じゃあね
真夏日らしく降り注ぐ陽光と、休日だからか特別人溢れた活気。
そして陽炎すら幻視しそうな炎天下な街の木陰のベンチで、額から汗を滴らせる鈴野は片手で目元を隠し、もう一方をパタパタと扇ぎながらだらしなく座っていた。
「あちぃ……」
時々通りがかる老若男女の視線を感じながら、それでも胸元や広げた足を隠す一つ隠す気にもならず。
退屈であろうとスマホなんて見る気力もなく、風もないまま羞恥心などないおっさんのように蕩けていた鈴野。
そんな見るからに地雷、身体のナンパ目的以外では近づきたくないであろう鈴野へと近づいていく一人の女性が。
「……あの、えっと、ここで待ち合わせしてたりします……?」
「ああ……? ……ああ、意外と生真面目そうだな。まるで真面目なOLだ」
遠慮がちに、歯切れ悪く掛けられた声。
そんな声に鈴野は力なく笑みを浮かべながら、姿勢を正し、「どっこいせ」と立ち上がりつつもその女性を観察していく。
ボーダーのトップスと青スカート着こなし、緑縁の眼鏡をかける利発そうな女。背は中学生の結月よりは大きいもの、成人の平均からは少し低いであろうくらいか。
鈴野をを見上げる、不満そうなしかめっ面だが決して悪くない顔。
これでツンデレ口調の一つでもあれば一部のマニアックの層にはそれはもう刺さるだろうなと、鈴野は内心で思いながらその女性を見下ろす。
「とんでもない身体してるわね。手足が長くて背も大きい、そしてそのおっぱいは
「最初に褒めるのが体かよ。宵闇バットさん……で合ってるかい?」
「……全部が嫌味よね。それに元よ元。絶賛炎上中なVtuber、活動すら危うい魔法少女ベルさん?」
互いに現実味のない名前を呼び合いつつも、両者共に決して否定はせず。
魔法少女ベルと宵闇バット。ほんの一週間前、コラボで大事故を起こしたの中の人達が、睨み合うようにして初めての邂逅を果たした。
「……じゃあ、このエクストラチーズケーキと季節のモンブラン。後はこの当店自慢のコーヒーゼリーを……ああ待って、このティラミスもお願いします。順番は気にしなくて大丈夫ですので」
「かしこまりました。そちらお客様は?」
「あーその……エスプレッソだけで結構です。はい」
小綺麗で、心地好い程度の冷房が効いたカフェの中。
注文を取った後、丁寧な一礼をして去っていく店員の洗練された立ち振る舞いに、鈴野は自分という存在の場違いさに居心地を悪くしながら改めて正面を──目の前に座る、眼鏡の女性へと顔を向けた。
「……何よ。頼まないの?」
「生憎コーヒーだけでお腹も心もいっぱいでね。それに、私ががつがつ食うわけにもいかんだろう」
「……そうね。こんな綺麗なお店にそぐわない下品で暴力的な容姿で、その上食まで汚かったら訴えられても文句は言えないものね」
一の言葉に十の毒。
刺々しさ全開な女に鈴野は苦笑いしつつも軽く頷いて流し、渡されたおしぼりで額や頬の汗を拭いていく。
「……マナー違反よ。こっちが恥ずかしいから、少しは遠慮ってもんをしなさいよ」
「悪い悪い。そうはいってもな。汗びっしょで気持ち悪いから仕方ない」
「……じゃあなんであんな場所で待ってたのよ。最寄りのコンビニにでもいればいいのに、馬鹿じゃないの?」
「なかったんだよ。この街、私が来るには上品すぎるんだもん」
釈明しつつもおしぼりを畳んでテーブルへと戻す鈴野に、眼鏡の女性は「……最悪」と小さく苦言を零す。
「んで、何て呼べばいい? バットでいいなら」
「そうね……佐倉舞、マイでいいわ。もう、それ以外の名前を持ち合わせていないから。それであんたは?」
宵闇バット……否、佐倉舞は皮肉げな笑みを浮かべながら尋ねてくる。
お冷で喉を潤した鈴野は、少し悩みながらも自分の本名を彼女へと告げた。
「鈴野姫……姫野鈴。……ふふっ、そのまんまじゃない。もう少し文字ったりしなさいよ」
「うるせえ。ほっとけっての」
マイの堪えきれないとばかりに吹き出しに、佐倉の鈴野は少し声を大きくしてしまいそうになるも、店員が頼んでいた品の一部を持ってきたので寸前で引っ込める。
「ごゆっくりどうぞ。ところでお客様、そちらのおしぼりの方、お替えいたしますか?」
