黒塗りの雑音
細い腕が貫通した胸と、困惑を貼り付けたまま急速に生気を無くしていくマイ。
詠唱すらなく鈴野が変身を完了し、後ろの敵へと殴りかかるのに一呼吸の間すら必要なかった。
「おぉ~と、危ない危ないっ。死んじゃうよぉ、そんな乱暴なお触りはぁ!!」
だが鈴野の拳が直撃しながらも、その手に引き裂いた肉の感触はなく。
支えを失い落ちていくマイを抱き留めた鈴野の耳に届くのは、上擦った興奮と歓喜に満たされた、この上なく不快な嘲笑であった。
「マイ。……待ってろ」
意識はなく、口から血を零しながら力なく横たわるマイ。
鈴野は赤く染まった服を裂き、穴の空いた胸に手を触れて意識を研ぎ澄ませていく。
「どうだい魔法少女ベルぅ!? いんや鈴野姫ぇ!! 大事なもんを一つ奪われた気分ってのはさァ!?!?」
治癒を進める鈴野の前に音も無く、まるで最初から立っていたかのように現れた彼女。
三日月口で笑うそいつは、傷んでぼさぼさになった黒髪に魚の光のない瞳。
そして真っ赤に染まった細い手には、どくんどくんと微弱に脈打つ小さな臓器が握られていた。
「無駄無駄無駄無駄ぁ!! 魔法少女ならともかくそいつは持たざる者なんだろぅ!? 希望に縋る間もなく即死さぁ!! ははハはッ!!!」
黒髪の魔法少女は赤黒い臓器を落とし、ひたすらに足で磨り潰しながら嗤い続ける。
喉を潰しながら発されるそれはまさに狂気。狂った人間を超え、最早人を止めた獣の咆哮とすら思えてしまう嘲笑。
だが鈴野は、そんな魔法少女を一瞥すらすることはなく。
何故自分の名前を知っているとか、どうやって不意打ちしたのかとか。山ほどあるはずの疑問すら訊くことすらせず。
ただ真っ直ぐに、急速に死へ近づこうと……いや、既に手遅れかもしれない友人へと注力していた。
「これで一人ぃ。私の献上品を奪ったお前のぉ……大事なものが、一つぅ……ああァ?? 」
据わった目で、汚い声で勝ち誇っていた黒髪の魔法少女。
だが段々とその表情は曇り始め、強く噛み締め、全身を震えさせながら怒りと困惑を滲ませる。
塞がれた穴。弱々しくも確かに発される鼓動、そして呼吸。
死同然であったはずの人間の、事実上の蘇生という奇跡を前に、黒髪の魔法少女は先ほどまでの余裕を捨てて声を荒げてしまう。
「……ふう。ひとまずはこれで。後遺症なんてなきゃいいが……」
「あり、あり得ないッ!! な、な、なんで治せるッ!? 常軌を逸しているッ!! 他人の臓器の再生なんて、治癒魔法の領分を明らかに超えているだろっ!? ましてやそいつは魔法少女でもないのに……!!」
「……ああ、これは私が特別なせいだよ。生きたいって本能のせいで出来るようになっちまった、ってのが正しいんだがな」
どうにか一命は取りとめ、眠るマイへ優しく安堵の笑みを浮かべる鈴野。
淡々と、何一つ思いの込められていない平らな声で自虐を紡ぎながら、ゆっくりと立ちあがる。
怒りも喜びも悲しみも失せた表情は、例えるのであれば能面のよう。
鈴野に懐く結月ですら声を失うであろうその表情に、黒髪の魔法少女の全てが総毛立ち、無意識に一歩後ろへと退いてしまう。
「……なあお前。正体とかどうでも良いんだけど、一つだけ聞かせろよ。どうしてこいつに手を出した?」
「ひひっ、ひひひひっ! 愚問だね! お前が私の計画を、あの人への貢ぎ物を台無しにしたからじゃないか!」
鈴野の不自然なほど静かに問いに、黒髪の魔法少女は人差し指を向け吠える。
「あの人は言ったのさ、大量の魔力が必要だって!! だから集めた!! あと一つ!! 襲撃さえ成功していれば、きっとあの人に、レイドッグ様に恩を返せるほどの魔力が貯まるって!! また見つけてもらえるって!!」
「……ああ?」
レイドッグと。
その名前が出てきた瞬間、鈴野の脳裏に浮かんだのは紅髪の魔法少女。
キザな探偵服を着こなし、生意気にもパイプを咥えた犬耳の女。ある魔法少女の代わりに鈴野に常識と礼儀と仁義を叩き込んだ恩人の一人。
