰幅のいい中年男が、木箱を運ぶ私に声をかけた。
「今日は裏の倉庫も頼めるかね。最近ごちゃごちゃで、どこに何があるかわからなくなっちまった」
倉庫の扉を開けた瞬間、全体の構造が頭の中に展開された。
この感覚には、もう慣れた。建物に入ると、壁の位置、天井の高さ、棚の奥行き、通路の幅——空間のすべてが、ひとつの図面のように見える。前世では「勘がいい」で片づけていたけれど、この世界に来てからは、もっとはっきりと「見える」ようになった。
「棚の配置を変えてもいいですか?」
「好きにしてくれ。どうせ俺にゃわからん」
一時間後、倉庫は見違えていた。
重い木箱は入口近くの低い棚に。頻繁に出し入れする乾物は通路に面した中段に。季節もので当面動かないものは奥の高い棚に。通路幅を統一して、台車が直角に曲がれるように余白を取った。
「……なんだこりゃ。魔法か?」
荷主が目を丸くしている。
「魔法じゃないですよ。物の出入り頻度に合わせて並べ直しただけです」
「たったそれだけで、こんなに違うもんかね」
それだけで違う。段取りの力を、この世界の人はあまり知らない。
昼過ぎ、市場の広場に面したベンチで、干し魚のサンドイッチを齧っていた。
「カタリナさーん!」
陽気な声と一緒に、花束を抱えた青年が駆けてきた。
ピート。二十三歳。市場の一角で花屋を営んでいる。日に焼けた腕と、いつも土がついたエプロン。カタリナのことを三日目から「姐さん」と呼んでいたが、「せめてさん付けにして」と頼んだら「カタリナさん」になった。
「今日入った花、見てもらっていいですか? 秋祭りの飾りに使えるか知りたくて」
紫の小花と、黄色い丸い花を見せてくれる。
「この紫はラヴァンディ。香りが強くて虫除けにもなるんです。こっちの黄色いのはソレイユ——太陽って意味で、秋の終わりまで咲きます」
花の名前と性質を、ピートは楽しそうに教えてくれる。
「ラヴァンディとソレイユを交互に配置すると、紫と黄色の対比で視認性が上がります。通りの入口に置けば、そのまま道標になりますよ」
「へぇー! そういう使い方があるのか!」
ピートが感心して目を輝かせる。前世では当たり前の手法だけれど、この世界のイベント装飾は「きれいに並べる」止まりのことが多い。花に「機能」を持たせる発想が新鮮に映るらしい。
「カタリナさん、やっぱりすごいなあ。どこで覚えたんです?」
「……遠い場所の、長い仕事で」
それ以上は聞かれなかった。港町の人たちは、詮索しない。仕事ぶりを見て、それで十分だと思ってくれる。公爵邸では一度も感じたことのない、この距離感が心地いい。
夕方、「鯨の尾」の帳簿を仕上げた帰りに、ノーラの家に寄った。
ノーラ。五十代。漁師だった亡き夫の代わりに、町の祭り実行委員長を十五年務めている女性。日焼けした腕は丸太のように太く、笑う声は港の端まで聞こえる。
「ちょうどよかった。お茶にしな」
有無を言わさず椅子に座らされ、焼きたてのスコーンと一緒にカモミールの紅茶が出てきた。
ここの紅茶は、宮廷のどの茶会よりおいしい。たぶん、出してくれる人の手が温かいからだ。
「そういえばさ」
ノーラが紅茶のカップを両手で包みながら、世間話のように切り出した。
「王都の園遊会、ひどかったらしいねえ」
手が止まった。
「今朝来た商船の連中が言ってたよ。花が届かない、楽団は来ない、席順は滅茶苦茶で、どこかの侯爵夫人が真っ赤になって怒鳴ったとか」
紅茶の表面が、かすかに揺れた。私の指先が震えたのだ。
花の発注先は、引き継ぎ書の十二ページに書いた。楽団との契約窓口は三十一ページ。席次表のテンプレートは五十三ページから六十二ページにかけて、過去七年分を網羅してある。
