第1話 断罪と引き継ぎ書
白亜の大広間に、春の終わりの陽光が差し込んでいた。
高い天井から吊るされた魔法灯のシャンデリアは、この時間にはまだ灯っていない。午後の日差しだけで十分に明るい——その照明設計をしたのは私だ。三年前の改修工事の際、窓の角度と磨りガラスの配置を調整して、午後の式典では魔法灯が不要になるようにした。
年間の魔法灯維持費を三割削減できる、なかなかの仕事だったと思う。
もっとも、そのことを知っている人間は、この広間には一人もいない。
「——カタリナ・グランヴェール!」
王太子殿下の声が、天井の高い空間に反響する。
声の通りが良いのは大広間の音響設計のおかげでもあるのだけれど、それを差し引いても、アルベルト殿下の弁舌は見事だった。はっきりとした発声、聴衆の視線を集める間の取り方、感情を乗せた抑揚。表舞台に立つ人間としての資質は、確かに本物だ。
「お前は高慢にも聖女リゼットを虐げ、学園の秩序を乱し続けた。よって本日をもって、お前との婚約を破棄する!」
満場の貴族たちの視線が、私に集中した。
同情。軽蔑。好奇心。それから、少しばかりの安堵。
——ああ、やっぱりそうだ。
この場にいる誰もが、「高慢な公爵令嬢がようやく裁かれた」と思っている。七年間、宮廷行事の裏方を一人で回してきたことなど、知る由もない。知っているのは、私と——。
視線を横にずらす。
ヴァイス侯爵が、いつもの無表情で控えていた。宮廷行事局長。私の仕事の成果をすべて「行事局の功績」として報告し続けた上司。
「殿下! わたくしは、カタリナ様に何度も社交の場で侮辱されました……」
アルベルト殿下の隣で、リゼット・フォンターナ嬢が涙ぐんでいた。蜜色の髪を揺らし、大きな瞳を潤ませて、守ってあげたくなるような佇まい。聖女の称号を持つ男爵令嬢。
彼女の涙は、いつだって完璧なタイミングで落ちる。
侮辱した覚えはない。社交の場で私が無表情だったのは事実だけれど、それは人前で顔が固まる癖のせいだ。弁明したところで「また高慢な態度を」と言われるだけだろう。証拠もない。権力差もある。
ここで争う意味はない。
「——承知いたしました」
私は頭を下げた。
広間に微かなざわめきが走る。反論するとでも思っていたのだろう。しないよ。七年間裏方をやってきた人間は、勝てない場面で戦わないことを知っている。
頭を上げ、鞄から一冊の冊子を取り出した。
「殿下。僭越ながら、こちらをお渡しいたします」
「……何だ」
「王室行事の運営マニュアルです。次の春の園遊会まであと三週間ですので、お早めにお目通しいただければ」
差し出した冊子は、百ページ。
動線計画、式次第テンプレート、各業者の連絡先と契約条件、緊急時対応フローチャート、過去七年分の行事評価と改善履歴。私が一晩で書き上げた——というのは嘘で、日頃から更新し続けていたものをまとめただけだ。
大広間が、今度は明確にざわついた。
「なぜ婚約者が、そのようなものを……?」
誰かの囁きが聞こえる。そう、なぜ婚約者が行事マニュアルを持っているのか。おかしいと思うだろう。でも、誰もその疑問を深追いしない。
アルベルト殿下が、冊子を見下ろした。
「そのようなものは必要ない。行事は行事局が管理している」
ヴァイス侯爵が、一歩前に出た。
「左様でございます。行事局にて滞りなく運営しておりますゆえ、ご心配には及びません」
知っているでしょう、侯爵。この七年、実際に運営していたのが誰なのか。
私は侯爵の顔を見た。灰色の目は、相変わらず何の感情も映していない。
「そうですか」
声が平坦になるのを、自分でも感じた。
「では、処分はお任せします」
冊子を演壇の端に置いた。受け取る人はいなかった。
踵を返す。
広間を出る直前、視界の端で——リゼット嬢が、ヴァイス侯爵に向かって小さく頷いた。
ほんの一瞬の動作。周囲の誰も気づいていない。
胸の奥で、冷たいものが落ちた。あの二人には、何か繋がりがある。確信ではない。でも、断罪の裏側に別の意図がある——そう感じるには十分だった。
ただ、今この場で追及する手段は、私にはない。
広間の扉が閉まり、回廊に出た。
足音だけが響く石の廊下を歩きながら、頭の中では次の手順が回り始めていた。公爵邸に戻る。私物をまとめる。影帳簿は絶対に持ち出す。資金の確認。移動手段の選定。行き先——港町レミエール。国境近くの交易港。情報と物資が集まり、仕事がある場所。
前世の記憶が、こういう時は役に立つ。
公爵邸は、静かだった。
使用人たちが廊下の端で目を伏せるのが見えた。断罪の噂はもう届いているのだろう。
父の書斎の前で、扉が開いた。
「カタリナ」
ローランド・グランヴェール公爵——私の父は、机の向こうに座ったまま、こちらを見なかった。
「家名に泥を塗った以上、勘当とする。明朝までに出て行きなさい」
短い宣告だった。
怒りはない。軽蔑も、たぶん、ない。ただ——用が済んだ書類を片づけるような、事務的な声。
一瞬だけ、父の目が横に逸れた。怒りでも軽蔑でもない。何かを飲み込むような——。
「……承知しました」
同じ返事を、今日二度目。
私室に戻り、荷造りを始めた。ドレスは要らない。装飾品も要らない。持ち出すのは、着替え一揃い、洗面用具、財布——そして。
書棚の裏から、数冊のノートを引き出した。
影帳簿。七年間の業務日誌。企画書の原案、発注先リスト、交渉メモ、改善記録。私の仕事のすべてが、ここにある。
これだけは、渡さない。渡すものか。
革のショルダーバッグにノートを詰め込む。ずしりとした重みが、肩に食い込んだ。七年分の仕事の重さだ。
窓の外が暗くなっていた。
三年前の国際晩餐会の夜を、ふと思い出す。あの時の会場設計は会心の出来だった。各国の外交官が自然に交流できる動線。音響の配置。VIPの誘導。裏方テントから見守った私の視界には、滞りなく進む晩餐会と、その中で笑顔を見せる人々の姿があった。
あの仕事を、気づいてくれた人は——。
首を振る。いない。誰にも気づかれなかった。それが裏方だ。
翌朝。
乗合馬車の発着場に向かう途中、王宮の通用口の前を通り過ぎた。
聞こえてきたのは、声だった。
「園遊会の花の発注先が——書類がどこにもない——」
「楽団との契約、誰が窓口なんだ? 行事局長に聞いても要領を得ない——」
「席次表は? 三年分のテンプレートがあったはずだが——」
足を止めかけた。
——ほら。
引き継ぎ書を受け取っていれば、全部書いてあったのに。
胸の奥がちくりと痛む。あれは私の七年間の結晶だった。受け取ってもらえなかった。読んでもらえなかった。必要ないと、言われた。
でも。
深く息を吸った。春の終わりの空気は、少しだけ湿っている。
「もう私の仕事じゃない」
呟いて、歩き出す。
乗合馬車の揺れは、思ったより心地よかった。硬い座席も、隣の商人のいびきも、窓から入り込む土埃も——公爵邸の冷たい静寂よりはましだ。
バッグの中のノートに手を触れる。七年分の重み。
さて。
「次の現場を探しましょうか」
馬車の窓の向こうに、青い海が見え始めていた。




