0-3 ピーマンの肉詰めとビール
19時半になると家路に着くポロシャツ姿やジャケットを片腕に下げたワイシャツ姿のサラリーマンが国分寺駅からため息をつくように大量に吐き出されている。
その波に逆らうように高原は駅に歩を進める。慣れたものだがものすごい人の数だ。
下り電車からは帰宅ラッシュの乗客が降りてくるが、反対に上り電車はそれほど込み合っていない。
東京駅行きの中央特快を一本見送り、次に来た電車に乗り込む。
冷えた冷気が一気に全身の汗を冷やす。気持ちいいが身体への負担を考えると弱冷房車にした方が良かったか、と高原は体調のことを少し考えた。
西荻窪まで20分弱。
窓際の壁に背中を預け、車内で最後の連絡、指示出しを手持ちのiPadで行う。
全員からの日報など意味がないと経営をバトンタッチした年に廃止した。
各部署からの数値を確認し、責任者にチャットで不備があった点や数字見込みなどを質問する。
同時に毎週一回開催される営業会議に向けたアジェンダを送り、確認事項を周知する。
会議に手ぶらで参加することは厳禁。さらに作り込んだ資料も禁止した。
A4一ページのテキスト資料のみを推奨している。5W1Hがまとめられた資料だ。
まだ定着に時間がかかっているが、会議に向けた資料作りや根回しなど無駄な悪習は60%ほど撤廃できたと考えている。
そんな作業をしているとあっという間に最寄り駅に到着した。
買い出しが必要か家に連絡する。
高原の妻の奈緒からは夕飯はできて、先に子供たちと食べているとのことだった。
今日はピーマンの肉詰めらしい。これはビールがうまいに違いないと高原は心が弾む。
込み合う階段を下りながら高原はビールが無くなっていることをふと思い出した。
クラフトビールでも買っていくか、と思いつつ改札をくぐる。
隣接されているスーパーでめずらしいお酒をちらと見る。
ピーマンの肉詰めに合うものだと口当たりの軽いピルスナー系か。
いつもそんな小難しいことを考えるが、結局はジャケ買いしてしまうので知識が溜まっていかない。
飲んでしまえばおいしいからいいのだ。
適当にジャケットが気に入ったクラフトビール二本を手に取ってレジに向かう。
クレジットカードで会計を済ます。いいアイディアを考えた後のご褒美なので会社の経費扱いにしてしまおう。
そんな邪なことを考えながら自転車置き場へ。
ミニベロの6段ギアの愛車にまたがり、まだまだ暑い夏の夜を人混みをすり抜けるように漕ぎ出した。
築6年の小さいながらも一軒家に到着したのは20時半前。
どこの家庭でも立ち上がる同居問題は、仕事の関係もあり、物理的にも精神的にも近くなりすぎるので双方からやめよう、ということであっさりと解決した。
そこで子供が生まれるまでは賃貸マンションで暮らしていたが、長女のさらが産まれるにあたって新居をということで思い切って戸建て購入した。
その頃はまだサラリーマンだったので審査はあっさりと通過し、高原は同僚との飲み会で一城の主になったとうそぶいたものだ。たったの1年後、一国まで譲り受けるとまでは考えが及ばなかったが。
「ただいま~」
高原は靴を脱ぎながら二階から聞こえる声に向けて声をかける。
ドタドタと騒音をまき散らしながら子供たちが勢いよく階段を下りてくる。
「お帰り~!!!」
かわいい二つの笑顔いっぱいの顔が迫ってくる。
6歳の長女さら
3歳の長男ゆう
ゆうのほうは手すりにつかまりながらなので若干遅い。
その時間差を生かしてさらが体当たりのように胸に飛び込んでくる。
高原の胸まで伸長が無いので右足なのだが、胸に飛び込むというイメージだ。
遅れてゆうも飛びついてきた。
暑い中帰ってきた汗まみれの身体で、このお迎えは色々ときついが、高原はその気持ちが嬉しいのでそのままハグをする。
「ただいま」
再度声に出して子供たちの高い体温を感じる。
「さ、上に行こう。お父さんおなかペコペコだ」
「うん!」
「早く上がってきてね!」
子供達は口々に言葉を発しつつ階段を上がっていく。
一階にある洗面所に向かい、手を洗い、うがいをし汚れた衣服を脱ぎ、新しい部屋着に着替える。
仕事道具は洗面所の隣の書斎にまずは置いておく。
子供が寝たら再度資料をチェックをすることとする。
準備ができたら上階へ。
「ただいま。今日の暑さはこたえるな。子供たちは今日どうだった?」
高原は冷蔵庫に買ってきたクラフトビールの1本を入れつつ、残りの一本のタブを引き上げ、心地よいプシュッという音を聞きながら尋ねた。
身重の奈緒が料理を温めなおしてくれている。
「おかえりなさい。さらは今度のピアノ発表会の練習が思ったより進んでないってピアノの先生から言われちゃった。連弾の練習も始めなくちゃいけないって言ってもいたわ。あなた練習してる?ゆうはいつも通り保育園で無双しているようだわ」
「さらはピアノの練習そんなにしてないもんな。連弾ね。やらないとな。」