そして今、魔法少女エターナルが憂う、堕ちてしまったかもしれないその女の名に、鈴野の頭の中にあった点が一本の線で繋がれてしまう。
「……合点がいった。お前があの野良犬共の親玉、魔法少女マンボウなんだな。由来はなんかの花言葉……だったか?」
「マンボウぅ? マンボウなんてアホみたいな名前の花があるかよ間抜けッ!! 誰よりも弱く、何よりも生きにくい魚ッ!! あの人以外には見つけてすらもらえなかった魔法少女ッ!! そんな哀れで無能で、だからこそ見つけてもらえた女こそが私さッ!!」
黒髪の魔法少女──マンボウは鈴野の言葉を否定しながら、声高らかに自らの名を響き渡らせる。
鈴野はそれをただ聞き、脳内でその名を反芻していく。
こいつがアンダードッグのボス、魔法少女マンボウ。ここ最近の厄介種の根本、あいつへの手がかりと。
「まあいいや。お前を倒せばくだらねえいざこざは終わり、レイドッグにも辿り着けるんだろ?」
「倒せばァ!? 甘いだろその考えはッ!! 驕るのも大概にしなっての!? 私みたいな愚鈍が、敗ける気で目の前の出てくるわけねえだろうがッ!!」
怒声を発しながらも、たちまちマンボウの姿が消えていく。
姿だけではない。影や気配、魔力までもがまるで最初から無かったかのように消失したのだ。
「……鐘衝」
取り乱すことなくその場で手を叩き、強く大きな音を響かせる鈴野。
鐘音が響き、空気を伝う震動が全方位へと奔り、いつぞやの夜のように魔法少女を揺らす──。
「……なるほどな」
『無駄なんだよォ!! お前の魔法はあの会場で視ていたし経験したんだッ!! 外と内の両方を魔力で保護していれば対策は容易なんだよォ!!』
喜悦の語りと共に、突如として桜髪の魔法少女の頬を撫でる冷たい感触。
その接触を知覚した瞬間に顔を逸らした鈴野は、傷ついた頬を癒やしながら手応えの無さに納得する。
『加えて私の隠蔽は絶対に破られないッ!! 見つけられるのはあの人だけッ!! お前が如何に圧倒的強くともッ!! 私はお前が力尽きるまで切り刻んで地獄を見せぐぼッ──!!!」
勝利を目の前にした、マンボウの言葉が最後まで続くことはなかった。
振るわれた裏拳は無いはずの空気の壁を叩き、直後に背後の売店のガラスが粉々に粉砕させ、店内を爆発でもしたかのように荒らした。
「けほっ、けほっ、なに、何で……魔力の色すら隠し切る、私の隠蔽を見破れるはずが……」
「見えないなんて関係ない。音の波は的確にお前の存在を炙り出す。かくれんぼには足りねえんだよ、何もかもが」
品物を潰してひしゃげた店棚からずり落ち、血反吐を吐きながら姿を現わしたマンボウ。
そんな彼女へと歩きながら迫り、変わらず喜怒哀楽のない顔で膝を突くマンボウの前へと辿り着く。
「さて、どうしてやろうか。とはいっても、やることなんて一つなんだが」
「……くっ!!』
無情表に見下ろす鈴野に、怯えを顔に貼り付けながら再度己を消すマンボウ。
再び完全に消失した魔法少女。鈴野は小さくため息を吐いて右腕を空へと伸ばし、何もないはずの場所を鷲掴んだ。
『あっ……ああっ?? ぎぐッ!?!?』
「衝撃にしてもそうだ。ただの音波ならともかく、私が魔力を強めれば有象無象の魔力保護なんて貫ける。……まさか逃げられると、本気で思ったのか?」
響く悲鳴。木霊する絶叫。凡そ人が発するべきではない、喉も潰れる苦痛の結晶のような音。
手を叩くことも拳を打ち合わせることもなく、魔力のみで鈴野が流した衝撃の波。
それはマンボウの全身を余さず揺らし、外も内も関係なく、その一切を壊して壊して壊し尽くす。
「……さて」
「えぐっ、うぐっ……」
最早姿を消すことも、饒舌であった口で煽ることも出来ずに嗚咽を零すマンボウ。
目から、鼻から、口から、傷口から、股から。
色も臭いも違えど漏れ流された様々な液体に、コンビニであった場所へと倒れ伏して床を汚されていく。
