火事
あの後、どうやって帰ってきたのかは覚えていなかった。
気が付けばいつものように塔の上のベッドにいて、昨晩のことが全て夢かとも思ったけれど、体に残る微かな違和感と泣き腫らした目に現実だと思い知らされた。
「お母さん、大丈夫?具合悪いの?」
朝餉の仕度をしながら、元気のない彼女にラプンツェルは目敏く気付いた。
「うん、ちょっとね…。大丈夫、すぐに元気になるから」
そう言って笑ったけれど、作り笑いにしかならなかった。
早めに手紙を書いて彼に――、ヴォルフレンに謝ろう―――。
そんな事を思いながら、焼いていた玉子を皿に盛り付けた時だった。
ドドドッと慌ただしい蹄の音を轟かせ、誰かがテルーの名を叫ぶ。
こんな朝から何事かと窓から顔を覗かせれば、煤で酷く汚れた村人の姿があった。
「テルーさん大変だ!村で放火があって!かなりの怪我人が!すぐに来てくれっ!」
息を切らせながら、知らせに来た村人は急いでくれとばかりに馬上から叫ぶ。
村の一大事にテルーは弾かれるように踵を返した。
その声を聞いたラプンツェルも食事の手を止めて母の身支度に手を貸し、鞄に有りっ丈の薬と救急道具を押し込んだ。
「こっちこっち!」
全力で馬を走らせてもらい辛うじて焼け残った村役場に着いた時、辺りには怪我人が溢れ返っていた。
道中で子細を聞いたが、放火は明け方に行われ、テルーが以前住んでいた家が火元だった。
隣も空き家だったことに加え、時間的にまだ寝入っている村人が多かった所為で火事の発見が遅れ、多くの人が煙や炎に巻かれてしまった。
最早、地獄としか言いようが無かった。
「領主館に連絡は⁉」
「もうとっくに!」
手当を急ぎながら人手が足りないと応援の有無を確認。
その最中だった。
地鳴りを伴い、蹄の音が轟く。
駆け付けたのは、ヴォルフレン達近衛騎士団だった。
「王都からも黒煙が見えた…!全隊に通達!負傷者の優先選別を開始せよ!同時に放火犯の特定を急ぎ、残りの消火に当たれ!」
その号令に騎士達が一斉に動き出す。
統率された彼等の動きは機敏だった。
尚も燻る炎を持ち寄った灰や土で消し止め、負傷者の手当の傍ら聴取に取り掛かる。
(トリアージっ?)
この世界ではまだ存在しない筈の単語にテルーは一瞬耳を疑ったが、訊ねている暇はなかった。
ここには医療行為と言えるだけの行為が出来る者は自身しか居なかった。
魔力回復の薬の入った小瓶を呷り、その苦みに耐えながら必死の思いで重症者から手当を急ぐ。
誰も死なせなくない―――、死なせて堪るものか!
副作用で鼻血が出ようが、目眩で足元がふらつこうが根性で耐えた。
「残りの患者は⁉」
「後は軽症だ!テルーさん、よくやってくれた!」
駆け着けてから約三時間、村長の返答にやっと収束したことを理解した。
途端に崩れるように座り込み、どっと汗が吹き出した。
顎筋を流れた汗を拭った袖は、自分だか人のだか分からない血と汗で湿り、限界を超えた身体はガタガタと震えていた。
―――少し休みたい。
そう思った瞬間、フッと身体から力が抜けた。
ドサリと床に倒れ込み、騒然とする村人達の声が遠退く。
娘が心配するから早く帰りたいし、着替えもしたいのに体が重い。
どうしよう。
動けない。
「テルー!」
その声に閉じ掛けた瞼を微かに開く。
駆け寄る姿は霞んでいたが、抱き上げられたその温もりでヴォルフレンだと分かった。
―――昨晩のこと、謝らなきゃ…。
そうは思うも鉛のような体が言葉を発する事を許さなかった。
「大丈夫。後は任せてくれ…」
優しい手付きで頬を撫で、柔い声が安心しろとばかりに囁かれる。
その声に安堵して、テルーは微かに微笑むと事切れるように意識を失った。
「失礼します!団長、放火犯を引っ捕らえました」
気絶した彼女を抱き上げ、何処かで休ませようと辺りを見回した矢先、そんな言葉を添えて若手の騎士が駆け寄った。
「分かった。テルーを頼めるか?」
「はっ!御婦人の身柄は責任を持ってお預かりします!」
二つ返事で騎士は応え、差し出した彼女を丁重に抱きかかえる。
毅然と踵を返し、長い外套を揺らすその姿は国家の英雄たる覇気を纏っていた。
「…放せ!俺は被害者なんだぞ!」
村の外れ、騎士達に取り押さえられて喚き散らす汚らしい無精髭の男とヴォルフレンは対峙した。
村人達の証言により判明したが、男は以前テルーの隣に住んでいた旦那だった。
放火の理由は逆恨みだった。
「あの魔女がいなきゃ俺は嫁とも別れずにずっとあの家に住んでいられたんだ!あの魔女が娘を攫った所為で嫁は可怪しくなったし、全部あの魔女が悪いんだ!」
そう豪語する男だが、問い詰めに来た村人達は何を言うかと怒りを露わにした。
「そもそも、お前がテルーさんの野菜や薬草を盗んだ所為だろ⁉」
「あんたの嫁さんは元から病気だったじゃねえか!」
「お前の手癖の悪さが原因だろ!人の所為にすんな!」
村人達は一斉に反論。
ここには誰一人、魔女テルーの敵は居なかった。
「全くの身勝手さだな…。テルーや皆から話は聞いている。放火は如何なる理由があったとて火刑だ。過去の窃盗の罪も合わせて処分しろ」
溜息混じりにヴォルフレンは告げ、問答無用と踵を返す。
極刑の通告に男が戦慄する中、騎士団は泣き喚く男を容赦無用で処刑場へと連行した。