0-1 熱風の午後と、とんかつと、番頭と
「あっつ」
ギラギラと太陽が照りつける7月の午前中、冷房が効きすぎた銀行から高原 壮真は外に出た。
近頃、暑くなる時期が加速して梅雨明けが異常に早くなっている。
四菱銀行 吉祥寺支店から、事務所に戻ろうか昼食を食べてから戻ろうか、と少し迷ったが、一度冷えた事務所に入ると外に出る気が起こらなくなる、と考え早めの昼食を取ることにした。
昼食は素早く、かつうまいを信条としており、行きつけにしかほぼ寄らない。
今日も駅北口の大型家電量販店の脇にあるトンカツ屋に出向くこととした。
表通りから一本入った路地に昔ながらの雑居ビルの一階にある。カウンターだけの質素な作りの店だ。
銀行からも歩いて5分弱。暑くて倒れることもないだろう。
いつもはこの時間でも2、3人は店の外で列を作っているのだが、今日はラッキーなことに待っている列はなかった。待っている客がいても回転が速いこの店ではすぐに入れるのだが。
「とんかつ?」
店に入るとまっさらな調理服を着たいかにも職人という親父がこちらを向くこともなく聞いてくる。
この店はとんかつかヒレカツしかないので入るとすぐに「とんかつ?」と聞かれる。
常連組は難なくこなすが、初回は面食らった。
「とんかつで」
といいカウンターの空いている席に腰を下ろす。
すぐにおばちゃんが冷えたお茶を持ってきてくれる。
体の火照りが香ばしい麦茶で冷やされる。
若い女子ウケする要素がひとかけらもない昭和のど真ん中にタイムスリップしたような店だ。
中年のサラリーマンたちが黙々ととんかつを食べている。店内は咀嚼音と調理音しかしない。
そこがいい。
高原は分厚く切った豚肉を揚げる様子を見つつ、先ほどの銀行でのやり取りを思い出していた。
両親が1984年に始めた書店は高度経済成長の好景気と、バブル景気の飛沫である紙メディアの発展でそれはそれは儲かったらしい。書籍を買った後でゆっくりと珈琲が飲めるカフェも併設した店舗出店をすることで地域では1番の書店兼カフェになったそうだ。
そこからしばらく父は飲食業などにも手を伸ばし、国分寺では知らない人がないほどの隆盛を誇ったと母からは聞かされてる。
しかし、2000年代に入り紙媒体からデジタルメディアに徐々に、しかし確実に世の中の重心が移っていった。また、若者の本離れもあって急速に書店事業の規模は縮小した。
親父はまだ飲食店があるからと気を張っていたが、大型チェーン店の進出と個性あふれる個人店、最後には駅ビル併設のレストランストリートができるにあたり完全にノックアウトされた。
時代の流れと共に業績の悪化が進むのと、ストレスのためか親父の体の調子が悪くなったのが同時だった。
それはそうだろう。右肩下がりの業績は見ているだけでストレスが増す、健康には最悪の処方箋だ。
高原が27歳の事業引き継ぎの時に残っていたのは、東京の城西エリアに書店と寂れたカフェが併設された約100坪の店舗が二つと、なんともし寂しい経営資源を持った会社だった。
高原は大学の情報処理学科で学び、中堅広告代理店で4年を過ごしたごくごく普通のサラリーマンだった。
父親の事業を潰してしまうことは簡単だったが、親父の連名で銀行から借入した金は1億4000万円を超えており、体調がすぐれない親父に自己破産を勧めるのが躊躇われた。
また、情報処理学部で学んだことを活かせば事業の立て直しもなんとかなるんじゃないか、新しい波に載せられるんじゃないか、と若い自惚れも手伝って会社の継続を引き受けた。
「とんかつお待ち」
その時、親父が山盛りのキャベツと共にトンカツをカウンターの奥から渡してきた。
少し赤味を残した、うまそうな揚げかただ。ソースをかけて肉片を口に運ぶ。
豚肉独特の甘い脂肪が口の中でとろける。そのサラッとした油をしじみ汁で流し込む。
うまい。
会社経営で最初にぶち当たったのが、経営数字。
専門的な用語が税理士から飛び出し、なにを言っているのかわからなかった。
買掛?売掛?粗利益率?経常利益?自己資産高?従業員生産性?
