良からぬ事態
心地良い揺れを感じ取り、静かに瞼を上げる。
朧気な視界に映ったのは、悠然と手綱を握るヴォルフレンの姿だった。
見てみれば彼の外套に身を包まれ、馬上で抱き抱えられていた。
「…テルー、起きたかい?」
向けられた視線の優しさに、思わず目を逸らした。
昨晩、彼を酷く拒絶した手前、何を話して良いか分からなくなった。
「村での火事の件は全て収束した。大丈夫。村の人々は皆無事だ。時期に王都から支援物資も届くだろう」
毅然と告げた彼にホッとしたが、同時に何となく事の顛末を理解した。
火元から推測するに恐らく放火犯はラプンツェルの―――…。
「…大丈夫。ラプンツェルには傷が付かぬように取り計らった。君達には害が及ばぬように全て処理した」
こちらの憂いを察したのか、ヴォルフレンは淡々と告げ、何も案ずるなと微笑んだ。
流石は大公。
権力で都合の悪い事実は揉み消したらしい。
「………、大きな借りが出来てしまいましたね…」
肩を竦め、自嘲気味に笑った。
一先ず火事の事は丸く収まりそうだが、彼との関係は簡単には終えられそうにないと悟った。
何とかラプンツェルが王子と出会い、結婚するまでには綺麗に縁を切らなければ―――…。
物語のシナリオに干渉するリスクは避けたかった。
定められている未来を大きく変える事が怖かった。
「…ならば、素直に私の妃になって貰おうかな?」
先を懸念していた矢先、降って来たそんな発言にギョッとした。
「は、話が急過ぎませんっ⁉」
声を荒らげ、怒りと恥ずかしさに頬を赤らめる。
彼女のあまりの慌て振りに、ヴォルフレンは悪役の如く高笑いした。
「何を言う?既に君は私のお手付きで、まだ互いに未婚だ。懸念はない筈だが?」
「おてっ⁉お、やっ、も、問題大有りです!子持ちの平民を!しかも魔女を娶る王族が何処に居るんですか!住む世界が違い過ぎるんですよ!」
小首を傾けて嫌味たっぷりに艶めかしい視線を送る彼に、恥ずかしさのあまりテルーはしどろもどろで言い返す。
昨夜の秘事は無かったことにしたいのに、更々そうする気のない彼にどうした物かと考え倦ねた。
そんな時だった。
何だかんだと辿り着いた自宅の塔の前、見知らぬ馬が草を食んでいた。
村での火事に乗じた脱走馬かと思ったが、かなり毛艶が良いし、装備も豪華である。
「シュバルツっ?何故ここに?」
その馬を見て、ヴォルフレンは目を疑った。
「知ってる馬ですか?」
何気無しにテルーは訊ねた。
知り合いの馬なら飼い主探しも早いと思ったが―――。
「フリードリヒ王子の馬だ。何故こんな所に…」
そう返された彼女は戦慄した。
途端に大慌てで馬から飛び降り、窓辺へ向けて娘の名を叫ぶ。
けれど案の定、返答がなかった。
まさか。
まさか―――!
警鐘を鳴らす胸に急かされ、塔の裏に回り込む。
極偶に使う裏口の戸を閉鎖していた石を蹴り飛ばし、重い閂を力任せに引き抜く。
爪を引っ掛けたが気にしている暇はなかった。
扉を抉じ開け、長い螺旋階段を必死の思いで駆け上がる。
「ララっ‼」
名を叫び、転げるように部屋へと駆け込む。
その目に飛び込んで来たのは、床に押し倒された愛娘とその上に覆い被さる王子の皮を被った獣の姿だった。
最も恐れていた事態だった。
「ララに何てことをっ‼」
鬼の形相で王子に掴み掛かり、張り倒すようにしてラプンツェルから引き離す。
テルーの後を追って駆け付けたヴォルフレンは即座にその場に座り込むラプンツェルに駆け寄り、素早くその身を目視で確かめた。
―――良かった。
衣服の状態からして未遂である。
「よくも…!よくも!」
胸倉を掴み、テルーは怒りのままに呆気に取られる王子の頬へと平手を振り翳す。
しかし、振り下ろす直前パシリとその手首を掴まれた。
「テルー、待て!落ち着くんだ!」
取り押さえるようにして言い聞かせ、ヴォルフレンは怒れる彼女を宥める。
怒りは収まらなかったが相手は一国の王子―――。