「そうよ。早く先生と私を安心させてよ。」
「お、おう。で、ゆうはなんか問題をおこしてるの?」
「問題ってことは無いんだけど、リーダーみたいでみんながゆう君ゆう君ってなってるみたいよ。今日は水遊びしてて水鉄砲で全員を打ってたみたいで。」
「あちゃ~。嫌がる子もいただろうに。」
「先生からはみんな楽しそうだったから、って。」
「それならいいけど。赤ちゃんに関しては?」
「問題ないわ。順調順調!」
そんな一日の情報を共有しながら子供たちを見る。
さらを中心にプラレールを楽しそうに組み立ている。
問題は組み立てるそばからゆうが崩していることくらいか。
妻の奈緒とは大学からの付き合いだ。
肩まで伸びた髪をシュシュでまとめ、大きな目をした笑顔が素敵な女性だ。
伸長も160㎝代でスラッとした体格をしている。妊娠に伴って少しふっくらとしているが好ましいと高原は思っていた。
高原は大学在学中、海外の進んだ学問も学びたいと長期留学プログラムでアメリカに1年留学をした。
アメリカ留学帰りの異常に高くなったプライドと鼻もちならない態度の高原に対して、歯に絹着せない物言いで態度や思考を粉々に打ち砕いたのが奈緒だ。
奈緒はきつい言い方になったと反省しつつも、態度を改めつつあった高原に好感を寄せ付き合うようになった。滋賀からの上京組の奈緒は地元に帰らず、東京で大手飲食会社のバックヤード部門に就職。その時から同棲をし、さらを授かる一年前に結婚した。
キャリアも子育てもあきらめたくない、とキャリアウーマン兼母親業をしている。
3人目の妊娠が発覚したのが4ヶ月前。
二人目の育休明けから一年半ほどで再度の産休予定だ。
現在は時短勤務で働いている。
出来るだけ負担を減らすため早めに高原も帰らなくてはいけないのだが、経営業況をすべて伝えているので奈緒もあまり強く言ってこない。高原は言葉には出さないものの感謝の気持ちでいっぱいだ。
「さら!ピアノの連弾お父さんと一緒に練習しよう!いつからやる?」
「うーん。明日から!」
「じゃあ、毎日から15分一緒に練習しよう。」
「わかった!」
さらは背中の中ほどまで伸ばした黒髪をポニーテールでまとめている。
伸長は一年生としてはまだ小さく105㎝ほど。
母親に似た大きな瞳と愛嬌のある笑顔で学校でも人気者だそう。
誰とでも友だちになれるコミュニケーションスキルを持ち、クラスでは最前線で活躍するフォワード的存在だと聞いた。父親のコミュ障の血を濃く引かなくて良かったと高原は密かに思う。
ピアノ教室に通っており、昨年の奈緒との連弾に味を占め、今年はお父さんと、と先生や友達さらには奈緒のママ友にも伝え、既成事実を作り、複数方向からオファーの嵐を降らせるという荒業に出た。
昔にピアノを習っていた高原もそこまで言うなら、と乗せられ連弾をすることとなった。
戦略性が末恐ろしいが愛しい娘だ。
「ゆうは水遊び面白かったかい?」
「うん!たくさん遊んだ!楽しかった!」
「そうか。友達にいやなことしなかったよな?」
「大丈夫!みんなで遊んだから!」
ゆうはプラレールから目を離さず、こちらに受け答えをする。
3歳にしては103㎝、20㎏弱の大きな体躯を持つ彼は、坊主に近い短い髪でぽっちゃりした顔をほころばせている。腕白、唯我独尊という言葉がぴったりくる大きな元気な、元気すぎる男の子だ。
元気いっぱいで同年代の子供たちでは飽き足らず、年中や年長のお兄さんといつも遊んでいるという。
遊び半分でけんかになった、サッカーで負けそうだったからラフプレーしたといつも傷がたえない。
今も顔に絆創膏を張って勲章かのように撫でている。
高原はそんな幸せいっぱいな家族をいつものように眺めつつ、ピーマンの肉詰めを肴に買ってきたクラフトビールを飲み始める。肉汁とピーマンの苦みが口の中に広がり、そこにさわやかなビールが鼻に抜ける。
最高にうまい。
ビールを飲む速度が上がる。
その時、鈍い頭痛が頭に走った。
「うっ」
「どうしたの?」
奈緒が心配したのか声をかけた。
「なんか、ちょっと頭痛がしただけ。今日は暑い外と涼しい室内を行ったり来たりしたかもしれない。」
「えー、大丈夫?」
「ちょっと酒飲んじゃったけど頭痛薬を飲んでみるよ。どこにあったっけ?」
「下の書斎横の棚に救急箱があるはずだから取ってこようか?」
「いや、いいよ。自分で行くから。」
増していく頭痛を感じつつ奈緒に言う。
妊婦に取りに行ってもらうより自分が言った方が早いし気持ちが楽だ。
高原は椅子から立ち上がり階下に向かおうとするが想像以上にめまいがする。少しふらつく姿を見た奈緒に大丈夫と手を振りつつ、階段に向かう。
階段の最上段でめまいがひどくなり、視界がかすむ。
頭の中で閃光が走ったかのように、鋭利な痛みが頭部に走る。
背後で声か叫びかわからない音が聞こえるが理解できない。
高原はそのまま深い深い闇にとろけるように落ちていった。