月夜の秘事
その日の晩、満月が光り輝く美しい真夜中だった。
昼に訪れた川より少し上流、岩陰に隠れた大きな滝を目の前にして人目が無いことを良いことに、テルーは一糸纏わず沐浴を楽しんでいた。
月明かりの下での沐浴は、魔女にとっては大事な儀式。
身体に付いた邪気を払うと共に、月に清められた大気から得られる純粋な魔力を身体に蓄える。
特に、今いる場所は夜になると魔力を高める事で知られる水生植物が咲き誇り、その香りもまた魔力回復には良いものであった。
「は〜ぁ、き〜も〜ち〜♪い〜い、き〜も〜ち〜♪」
水面に体を浮かせ、即興の歌交じりに思う存分に水の冷たさを味わう。
吹き抜ける温い風と静寂は何ともノスタルジックで、ラプンツェルの髪洗いで来た昼間とは別世界のようだった。
(昼間は昼間で良いけど、やっぱり月夜の沐浴は格別ね…!)
自らの髪を流しながら、彼女は思わず笑みを零す。
その折だった。
足音に気が付き、何の気無しに振り返る。
今夜は一段と暑く、堪らずラプンツェルが塔から降りてきたのかと思った。
―――のだが!
「きゃあぁっ!」
素っ頓狂な悲鳴を上げ、即座に水の中へと体を隠す。
水辺に現れたのは、意外にもヴォルフレンだった。
刹那、頬を赤らめ立ち尽くしていた彼であったがテルーの悲鳴に我に返るや、グルンと体ごとそっぽを向いた。
「やだわ、お恥ずかしいものを…!」
「い、いえ!私こそ、御婦人の裸を見るなど破廉恥なことを…!そのっ、夕涼みの散策をしていたのですがっ…ゆ、ユニークな歌声が聞こえたので…!」
互いに謝罪を叫ぶ。
何とも気まずい。
と言うか、ふざけ半分の即興歌を聞かれていた。
「す、すぐに着替えますから…!」
近場の水草で大事な場所を隠しつつ、大慌てで彼の後ろの服を掛けておいた木の下へと急ぐ。
その刹那だった。
「わっ!」
慌てるあまりに濡れた草に脚を滑らせた挙げ句、その先に居たヴォルフレンを巻き込んだ。
ドサリと押し倒すようにして彼に覆い被さり、沐浴で程良く冷えた筈の体が途端にボッと熱を帯びた。
「ご、ごごっごめんなさい!」
悲鳴混じりに体を起こし、引き倒した彼の上から下りようと体を捻る。
その時だった。
大きな掌が腰に充てがわれ、絡め取られるように抱きしめられた。
「…あのっ…ヴォルフレン様?」
「…駄目だなっ…この状況で、平然としていられるほど…、私は紳士ではないようです…」
そんな囁きを添え、転がるようにして今度はテルーの方が草原へと押し倒される。
途端に彼が見せた雄の顔に、ドキリと胸が鳴った。
ここはどうにか逃げなくてはと理性は叫ぶのに、逃げ出さないように手首を押さえる腕の力強さと、頬を撫でる温もりにときめいてしまう。
戸惑う内、寄せられたヴォルフレンの顔に囚われて、喰らいつくように唇を奪われた。
あまりにも強引で艶めかしく、それでいて優しくて―――。
彼に対してそんな気は無かった筈なのに、今世最初となる貞操を差し出すことに抵抗は無かった。
まるで、そうされる事を望んでいたみたいに自然と互いを求め合った。
「…怜…っ…」
睦み合いの最中、微かにかつての夫の名が口を吐いた。
夫とは同じ看護学校で出会い、医療従事者として切磋琢磨する中で意気投合した。
底抜けに優しくて時々お茶目で、くしゃりとした笑顔が素敵で―――、気付けば溺れる程に惚れ込んでいた。
三十目前で互いに資金が貯まったのを機に結婚して、その後すぐに娘を授かり、大変ながらも満ち足りた日々が幸せだった。
――嗚呼、そうか。
ヴォルフレンに対して妙な親近感を覚えていたが、それは夫に似ていたからだと気付いた。
笑い方がそっくりで、笑い事じゃ無いことも大した事ないと笑い飛ばせる豪快さもあって―――。
思い出した途端に涙が溢れ、それを隠すように瞼を伏せた。
もう、あれだけ愛した夫は自分の隣りには居ない―――…。
その現実を受け止めるように今、目の前に在る彼から注がれる愛に没頭した。
「テルー、私と王都に来ないか?責任を取りたい」
服を着直していた最中、背後から抱き締められて、そう囁かれた。
責任とは何とも彼らしい提案である。
「勿論、ラプンツェルも一緒だ。王都ならば彼女の髪に掛けられた魔法を解く方法が見つかるかもしれない。それに君の腕なら宮廷魔法使いに推薦も…」
何処か必死な彼に胸が苦しくなった。
――嗚呼、なんて罪深い事か。
国の英雄ともあろうお方を知らぬ間に虜にしていたらしい。
なんて悪い魔女だろう。
悪役の分際で、人並み以上の幸せを望もうとしていたなど――、唯、穏便に暮らして行ければそれで良いと思っていた癖に―――…。
「ヴォルフレン様、今夜のことは二人だけの秘密に致しましょう…」
絞り出されたテルーの返答に、彼は息を呑んだ。
「魔女に惚れたなんて悪評を背負わせる訳にはいきません。貴方はこの国の英雄なのですから…」
振り返り様、距離を取りながら毅然と告げた。
毅然と告げたつもりなのに、涙が溢れそうだった。
「テルー…」
「娘の魔法は自力で解きます。これ以上、情けを掛けて頂く訳には…」
「情けではない…!」
その叫びと共に再び抱き寄せられる。
拒まなければいけないのに、その胸に手を充てがうのが精一杯だった。
「愛している。君の全てが愛おしくて堪らない…」
縋るような声色に、胸が締め付けられる。
いけない。
彼を望んではいけない。
住む世界が違い過ぎる。
この世界は童話の中でありながら現実で、一介の平民風情が大公妃になるなど有り得ない。
この世界では、自分は悪役なのだ。
ラプンツェルが王子と幸せになった後、魔女である自分はこの表舞台から立ち去らなければいけないのに―――…。
決死の思いで彼を押し除け、テルーは溢れる涙を必死に呑んだ。
「…駄目ですっ、私は貴方には…!私は悪い魔女なの…っ!表舞台で幸せになってはいけないのよ!」
拳を握り締めて彼女は叫び、大粒の涙を零した。
止められない涙と悲しみに堪らず踵を返して走り出し、その場から逃げ出す。
これ以上、彼の側にいることが耐え難かった。
いつの間にか彼を好きになっていた自分に耐えられなかった。