受け取ってくれていれば。読んでくれていれば。
「——まあ、遠い町の話よね」
ノーラは深く聞かなかった。
胸の奥がちくりと痛んだ。けれど、ここで痛がっていても仕方がない。
「もう私の仕事じゃないですから」
自分に言い聞かせるように呟いて、スコーンをひと口齧った。バターの風味が、舌の上に広がる。うん、おいしい。
「それよりさ、カタリナ」
ノーラの声が、少し真剣になった。
「来週の秋祭り——今年はもっといい祭りにしたいんだけど、人手が足りなくてねえ。あんた、手伝ってくれないかい」
心臓が跳ねた。
祭り。イベント。企画。——前世の血が、一瞬で温度を上げる。
「お手伝いしましょうか?」
声が、思ったより弾んでいた。慌てて抑える。
「得意なんです、こういうの」
ノーラが、にかっと笑った。
「知ってるよ。倉庫の魔法使いの噂は聞いてる」
魔法じゃないんですけど。
その夜。
海猫亭の部屋に戻り、机に向かった。紅茶を手元に置いて、羽根ペンにインクを浸す。
手が勝手に動いた。
まず、港町の地図を描く。市場の広場を中心に、通りの幅、建物の高さ、風向き、日差しの角度——十日間歩き回って頭に入っている情報を、すべて図面に落としていく。
動線計画。出店の最適配置。演出タイムテーブル。楽団の配置と音響設計。群衆の流れを制御する看板と花飾りの設置ポイント。緊急時の避難経路と救護所の位置。予算概算。
気がつけば、窓の外が白み始めていた。
完成した企画書を見下ろす。二十四ページ。宮廷の行事に比べれば小規模だけれど、この町の祭りにこの精度は……過剰かもしれない。
でも、手は抜けない。抜きたくない。
朝、ノーラの家に企画書を持って行った。
「………………なんだいこれ」
ノーラが、ページをめくる手を止めた。
「ちょっとした軍事作戦じゃないか」
「褒めてます?」
「褒めてるよ! あんた、本当に何者なのさ」
笑って誤魔化した。答えられない質問には、笑顔が一番だ——と最近やっと学び始めている。
「そういえば」
ノーラが企画書を大事そうに抱えながら、思い出したように言った。
「町長から聞いたんだけどね。今年の秋祭り、外交視察でお偉いさんが来るんだって。隣国の王子様だとか」
「——王子」
「名前までは知らないけどさ。なんでも、うちみたいな小さい港町の祭りにわざわざ。物好きだよねえ」
VIP。
前世の記憶が、脳の奥から声を上げた。
VIP対応は裏方の腕の見せ所だ。動線に「自然にVIP席へ誘導される経路」を仕込む。警備の負担を増やさず、一般客の満足度も下げない。目に見えない設計で、要人が「なぜか快適だった」と感じる——それが、プロの仕事。
今はただの港町の手伝いで、国際行事ではない。
わかっている。わかっているのに。
宿に戻り、企画書を開き直した。二十四ページの図面を見つめる。
「……ここの動線、もう少し幅を取れば」
ペンを手に取っていた。VIP用の導線を、既存の動線計画の中に溶け込ませる修正。一般客には気づかれず、しかし要人が自然と最適な位置に辿り着く設計。
誰に頼まれたわけでもない。ただ、手が勝手に動く。この感覚を、私は知っている。
——ああ、やっぱり。
仕事が、好きだ。
ペン先がインクを吸い上げる小さな音が、静かな部屋に響いた。港の方から、夕方の鐘が鳴る。
来週の祭り。隣国の王子。VIP動線。
左手首の革ブレスレットに、無意識に触れていた。
さて。今度は誰にも気づかれない完璧な裏方を——
いや。
ペンを止めた。
「今度は」なんて言い方は、やめよう。
ここは宮廷じゃない。私は私のために、この祭りを良いものにする。
企画書の表紙に、書き足した。
「レミエール秋祭り 企画・運営:カタリナ」
自分の名前を書いたのは、七年ぶりだった。




