若い感性を失っても、創作を続ける権利はある 〜作品は残した者勝ち〜
皆様今晩は! シサマという者です。
私がこの『小説家になろう』サイトに来て創作活動を始めて、はや5年と3ヶ月が経過。
昨年から小説の執筆ペースが低下しているものの、インスピレーションを短時間で形に出来る詩やエッセイの投稿で創作意欲を維持してきました。
しかしながら私は、こんな内なる葛藤や苦労話がサマになる程の知名度や人気はない作家です。
私の作品に目を通して下さった方なら分かるとは思いますが、私の作品はこの『小説家になろう』サイトのメインストリームからは大きく外れています。
かつてのハイファンタジー全盛期や、現在の異世界恋愛隆盛のサイトに於いて、いわゆるランキングで戦える作品ではないでしょう。
とは言うものの、私は意識してそういったジャンルを避けてきた訳ではありませんし、流行りに対する嫌悪感や反骨心がある訳でもありません。
その証拠として、私の作品の中には公募を宣言して執筆したハイファンタジー作品や、ジャンルこそヒューマンドラマながら異世界の王族階級を扱った恋愛ものなどもあります。
結果として、ハイファンタジー作品は異世界転生・転移ランキング入りを果たしましたし、ヒューマンドラマの異世界王族恋愛作品は日間ランキング第2位を記録し、私の短編小説としては多数のポイントとPVを得る事が出来ました。
ただ私は、多少評価されたからと言って、似た傾向の作品を続けて書きたいとは思いません。
また、競合相手の多いジャンルであればあるほど見切り発車はしたくないというか、評価されなくても自分自身が書いて納得出来るアイディアが浮かばない限り、執筆したいとは思わない……という結論なのです。
……さて、そんな私から見ても現在の『小説家になろう』サイトは、確かに異世界恋愛一強だと言わざるを得ません。
しかし私個人としては、ひと昔に隆盛を誇ったハイファンタジー系の「ざまぁ作品」に比べると、異世界恋愛の作品の方がまだ共感出来るというか、創作者としてのスタンスに近いものがあるのかなと感じ、特に苛立ちや抵抗は感じませんね。
端的にまとめると、現在のランキングで圧倒的な力を持つ異世界恋愛の短編は、その順位とは裏腹に商業化に於けるポテンシャルは低いという事。
これはすなわち、読者のニーズや時代、トレンドを睨みながらプロを目指して活動する作家が、シンプルな趣味や承認欲求の喜びを糧に活動するアマチュア作家に、ランキングで負け続けているという現実です。
異世界恋愛作品はダイジェスト的な短編が多いものの、いわゆる「短編詐欺」の様な未完結作品は少ないですし、そもそも物語のスケールを広げて大河ドラマ化しようとする意欲は控えめで、書籍化を第一目標にしている作者や作品は少ない様に感じられる点が、これまで通用したランキングの価値観を揺さぶっていますね。
また、ハイファンタジー全盛期にはそのトレンドを批判する動きがあると噛みついていた人の一部が、異世界恋愛全盛は堂々と批判する姿が見られます。
これは自分好みの作品を読みたいユーザー、なりふり構わずプロ作家になりたいユーザーの本音として、ビジネス的には無視してはいけない視点なのかも知れませんが、焦りから来る人間としての弱さや脆さの正当化であり、サイトの運営側にはむしろ煙たがられる動きでしょう。
「結局、これがWeb小説サイトユーザーの正体なんだな」とは、思われなくないものです。
『小説家になろう』サイトは、決して『プロのラノベ作家になろう』サイトという存在と同義ではありません。
ラノベの読者層やコミカライズ、アニメ化まで意識したマーケティングとは重複しない、主婦や働く女性層に無意識にフォーカスしてしまう作品にだって存在意義があるんですよ。
それはラノベ読者層予備軍とも言える、中高生や20歳前後の男性向けの感性を持って書かれたものではないだけに、すぐにビジネスやお金を生み出すものではないかも知れませんが、サイトを支えている現実には変わりありません。
事実、公募ではファンタジー系作品も相変わらず複数が書籍化しており、出版社もランキングの上澄みから作品をチョイスする、惰性と疑われる様な仕事がなくなった事を評価したいですね。
つまり現在の『小説家になろう』サイトは、全盛期ほどの影響力は持っていないかも知れませんが、アニメ化作品の多さも含めて、業界が頼らずにはいられない本物の底力を見せていると感じます。
一大勢力である「異世界恋愛」ジャンルの大半が純粋なアマチュア主義で分厚い層を作り、その下にマーケティングを意識したプロ志望の作品群が埋まっているのですから、出版社の視点からも、良い意味でランキング信仰は破壊されました。
プロ志向もランキング欲もなくなった私としては、これからがむしろ楽しみです。
ちなみに、本エッセイのタイトルにもある「若い感性」。