本を読んで概念を理解したが、ある程度理解が進んだのは経営2年目の借入金リスケジュールの際だ。
思い出したくないほどの資料提出を銀行側から要求された。
慣れない数字と苦手な書類仕事で銀行の中堅社員との毎週のミーティングが苦痛でしょうがなかった。
悪戦苦闘の3ヶ月を経て信用保証協会を入れてやっとリスケジューリングができたのだった。
ひよっこ経営者が一息つけた3年目。
店舗の数字は徐々に下がってきているが、なんとか数年は耐えられると判断し、長年眠らせてきたシステム開発に取り掛かった。
書籍販売店ならではの知見からだ。
日本の書店は雑誌の売り上げの支えられてきた。
書籍と違って毎週、毎月定期的に購入が見込まれる。
また、雑誌はページ内に広告をふんだんに使っている。
雑誌自体の販売利益以外から収益が見込まれているので、書籍販売店としては安く仕入れられ一冊あたりの利益が高い。
しかし、だ。
雑誌が売れなくなった。しかも急速に売れなくなった。
それは、新しいテクノロジー、インターネットによって情報を紙媒体に載せなくて良くなったからだ。
いちばんの稼ぎ頭が売れなくなり、全国の書店が潰れ始めた。
そうなると書籍を売らないといけなくなる。
書籍の利益は雑誌の約半分。
つまり雑誌の2倍以上を売らないといけない。
そこで書籍を片っ端から読み漁り、独自視点のPOPを作った。
予算がないので手書きで、手作り感満載のひねくれた感想文といったところだ。
それが顧客に受けた。
SNSにも掲載してくれるほどPOPを楽しみにしてくれる客もいて、映画評論家ならぬ書籍レビュー屋さんになった。
そこで高原が考えたのがレビューとアフィリエイトを組み合わせた宣伝販売システムだ。
ユーザーがレビューを書き書籍のリンクを貼る。電子書籍をレビュー経由で購入すると、レビューライターに利益が還元されるという仕組みだ。
システムはかじっていたがそこまで専門知識は無い。
そこで高校時代にクラスが一緒だった自称エンジニアに構築を依頼した。
見積もりを依頼したシステム制作会社の3分の1という破格の値段で、半年間かけシステム構築を行いリリースした。
元々の高原のレビューファンがいたこともあり初月から約100万円の利益を上げることができた。
アフィリエイト収益なので純利益となる。仕入れコストがかからないネットビジネスの旨みに高原は衝撃を受けた。
「純利で100万?そりゃすごい!上場のスタートだ!」と社内幹部に説明をしたが額に驚きはするものの既存の商売とは全く違う方法なので古参社員からは胡散臭い、法律的に大丈夫なのかという声も上がり、興奮に水を差された気がしたものだ。
そんな社内の不調和音で歩みを止めるような高原ではない。
これからはネットシステムの時代だと確信し、機能追加のため融資のお願いに銀行を回る日々を過ごしていた。
キャベツとしじみ汁をおかわりし、とんかつを完食した。
冷たい麦茶で口をさっぱりさせた後、今の時代、現金のみという古風な会計をして店を出る。
太陽は中天に移動してじりじりと身体を焦がす。
できるだけ日陰を歩きながら事務所へと向かう。
他の地域の商店街はシャッター街とかしているというが吉祥寺の商店街は元気だ。
涼しい巨大なアーケードの下を歩いている人も多く街自体が賑わっている。
5分ほど歩き自社が入っている雑居ビルの3階に手狭なエレベーターで上がる。
何階かで引越し作業をしているのかビニールが貼られている。
冷房の風にビニールがカサカサと音を立てている。
エレベーターが開き、吸い込まれるように事務所に入る。
「お帰りなさい。外は暑かったですか?」
受付の電話を横目で見つつ奥に進むと、IKEAで買い揃えたシンプルなデスクから顔をひょいとあげ時田しおりが声をかけてくる。商品の手配や事務作業を一手に手がけている裏方のエースだ。
「暑いなんてもんじゃ無いな。ランチに行く時は気をつけていってくれよ」
簡単な受け答えをして席に着く。
フリーアドレスで社長だからといって専用に椅子やデスクはない。
途中のコンビニで買ったアイスコーヒーを手に役員の佐藤拓哉に声をかける。
父親の時代から新規事業を任されてきた53歳の大番頭だ。
