緊張の縁で浮かび上がる過去
高い屋根の広い廊下を走りながら、ウエディングドレスについてしつこく聞かれたけれど、私にはさっぱりわからない。腕を引っ張られて走った。使用人たちがせわしなく動き回り、食事を運んだり、壁に飾られている絵画の額縁を丁寧に掃除している。
私はとある部屋に連れ込まれて、化粧台の椅子に座らされた。広く、シャンデリアのさがった、素晴らしく美しい部屋だった。化粧台の鏡は三面鏡。縁には装飾が施されて、椅子はふかふか。
「それでウェディングドレスは?」
たくさんのメイド達に迫られて私は頭がパンクして、心臓が耳元で鳴っているようだった。こんなに人に囲まれたことは今までの人生で一度もない。
「あの、ないんですけれど」
「いまなんて?」
中年のメイドに両肩を掴まれて、鬼の形相で迫られた。私は椅子に深く腰掛け、この状況をできるだけ理解しようとした。でもできるはずない。
「無い!?無いってどういうことなの!?もう教会でみんなお待ちかねなのに。分かってる?伯爵家よ!領地を持つ伯爵の結婚なの!貴方みたいな田舎娘には何も分からないかもしれないけど、とても重要な事なのよ!」
私だってどうすればいいか全然分からないわよ。だって帰ってきた両親に突然結婚しなさいと言われて、一週間後には結婚式よって。渡されたのはお金だけ。あ、お金。
「両親に渡されたのは持参金だけです。トランクの中に入ってる」
「お金なんてどうでもいい!」
どうすればいいと思ったとき、部屋の扉が開いてまだ若い男性と、中年ながらきっちりとした女性が入ってきた。屈強な体でいくつも紋章のつけられた軍服を着ている。黒髪に小麦色の肌。極めつけは突き抜けるほどさわやかな青色の瞳。右目には縦に引っかかれたような一つの傷がある。
「何事?」
紺色のドレスを着たその女性は、眉をひそめ、ツカツカとこちらへやってきた。髪の毛をまげに束ね、胸で大きく息をしている。メイド達は静かに私から離れていく。
すごく気品に満ち溢れている夫人だわ。歩いているだけで美しい。
「あなたが、セラフィナね。私は貴方の義母になるキャサリンよ」
「は、はい」
義母?ああ、そっか。私この人と暮らすのね。
「ドレスは?」
「その、無くて。すみません。両親から何も聞かされていなくて」
怒鳴られるか、叩かれるか、するかと思ったけれど、義母は小さく笑って私を見ただけだった。優雅に体を翻し、メイド達に身体を向けた。
「それじゃあ、この子の髪を素敵にして。ドレスがないならこのままで式を挙げるしかないわね。少しみすぼらしいかもしれないけど」
「母上」
低い、良く通る声だった。一斉に皆が扉に立つ彼の方を向いた。声一つのこの部屋の空気が引き締まったような気がした。
「姉上が結婚式を挙げた時のウエディングドレスはどこに?確か、この家にウエディングドレスを預けたままでは?」
しばらく部屋の中に無言が漂った。それからパッと顔を上げて、人差し指を上げた。
「あ!そう言えば、あの子もこの近くで式を挙げたから、ドレスをここに預けたままだったわ。私はドレスを探しに行くから」
一瞬義母は冷徹な睨みつけるような瞳で彼を見たような気がした。それに気づいたのは何人いたのか分からないけれど、なにせすぐににっこりと笑って私の頭を撫でた。
「こんなにせわしなくてごめんなさいね。来たばかりで疲れているでしょうけれど」
「いえ、私の方こそ、何も知らず」
「どちらかと言えば被害者でしょう。何も悪くないわ」
私から離れると、小走りでメイドを引き連れ部屋から出て行った。
ものすごく迷惑をかけてしまった。少し考えればわかったことなのに、私は不安や緊張ばかりで何も考えられずに、自分の殻に閉じこもっていた。
慌ただしく動き始め、メイドに髪をくしでとき、濡れたタオルで顔をごしごしと拭かれた。ちらりと後ろを見た時にはすでに彼はいなくなっていた。名前は、ジェーン?ジェラート、ジェ?ジェラ…ジェラール?そんな感じだったはず。ジェラートみたいな名前だったから憶えている。
あまりにも違う世界。場違いだわ。体がここには居られないと叫んでいる。心臓がバクバクと鳴り、指先や足先の感覚が鈍くなる。物音がしきりに耳に入り、私のことを怯えさせる。頭が上手く動かない。私は頭を動かすことだけが得意なはずなのに。考えることもままならない。こんなに緊張して、不安に頭を囚われるのはいつ以来か分からない。
髪の毛はハーフアップ。私の芋っぽい雰囲気を少しでも中和させるためなのか、太陽の光に反射して輝くティアラ。赤色のピアス。白粉でソバカスを隠し、ピンク色の口紅を付けられた。鏡の中の私は案外悪くなかった。
ウエディングドレスは真っ赤なボールガウン。袖はふっくらと膨らみ、ウエストはキュッと締まっている。ドレスは案外私の身体にフィットした。ただ少し私の背丈が大きいせいで、足元が見えそうだけれど、誰もそんなこと気にしていないだろう。
全身鏡で見た私は、そこまで悪いものではなかった。メイドと義母に感謝しなければならない。でもそんな暇なかった。
「さあ、さあ、さあ!行くわよ。ご両親まだ到着なさらないの?始まっちゃうわ」
義母に尋ねられ、全身が凍り付いたようだった。
「両親は来ません。来ないと言われましたので」
「あら、そう」
眉をハの字にして「あら、かわいそうに」という顔だった。
教会の移動は楽だった。なにせすぐお屋敷の敷地を出てすぐ近く。それでももちろん、馬車に乗せられた。
教会はこぢんまりとしたものだった。町にあった教会と同じ。衛兵たちが教会の周囲を警護して、子供が二人立っている。子供たちは待ちくたびれたようで、地面の草をちぎっていた。花弁の入った藁で出来た籠が近くに置かれている。
義母と一緒に馬車から降りると、花束を胸に押し付けられるように渡された。
「それじゃあ、頑張ってね」
「え、あの」
義母はさっと教会へ入って行ってしまった。花束を握りしめながら扉の前に立ち、つばを飲み込んだ。
誰も私の為に待ってはくれず、構わず衛兵が両扉を開ける。目に飛び込んできたのは、正装した紳士淑女。まっすぐ前のステンドグラスの下にはジェラール様と、神父。全く緊張していない様子の子供二人が花弁を道に撒きながら、歩いていく。
もう何も考えることをやめた。息を吐いて、息を吸い込んだ。軽く頭を下げてから、花弁の道を歩いた。誰も見ずただまっすぐと、神父様の方を見ていた。笑えばよかったものを、緊張で笑うことすら忘れて、上下の唇をぴったりと縫い合わせていた。視線にさらされて、私はどうにかなりそうだった。