現在私も50歳となり、30歳くらいからラノベやアニメ、漫画から久しく離れておりました。
幸いにしてフリーター兼ミュージシャン時代を乗り越え、低収入ではありつつも40歳から正社員に定着。
家族や近隣との関係も悪くないため、取りあえず今は「貧乏で冴えないけど、そんなに不幸じゃない日本のおじさん」に成長します(笑)。
しかしながらその代償として、ラノベのキャラクターの様な恐れ知らずの若い感性は失ってしまいました。
つまり、「ざまぁ作品」を書こうとしても、どうしても主人公自身の弱さや、悪役が悪に染まった背景などを書かずにはいられないんですよね。
ちょっとした幸運を機に他責思考をやめて、人生が改善したので、無責任な若さなら取り戻したくない……それが本音です。
ただ、そんな私も若い頃は自分は全てに於いて間違っていないと信じていましたし、嫌いな相手に対しては向こうが100%悪いと思っていました。
ですから、若い読者が求めるラノベに、おじさんの感性は不要なのです。
若い人がおじさんになれば自然に感性は変わりますし、おじさんになっても若い感性を持ったままの人は、それこそラノベ作家に向いていると思います。
こんな事を考える私ですので、この『小説家になろう』サイトでポイントもPVもつかない作品を、自己満足と少数のユーザーとの交流のためだけに書いていていいのか……と迷った時期もあります。
そんな私の迷いを払拭したのは、意外にも1本のアニメ映画、『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』でした。
とある休日にひとりカラオケを楽しんでいると、カラオケ内の番組で映画『ククルス・ドアンの島』の予告編が流れ、ドアン役の声優、武内駿輔さんのトークやモノマネの上手さに、すっかり魅せられてしまった私。
元来ファーストガンダムは好きで、『ククルス・ドアンの島』は大好きなエピソードだったため、地元での公開時、久しぶりに映画館に行ったのです。
ジブリ映画すら殆ど観ない私としては、アニメ映画を映画館で観るのは『ガンダムF91』以来だったかも知れません(笑)。
ファーストガンダムにF91、一番好きなアニメ映画は『クラッシャージョウ』……。
私としては、尖った富野さんのガンダムよりも、昭和臭と安心感が漂う安彦良和さんのキャラクターが好きなんでしょうね。
さて、久しぶりのアニメ映画鑑賞ですが、ファーストガンダムとは少々異なる『ククルス・ドアンの島』に、初めは多少の違和感や不満を抱いた事を伝えなければいけません。
しかしながら、徐々におじさんの経験値や洞察力で脳内補完が進み、ラストシーンで森口博子さんの歌声が聴こえてきた瞬間、およそ40年間の記憶と人生が蘇って泣きそうになりました。
『ククルス・ドアンの島』は、元来30分のエピソードを劇場用に100分にまで拡大しています。
しかし、拡大した部分はドアンの過去や戦略、モビルスーツの見せ場といった、いわゆるガンダムファンが望む部分ではなく、アムロとドアン、そして島の子ども達との交流にあてられています。
そのため、ガンダム映画としてはイマイチ緊張感に欠け、子ども達や自然の描写に「ジブリ感」とでも形容出来る違和感がありました。
ただ、当時すでに80歳近かった安彦良和監督のラストメッセージとして、大人が子どもの幸せのために頑張るというコンセプトを、少子化が進む日本に残したいと考えるのはごく真っ当であると、おじさんになった私は理解します。
そして、この作品の展開に不満を持つのもいい歳の大人ばかりである事が想定出来、アニメに大人ばかりがしゃしゃり出てくる様になった日本に、何かを伝えたかったのだろうと理解します。
ガンダムファンは大半がおじさんの年齢でありながら若く尖った感性を持っており、悪く言えば40年前から成長していない人もいると思います(笑)。
そんな中、敢えてラストシーンだけはファーストガンダムと同じにした選択は、ネットやSNSで自由と権利を逆に持て余している現代人に、選択の余地がない昭和式のラストから、もう一度日本と個人が這い上がって欲しい……というメッセージを届けたかったのだと推測しました。
私の脳内でしっかり補完された『ククルス・ドアンの島』は、今ではDVDを買う程にお気に入りの映画になりました。
しかしながら、これは私が若く尖った感性を失い、社会に生きるおじさんとなったから得られた感情なのです。
若い人から評価される作品が書けたら最高だが、書けなければそれでもいい。
おじさんになってしまったら、下の世代を労るメッセージを残せばいい。
今の若い人がおじさんになった頃、いつの日にか評価される可能性を信じて作品を書けばいい。
作品は残した者勝ち。
長く創作を続けていけば更に勝ち。
サイトに残した作品が、自分という人間そのものでありたい。
おじさん臭さが取れないんだけど(笑)。