「あー……すいません、お願いします」
「かしこまりました。お暑いですからね。気になさらず、お申し付けくださいませ」
顔の良い男店員の爽やかスマイルに、へこへこと頭を下げるばかりな鈴野。
そんな鈴野の何かが刺さったのか、マイは口に手を当てながら小さく肩を震わせる。
「あー面白っ。あんた、そんな可愛い一面あったんだ」
「……うるせえ」
「あーおかしい。やっぱり実際に会うと違うわよね、色々と」
愉しげ且つ満足気な雰囲気を醸しながら、置かれたコーヒーゼリーに手を付けるマイ。
口へと入れ、その味へ舌鼓を打つ彼女を眺めながら、鈴野は自分の元に運ばれてきたコーヒーを一口飲み、心地好い苦みを口内へと染み渡らせる。
「うーん美味。一度来てみたかったけど高かったから手が届かなかったよ」
「……そうっすか。そりゃ何よりで」
「あー美味しい。他人の奢りで食べるスイーツほど美味しいものはないわ。まさしく甘味よ」
更に一口食べ、それから黒いゼリーの乗ったスプーンを鈴野の元へ伸ばしてくるマイ。
銀のスプーンの上でぷるぷると震える、クリームの白が少し混じった黒い固まり。
差し出されたそれを鈴野は顔を寄せて食べようとするが、その直前で引っ込められ、黒い固まりはマイの口へと放り込まれてしまう。
「……性格わっる」
「それはどうも。貴女にそう言われると、嬉しくてつい涙が出そうだわ」
その緩んだ顔は涙とは無縁だろうと。
鈴野は内心で毒づきながら、恥ずかしさを誤魔化すようにコーヒーを一口含んだ。
「それで、今日は何の用で私を呼び出したの? 友達みたいに世間話でもしたいとかなら、相当に良い度胸してると褒めてあげるけど」
「……そうだな。とっとと本題に入るか。遊びに来たわけじゃねえからな」
そう言うと鈴野は、先ほどまでのだるそうな態度を引っ込め姿勢を正す。
そんな様子にマイは困惑しながらも、スプーンを置いて鈴野の次の言葉を待っていた。
「この前は申し訳なかった。私の身勝手でお前の、宵闇バットの最期にけちをつけちまった。まずはその件について、謝罪をしなきゃと思ったんだ」
深々と、旋毛すら見えるほど頭を下げる鈴野。
そんな鈴野を前に、マイは無言で数秒過ごした後、コーヒーの入ったカップに口を付ける。
「……そう。謝罪にしては、恰好が伴ってないんだけど」
「それについては勘弁してほしい。恥ずかしい話、スーツを持ってなくてな」
ひとまず頭をあげろと。
そう言ってからの坦々とした指摘に、困り顔をしつつ苦笑う鈴野。
そんな鈴野を見ながら、マイは一切の喜色も含まぬ冷めた視線を向けながら、ことりと優しくコーヒーカップを皿の上へと戻した。
「……宵闇バット。あの後、逃げるように退所した哀れなVTuber。卒業ではなく退所、ようはクビよクビ。別に退職金なんてないけど、もう同界隈では拾ってくれないでしょうね」
「…………」
「ほんと、訴訟までいかなくて良かったわね。ま、こんなん些事で裁判なんて馬鹿らしくてあり得ないんだけど」
どうでも良さそうに、えらく他人事のように言葉にしていくマイ。
彼女はそのまま腕を組み、軽く目を閉じて、それから開き直して鈴野に視線を向け直す。
「まあ謝罪は受け取ったわ。その上で言わせてもらう。嫌よ、許すわけないじゃない」
「……まあ、そうだよな。それは当然だ」
「そういうところよ。声も頭も下げて謝ってはいるけど許しが欲しいわけじゃない。貴女はやったこと自体には微塵の後悔もしていない。態度で分かるんだから、癪に障るったらないわ」
「……そうだな。悪いとは思ってるけど、それ以上にやってよかったとも思ってるよ」
「せめて否定しなさいよ。それが謝罪にきた女の態度なわけ? ……ほんっとむかつくわね」
心底の呆れと怒りの籠もった、けれど静かで小さな声。
まるで氷柱のようで、体の芯から底冷えしそうな冷たい声色だが、鈴野は動揺なんてせずににやりと笑みを浮かべる。
「まあ後悔はないよ。お前には悪かったが、それ以上にむかついてたのは事実だし、やって良かったと本気で思ってる。そこは否定しない、したくないからな」
「その結果が謝罪配信と活動自粛一週間。世間では宵闇バットを引退へと追い込んだ。軽すぎるくらいだけど、は新車としてそれがどういうことか分かってる?」