「私の正体を知っている。私に連なる人間も知っている。……血生臭い世界とは無縁だった、私の友達に手を掛けた。それを許せるわけがない、許容出来るわけがない」
「ごほっ、ぇふッ、んはぁ……」
「分かってる。分かってるんだ。これは私の落ち度、私が招いた失態だって。……だからこそ、私がけじめをつけないとな」
自虐の言葉をひたすらに零しながら、鈴野は呻く黒髪の魔法少女の側にしゃがむ。
そして倒れる魔法少女へ手を翳し、淡い桜色の光を数秒ほど灯して包み込む。
時間にして十秒ほど。だがその最中に黒髪の魔法少女の嗚咽は止み、咆哮でしかなかったそれは言葉へと戻っていった。
「な、なんで……」
「勘違いするな。訊きたいことがあるからと、これからに必要なことだからだ」
逃げられるのは面倒だと、立ち上がって疑問の声を発した背中を足で踏みつける鈴野。
必死に藻掻くも僅かにも動けないマンボウへ、吹雪のように冷たく鋭い視線を送りながら。
「レイドッグとの関係は何だ。私のことを、どうやって嗅ぎつけた」
「誰が、お前なんぞに……うぐっ!!」
「黙りを貫くなら好きにしな。ここには弟子もいないんだ。見せられないものと、遠慮する必要なんてないからな」
背骨を砕いて心臓を破裂させ、絶叫を吐き出させてから治し、再び砕いて裂いては治す。
その繰り返し。命を取らず、心と体の死を許さず、けれど心を壊しへし折るだけの作業。
快楽も陶酔も幻惑も必要のない、苦痛と零だけの拷問は一人の魔法少女をひたすら苦しめ続け、顔から生気を奪っていった。
「レイドッグとの関係は?」
「……おん、じん。わたしをみつけて、たすけてくれたひと……。まりょくがあれば……また……あのひみたいに、みつけてもらえる……」
「私のことはどう知った? 知っているのはお前だけか?」
「つけた……。わたしのまりょくで……わたしだけで……」
「……そうかよ」
やがて滓のようにか細い声で、絞り出すように零したその答えに足を放す鈴野。
だが動くことも藻掻くことも出来ず、逃げ出そうともしない黒髪の魔法少女。そんな少女を前にしてなお、鈴野の表情は欠片も変化もせずに見下ろすのみだった。
「じゃあもういい。さよならだ」
「ころ、すのか……? はははっ、そうしろよ……。ここでしなないならなんどでも、おまえにふくしゅう……」
「だろうな。ここは鏡界じゃない。お前の貼った結界の中で、世界はお前の骸もこの店の惨状も修正してくれない。お前なんぞのために、何も知らずに奪われた人達が可哀想で仕方ないよ」
だからこうすると、魔法少女マンボウの頭に手を置く鈴野。
そして桜色の魔力は黒へ、墨よりも夜よりも深い漆黒へと切り替わり、マンボウの頭──脳から流れ全身を浸していく。
「な、なんだこれ……!! なにもかも、きえていく……!!」
「黒塗りの雑音は塗り潰しの魔法。記憶も魔力も全部を無という黒で染める。お前はもう、その一切を思い出すこともないだろう」
マンボウの顔が恐怖で歪む。何かを失いながら、何も分からなくなる恐怖に犯されていく。
黒塗りの雑音。その真髄は、名の通りの塗り潰し。
鈴野の真っ黒な魔力で一切を塗り潰し、例え魔力が抜けた後でも修復不可能なほどに染め上げる理不尽な破壊。
だが、これは魔法少女ラブリィベルの力にあらず。
かつて鈴野姫が生きるために治癒の果てに開花させ、後に師である魔法少女に禁止され、今日この日まで使われることのなかった全否定の魔力であった。
「や、やめろっ……!! もうなにもしないから、きおくだけは、あのひととのおもいでだけはっ……!」
「後悔するならやるべきじゃなかったな。そうしなきゃ、私もこれを使わなくて済んだんだ」
「あ、ああぁ……。わたしがきえる、あ、あぁ……」
冷めた口調で命乞いを無視され、そしてついに黒髪の魔法少女は変身が解かれて力尽きる。
悲鳴も嗚咽もない。静かに眠りに落ちた、高校生くらいであろう小さな少女。
もう少女は終わった。自分や恩人の名前、何年かは分からない人生をどう生きたかすらを失った、死よりも辛い永遠の地獄が続くだけ。
