白杭の向こうで見たもの
父がゴルフに行く日の朝は、いつも少しだけ機嫌がいい。
ゴルフが好きなわけじゃないらしいけど、
「外で太陽浴びると元気でるんだよ」って照れくさそうに言う。
私もその顔を見るのが、ほんのちょっと好きだった。
夕方。
父は、いつもより静かな顔で帰ってきた。
「……変なことがあったんだ」
最初にそう言った時、
靴を脱ぐ手がほんの少し震えているのに気づいた。
話を聞くと、
今日の父はひどいスライスを打って、ボールがOBへ転がっていったらしい。
キャディさんが止めたのに、なぜか父は白杭を越えてしまった。
「向こうに……人がいたんだよ」
白いウェアを着た男の人が、ずっとボールを持って待っていたという。
父と同じくらいの年齢。
でも顔が影に溶けて、よく見えなかったらしい。
その人は、父にボールを渡しながら言った。
『今日も、ちゃんと帰れるよ』
私の胸が、小さくざわついた。
父が見せてくれたボールには、ペンで文字が書いてあった。
「無事でよかった」
私はすぐに気づいた。
それが、父の字だということに。
子どもの頃、私がゴルフの練習に付き合った時、
父がボールに書いてくれたあの字とまったく同じ。
「帰る時、誰かに似てませんかって聞いたんだよ」
と父が言った。
「そしたら……“あなた自身ですよ”って。
“このままだと、今日あなたは戻って来なかったから”って」
父は笑っているのに、目だけが少し赤かった。
外で風にでも当たったのかもしれない。
でも、その笑い方は、
ずっと前に父が“泣くのをこらえたとき”の笑い方と同じだった。
父はボールをポケットにしまい、
「……明日も、行ったほうがいいのかなぁ」
とつぶやいた。
私は聞いてしまった。
言うべきじゃないのに、どうしても口から出てしまった。
「ねぇ……その人って」
「パパより、少しだけ悲しそうな顔してた?」
父はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
私はそこで確信した。
白杭の向こうに立っていたのは“助かった未来の父”じゃない。
あれはきっと、
“私がもういない未来の父”
なんだ。
父が無意識に越えてしまったのは、
ただのOBラインじゃなかった。
あれは、
父が一度だけ“私を失ったまま生き続けた世界”との境目 だったんだと思う。
父はまだ気づいていない。
だけど、私はもう知ってしまった。
父が震える手で握っていたあのボールは、
“私を失った未来の父”が、
なんとかして“こっち”へ戻そうとして書いた
たったひとつのメッセージだった。
無事でよかった――と。