「ああ。次に配信を始めた時、きっと視聴者の九分九厘が私を見限っているだろうな」
配信者とは水物商売。人気と信頼だけで積み上げる、ガラスや豆腐よりも儚き夢。
一度でも期待を裏切れば、多くの者が二度と戻ることはない。例え電子の海の世界と言えど、後ろ盾のない人間の前科とはそれほどまでに重いものだ。
鈴野とて分かっている。配信者として、VTuberとしての自分は終わった。後にどれほど善行の石を積もうとも、最初の罪がある限り、魔法少女ベルはいつまでもいくらでも叩いていい悪のままだろう。
──けれど。
「魔法少女ベルは死んだ。……けどさ、私が死んだわけじゃない。ならいくらでも、やり直せるってもんだろ?」
「……呆れた。貴女がすべきは再開ではなく自己防衛よ。そのままじゃ、本当に自宅特定されて刺されるわよ?」
「そうかもな。まあその時はその時さ」
こちらを気遣ってか、イケメン店員が無言で新たなスイーツを並べるのを把握しつつ。
それでも鈴野は言葉を止めず、なおも笑みを作るのみ。最悪刺されても死なないからと、そんな無粋な言葉を呑み込みつつ。
「いやー、しっかし我ながらよくやったもんだよなぁ。本当はさ、宵闇バットなんて前座だったんだぜ?」
「……どういう意味よ」
「元々ネオエンターのライバーの中に会わなきゃいけない知り合いがいるって聞いたから、これは渡りに船だと思ってコラボを受けたんだ。それがまさか、私の積み上げた全部をベットすることになるとは思わなかったなあって」
「……何それ。よりにもよって本人にぶっちゃける? やっぱ最低よ、貴女は」
辛辣な口調に、わざとらしく舌を出す鈴野。
マイは笑みなどない顔でただただ吐き捨てて、呆れ果てたと大げさにため息を吐いた。
「きっと私、貴女を死ぬまで恨むわ。許すことなんて、どう頑張ったって出来ないと思う」
「だろうな。けどそれでいい。それが当然さ」
「……でも、でもね? 不思議なことに、おかしいことに、感謝している自分もいるの」
マイは、宵闇バットであった女は、少し俯きながらぽつぽつとそんなことを語り出す。
「配信は滅茶苦茶。終わりも最悪。……けど、どうしようもなく自由だった。きっと私、宵闇バットの配信中に初めて本気で怒鳴ったと思う」
「配信は趣味ではなく仕事。辛いことの方が多いけど、みんなの期待を裏切らないよう、精一杯我慢して努力して演技するもの。それが面接に通って、他にいたはずの宵闇バットになりたかった人間を蹴り落とした私の責務。そう結論づけて、もうこりごりだなで終わるはずだったの」
その結論は、その言葉は決して間違っていないのだろうと鈴野は思ってしまう。
私は企業に属した事なんてバイト程度しかないし、以後も出来るとは思えない。
だからその責任の、期待の、規定の重みなんて理解出来ないだろう。宵闇バットであった目の前の女が私を許せないように、私もまた企業所属の配信者のことなんて慮れないし、計り知ることすら烏滸がましいだろう。
けれど、だからこそ。決して交わらない線であるからこそ、あの一瞬はどうしようもないほど楽しかった。
加害者のくせにどの口がと、公言すれば誰もが後ろ指をさすだろうが、それでもあれこそがコラボの醍醐味なのだろうと、そう思えてしまったのだ。
「でも、そんな答えは全部吹き飛んだわ。あの十二分と少しの間、私はやりたいことしかしてなかった。宵闇バットではなく、やりたいことをやる一人の配信者であれた。だから、それだけは感謝してる」
「……そうかい。そう言ってもらえれば何より。使わなかったとはいえ、半日掛けてお前のことを考えてパワポを作った甲斐があったってもんだぜ」
「何それ? 使わなかったら意味ないじゃない」
今度は堪えきれなかったのか、マイは口に手を当てながらも音を出しながら笑う。
「だからこれで手打ちにするわ。せっかくの友達を減らすのは忍びないし、このスイーツと形だけの謝罪で私は終わりにしてあげる。これから身勝手に傲慢に、残酷なまでに裁かれる貴女に同情してね」
「……そうかよ。……ありがとう」
もう一度、今度は不純な思考が混じらせず、心のままに頭を下げた鈴野。