理由はどうあれ平民が王族に手を挙げたとなれば、それ相応の罰を喰らいかねない。
渋々引き下がった彼女をラプンツェルの下へと下がらせ、代わりにヴォルフレンは無表情で王子を引き起こした。
「…何か言うことは?」
気不味げな王子を腕組で問い質す。
王子は言葉を躊躇うように口元をギザギザさせた。
大方、塔に住まう彼女達のことが気になるあまり、隙を狙って一人で王城を抜け出して訪ねてきたのだろう。
「そうか」
ただ一言、憮然と呟かれた瞬間だった。
唐突にヴォルフレンは拳を握りしめ、王子の腹を思い切り殴り付けた。
あまりにも重い一撃に王子は崩れ落ち、しかし、彼は追い討ちを掛けるように今度はその胸倉を掴むや抵抗する間もなく頬に平手をお見舞いした。
「ちょっ⁉ヴォルフレン様!流石にそれ以上は!」
一方的に殴られる王子に、テルーは堪らず止めに入った。
これ以上はいくら何でもやり過ぎである。
「何、この程度は教育的指導の範疇です。貴女が手を上げたとなっては後々、咎められるかも知れないのでね」
散々殴り飛ばされてぐったりする王子を床に放り出し、ヴォルフレンはフンッと鼻息を漏らす。
「ラプンツェル、申し訳ありません。怖い思いをさせましたね…」
そう言って、振り返った彼にラプンツェルはフルフルと首を振りつつも王子を気に掛ける。
その姿にテルーは娘を抱き締めた。
「貴女は悪くないのよ…?」
「うん…、でも…」
何やら彼女は言葉を躊躇う。
刹那の葛藤の末、ラプンツェルは意を決した。
「大公様、王子様をあまり責めないでください…!私っ…私が嫌がらなかったんです!家に上げたのも私です!王子様は楽しい話を聞かせてくれて!私の歌が素敵だって…!それが嬉しくて…!」
必死に王子を庇う娘にテルーはハッとした。
これはもしや―――。
「ララ、もしかして…」
「お母さん、お願い。王子様の事、赦してあげて?突然キスをされて驚いたけれど…、全然嫌じゃなかったの…、だからっ…」
俄に薔薇色に染まる頬と初心な表情に、嗚呼やはり…と思った。
「一目惚れなのね?」
その問いにラプンツェルは酷く頬を赤らめながらコクリと頷いた。
成程。
双方、若さ故の先走りである。
「ララ、王子の手当てをしてあげなさい。母さん、お茶入れて来るから…」
穏やかにそう言って、肩を叩きながらそっと腰を上げた。
途端にラプンツェルは王子の元へと駆け寄り、その手を握って涙を浮かべた。
「王子様、ごめんなさい…、私がはっきり言わないからっ…」
「いや、私の方こそ破廉恥な事をした。すまない。叔父上に殴られて当然だ…」
お互い非を詫び、若い二人は手を取り合う。
その様にヴォルフレンは何か言いたげだったが、テルーは彼の背に触れて今は見守ろうと首を振った。
「王子様、痛い?」
腫れ上がる頬に触れ、ラプンツェルは悲痛に顔を歪める。
王子は当然の痛みだと嗤い、慰めるようにその指先を金の髪に伸ばした。
その時だった。
零れ落ちたラプンツェルの涙が床に弾け、黄金の光となってふわりと浮かび上がる。
光は綿毛のように漂いながら王子の身体に吸い込まれ、見る見る傷を癒した。
「治癒の魔法?」
呆気に取られる王子だったが、驚くべきことはそれだけでは無かった。
「ララ、髪が…!」
異変に気付き、茶の支度に取り掛かっていたテルーは娘に駆け寄った。
まるで、役目を終えたと告げるように長い髪が毛先から本来の色を取り戻して行く。
全て元に戻るかと期待したが、肩の長さまで色が戻った所で変化が止まった。
魔法の力がここで切れと言っているようだった。
「…魔力が残ってる…っ…」
金色のままの部分に触れ、そこに残った魔力にテルーは何処か残念そうに呟いた。
どうやらいくつか物語のシナリオが変わってしまったらしいと悟った。
「ララ、折角だから切っちゃおっか」
その問いに、ラプンツェルは何かを察したように少し淋しげに笑った。
王子とヴォルフレンが見守る中、母子は物語のピリオドを打つように色変わりした髪に鋏を入れた。