新規事業を任されてきた経験からか、今回のデジタルレビュー販売システムの構築には賛成に回ってくれ社内の調整をしてくれた。
「ちょっと時間ありますか?銀行さんからの意向を共有したくって」
「ええ、いいですよ。すぐですか?」
「できれば」
「わかりました。会議室でしましょうか」
パソコンから顔を上げ、パソコンを持って会議室に向かう。
細身の黒いポロシャツと軽い生地のスラックスを履いた佐藤を後ろから見ながら歩く。
あまりにも暑いためスーツ、ネクタイの着用を禁止したのは2年前だ。
すぐに定着するかと思ったがネクタイを佐藤が最後までしめていたが今年は諦めたらしい。
「銀行からはリスケジュールしたばかりだから追加資金の融資は難しい、といってきた。
実績ベースで売上が上がっているのは認めるがそれほど急がなくってもいいのでは?とさ。」
「担当は岩崎さんですか?」
「いや、新しく入った担当さんだったよ。若いからまだ融通が効かないらしい」
「そうですか。銀行的には資金回収の目処を立てる方が重要でしょうからね。」
3年前にリスケジュール、借入金の支払いの延期をしたために銀行からの信頼は落ちている。
そこで銀行は売上が下がっている事業の生産性を高めて黒字幅を増やしつつ、先行投資がそれほど必要のない今のレビュー販売システムの利益化を進めた方がいいと考えているのではないか。
「斜陽産業ど真ん中の書店販売店なんか、現状維持じゃあなんともならないじゃないか。」
新しい事業開発ではなく既存事業の補填としか考えていない態度は高原を憤慨させている。
佐藤に言ってもしょうがない愚痴がこぼれる。
「それで、どうしましょうか?」
「現状システムで売上を出せるだけ出していくしかないと思う。実績ができれば別の銀行も振り向いてくれるかもしれないし。」
言ってみたが多分売上を上げてもダメだろう。
銀行は横のつながりが非常に強く、うちの財務状況などあっという間に伝わってしまう。
B/S、P/Lを見ればある程度の状況はわかってしまう財務の専門家たちも控えている。
「システム開発コストと開発者の人件費、諸経費を合わせると利益率が高いと言っても赤字状態ですからね。今後売上を伸ばす方策は見つかりましたか?」
「まだだな。」
全てのコストを考えると売上が毎月170万必要になる。損益分岐点だ。
100万の売上で喜んでいたがまだまだ道は遠いということだ。
書籍レビュー販売システムの更なる売上拡大が喫緊の重要課題だがアイディアはあるがシステムのアップグレードが必要になる。
露出が増えきているため、大手にシステムをコピーされるのは時間の問題だろう。
その前に新機能を実装して利用者を離さないようにしたいが開発資金がない。
そこで素晴らしいアイディアで、かつコストがかからない方法を考えるのが目下高原の仕事だ。
「右を見ながら、左を見ろというようなものだ。どうしろというんだ」と一人ごちる。
「書籍の販売に関しては私は専門家ですが、システム開発は門外漢です。社長が頑張っていただくしかありません。」
任せてくれ、といって状況報告は終わった。
佐藤が少し心配そうに見ているが空元気でいくしかない。
父親の代から勤めているだけあって、高原を甥っ子のように見ている節がある。
出来の悪い年の離れた弟かもしれない。
事務作業もあるが佐藤と話したことで、新しい売上増加施策のネタ探しが最重要項目とあらためて認識してしまった。デスクに戻ってみても経理や数値確認にも集中力が続かない。
暑いが我が社の現場に行ってみるか。
店長の佐々木綾とでも話せば少しはネタが出てくるかもしれない。
「ちょっと国分寺に出てくるよ」
軽く声をかけて事務所の扉を開ける。
手狭なエレベーターに入ると、先ほどあった引越し用のビニールがなくなっていた。
どんな会社が引っ越してきたのかな、と再度思いつつエレベーター内の各階ネームプレートを見ると、6階のプレートが空欄になっていた。今度尋ねてみようか、と絶対にやらないことを考えていた。
銀行から来た道を逆に駅に向かって歩く。
午後3時過ぎた太陽はまだまだ衰えを知らないようだ。
夜までしっかりと暑さを残してくれるなんていけすかない奴だ。