そんな鈴野へ微笑んだマイは、側を通った店員に小皿とフォークを一セット頼んだ。
「……良いのか?」
「最初からそのつもりよ。全部食べたら太るし、そうじゃなかったら相当に嫌な女じゃない、私」
「奢りには変わりないけどね」と、わざとらしく嫌味な笑みを浮かべたマイ。
そんな彼女へ鈴野もまた笑みを浮かべ、針で囲まれたように刺々しかった空気は弛緩する。
後に残るのは、不器用ながらに絶品のスイーツとコーヒーを楽しむ二人だけ。
画面を通して近く遠いだけの関係だった二人が、変わらぬ距離感で憩いの一時を楽しむのみであった。
二人なのに店内で姦しく、気がつけば空は夕暮れに。
最早居酒屋のノリで追加していった二人は、実に晴れやかな顔で店から出て駅へと歩いていた。
「ごちそうさま。……御代、本当に大丈夫だった?」
「ああうん、平気平気。うん、まじで平気。外食でこんなに金使ったのは初めてって感じだけど、まあノープロよノープロ」
晴れやかながら、燃え尽きたかのようにか細い声を出しつつ手を振る鈴野。
たった一回の会計で抜かれた札の枚数と、ポケットに入れた五桁を超えたと書かれた領収書が、紙切れのくせに純金レベルの重みを支払った女へと感じさせた。
「そんでこれからはどうするんだ? 私と同じ無職になっちまったわけだけど」
「そうね。懐には余裕があるし、今年は資格の勉強に勤しむわ。今年こそは受かりたいの」
「……そっか。ま、お前なら出来るさ」
マイはゆっくりと上を向き、ぼんやりと夕焼け空を眺めながらこれからの予定を語り出す。
その口から配信という言葉が出なかったことへ、鈴野は少しだけ寂しく思ってしまった。
「その後は……まあ、余裕出来たらまた始めるわ、配信。今度は一人で、気楽にね」
「……それは結構。コラボでもするか?」
「お断りよ。また荒らされも困るもの。……でもそうね、方針は決まってるわ。夜明けの鳥って、好き勝手鳴く一羽の鳥として」
にひひと、利発そうなマイが見上げながら露わにした屈託ない笑み。
ギャップと言葉に思わず胸打たれ、少しポカンとなってしまった鈴野だが、すぐに頬は緩み
「貴女は?」
「そうだなぁ。ここだけの話なんだが、青春のやり残しを片付ける……かな」
「何それ。厨二病? メルヘンキャラだしお似合いよね」
そうしてたわいない話を繰り返し、二人は気がつけばあっという間に駅まで到着した。
「……着いたわね。貴女はどこまで?」
「白海駅だけど」
「そう。じゃあ反対、ここでお別れね」
足を止め、少しだけ名残惜しそうにそう呟いたマイ。
そんな彼女に、鈴野はマイの正面へと立ち、ゆっくりと手を伸ばす。
「また話そうぜ。今度は仕事はなしで、適当に、気が向いたときに、どうでもいい話をさ」
「……そうね、そうしましょう。気なんて遣わなくていいのが、私と貴女だものね」
伸ばされた手を握るマイ。
最初は弱く、けれども二人とも段々と強く、まるで掴んだ手の感触を忘れないようにと。
「じゃあね鈴野。せいぜい苦しんでやりなさいよ」
「おう。そっちも楽しんで生きていけよ、マイ」
鈴野が満足気に振り向き、ホームへと進もうとした。その瞬間だった。
突如として湧いた違和感。マイとの時間が終わり、ようやくおかしくはないかと思い至ってしまう。
それは回りの静けさ。風の音すらよく耳へ通ってしまう、都会にはあるまじき静寂。
駅中だというのにもかかわらず、まるで自分達以外が消えてしまったみたいな違和感に、緩みきった鈴野の思考が急速に、歴戦の魔法少女としてのそれへと切り替わっていく。
「おい、マ──」
マイと、振り向きながらその名を呼ぼうとして。
その直前、静寂を切り裂くように鈴野の耳に届いたのは、ぐちゃりとした鈍い音。
形容しがたい悪寒が全身を駆け巡る。その音一つで、尋常じゃなく脳が刺激される。
聞いたことあるはずの、人がどうしても発してはいけないその音。それが間違いだと確かめるように、
鈴野は急いでマイの方へ振り向いた。
「あっ、あっ……?」
そこにいたのは、そこで鈴野が目にした人の姿は二つ。
狂気的な笑みと瞳を宿した黒髪の魔法少女と、その腕で胸を貫かれたマイの姿であった。