まるで安らかに死んでいるようだと。
優しく眠る少女を前に鈴野は小さくため息を吐き、全てを失った女のこれからへ少しだけ同情しながら変身を解いた。
「……馬鹿なやつ。あいつは、かさねはこんな馬鹿してほしかったから、お前を助けたわけじゃないだろうに」
「……どうなってるの? 殺したの?」
「起きたのか。……別に殺しちゃいねえよ、償ってもらわなきゃいけないからな。ただお前がそうしなきゃ晴れないって言うのなら、そうしてやるけども」
よろけながらも立ち上がり、鈴野の下へと向かおうとしていたマイ。
だが途中でふらつき倒れそうになった彼女を、鈴野はすぐに近寄り優しく体を支えながらそう尋ねた。
「……しないわよ。今だって実感なさすぎるし、あれ本当に夢じゃなかったの?」
「どうだか。ただまあお前は起きちまったし、夢だとも偽りきれないな」
「……なにそれ。否定しなさいよ。優しい嘘ってやつを吐けないの?」
結界が解かれたことで来るであろう人を危惧し、そしてこれ以上、マイに自分の胸を抉った女を見せていたくはないと。
マイを足から持ち上げ、お姫様抱っこの恰好で跳躍して駅を去る鈴野。
優しい抱き方と最低限の魔力で保護され、一切の負担のないマイが「どこへ?」と訊けば、鈴野は困ったように苦笑いながら「人のいない所」と答えた。
「貴女嘘つきじゃなかったのね。もしかして、配信中のエピソードってノンフィクションだったの?」
「んーまあ大体は。人名等々はちゃんとフィクションにしてるけどな」
「……驚き。現実って三流小説より陳腐で突拍子もないのね」
「まあな。魔法以外にも宇宙人や精霊なんてものだっている、誰かが願うよりも辺鄙な世界だよ」
一度鏡界へと飛び込み、一つ隣の駅へと辿り着いてから下の世界へと帰る鈴野。
結界も異世界でもない、下の世界の夕方の人溢れる駅側の裏道へと帰還した鈴野は無事にやがて着地し、ゆっくりとマイを地面へと下ろした。
「……めぐりめぐ駅。ちょっと、私逆なんだけど」
「まじ? 悪い悪い。電車代出すからさ」
とんとんと、サンダルを鳴らし具合を確かめながら苦情を零すマイ。
そんな彼女へ慌てて財布を取り出そうとした鈴野に、マイはやれやれと首と手を振りながら「いらないわ」と口にした。
「それで私はどうなるの? この手のお約束通り、記憶でも消されるの?」
「そうしてやってもいいんだがな。私は加減が苦手だから、生まれてから今までの記憶が全部吹っ飛んじまうんだ。それでも構わないか?」
「……お断りね。赤ちゃん未満にはなりたくないもの」
「だよな。私だってそう言うわ」
互いに見つめ合い、そして同時に笑い出す。
側を通る人々の目など気にすることなく、鈴野は腹の底から、マイも堪えきれないくらいには笑い合っていた。
「だからまあ、秘密にしておいてくれ。夢は夢のままでってのが、世界にとっては都合がいいんだ。あんまり暴露されちまうと、本当に口を封じなきゃならなくなっちまう」
「……脅さなくとも言うつもりはないわ。命の恩人の、少ない友人の頼みだし」
「悪い……いや、ありがとうだな。友達になら、そう言った方が気持ちがいいや」
明るく礼を言い、改めてという言葉の代わり手を伸ばす鈴野。
マイはそんな手を握り返し、しばらくの間両者共に強く握り合い、それからマイの方から手を放す。
「……じゃあ」
「ああ、また」
そうしてマイは鈴野に別れを告げ、振り返ることなく駅へと去っていく。
その背を眺めつつ、懐から煙草を取り出そうとして路上なのを思い出してため息を吐いてしまう。
「ぐっばい友人。楽しくやんなよ。もう少しだけ、星への回答は伸ばすからさ」
まるで再会などない最後の挨拶のように呟くと、鈴野の腹の虫が鳴ってしまう。
何ともその場の雰囲気を弁えない、身勝手で主によく似た腹の虫だと笑いつつ。
スイーツでは満たしきれなかった食欲を満たすために、鈴野は駅へと背を向け街中へと消えていった。




