初めてのお魚さん
集合場所である鈴野の最寄りから三駅ほど離れた、都会のそこそこ大きな駅。
無数の人々が行き交うその改札前で、鈴野は自分よりも二回りほど小さな少女に頭を下げていた。
「……で、電車に遅れて、なのにのんびりコンビニ寄って、それで三十分遅れたんですか?」
「あーはい。そうです。……いや、まじでごめんって」
必死に謝る鈴野を見下ろしながら、つーんと絶対零度の視線を送る結月。
容姿だけでごり押した貧相な服装の鈴野に対し、結月は落ち着いた水色の、チェック柄でひざ丈のワンピースを身に纏っている。
だらしない大人がしっかりとした美少女に怒られているという絵面。いつもであれば反論しているであろう鈴野も、流石に待たせすぎたという罪悪感で頭が上がらなかった。
「……はあっ。もういいです。むしろお姉さんらしいですから」
「……年下に哀れまれる私、ごめんよお……」
「だからいいですってば。ほら、もう行きましょう」
「お、おう! もう今日は任せてくれ! お姉さん、どんなものでも奢っちゃうから!」
まだ申し訳なさを全面に引き摺る鈴野。
そんな情けない大人の姿に、結月は欠片の遠慮もせずに手を引っ張り街へと繰り出していく。
「んで、今日はどこ行くの?」
「切り替えるの早いですね。……普通に買い物ですよ、買い物」
鈴野が歩幅を合わせて追いつき、駅から出て街中を並んで歩く二人。
なんかこうしていると妹が出来たみたいだと、鈴野は少し変な気持ちになってしまう。
「ちなみに終わったらお姉さんの服も買います。これからも一緒に出掛けるつもりなのに、それはちょっと刺激が強すぎます」
「ああはい。……って、刺激?」
「はい。刺激です。大体お姉さんはもう少し自分の魅力を理解するべきです。控えめに言って、その恰好は目に毒です」
「目に、毒……」
股をつんつんとしながらそう口にした結月。
にべもなく断言されてしまったその一言に、あんぐりと口を開け反復してしまう鈴野。
実際、家を出るまでは似たようなことを思ってはいたのだが。
それでも結月直々にそう吐き捨てられるとは思ってもみなかったのは、それはぐさりと弧心の奥の柱にまで刺さってしまった。
「目に毒……。私は……人様の目を汚す……毒女……」
「落ち込まないでください。別に貶してはないです」
「……本当? 私汚物じゃない?」
「はい。というか汚物なんて言ってません。もっと自信持ってください。立派な劇毒です」
はっきりと、これ以上ない笑顔でそう宣言した結月。
それを聞いた鈴野は、結局まったく褒めてないじゃんと、フォローになっていないフォローに更にへこみながらも、貶してはいないという発言を信じて姿勢を戻す。
「んで、どこに行くんだ?」
「水族館です。ドラねずみさんとコラボしているのでグッズが欲しいんです」
「……ドラ、ねずみ?」
「はい。これですこれ。最近流行り始めたらしいんですよ」
首を傾げた鈴野の前に差し出されたスマホ。
その画面には墨のように真っ黒で、如何にもマフィアの悪人だという人相と服装で、けれども何故かピンクの帽子を被る一匹のネズミの姿が。
「こ、これが……今の流行りなん……?」
「はい。まあ私も学校で知ったので、ネットのお友達に入り浸りなお姉さんとは無縁でしょうけど」
「……何か棘ない? やっぱりまだ怒ってる?」
「つーん」
スマホを引っ込めつつも、心なしかつっけんどんな態度の結月。
そんな彼女にため息を吐きつつ、鈴野は若者の流行に納得する様に小さく頷く。
それから結月の先導で少し歩き、途中クレープを奢ることで機嫌を取った鈴野は、何だかんだ雑談に花咲かせながら目的らしい水族館の入ったビルへと到着する。
「はえー。今時はビルの上に水族館があんのかー」
「都会だけですけどね。というか、来たことないんですか?」
「うーん……ない。というか、観賞系統は一回もないな。だから今日が初めてだ」
ビルへと入り、徒歩とエスカレーターで目的の階層へ向かう最中に鈴野がそう言えば、隣で手を握って立っていた結月は驚いたような顔をする。
「ないんですか? 水族館も動物園も植物園も博物館も美術館も?」
「ないな。……ああでも、後ろ二つのどっちかは小学生の時課外授業で行ったことある気がする。どっちだったかは忘れたけど」
鈴野がけろっと言いながら思い出すのは、朧気ながらに覚えているその一回。
学年はもう覚えていないが、班の連中とはぐれて一人で回る羽目になってしまったんだったか。
いやー懐かしい。確かあのとき、寂しくてちょっと泣いちゃった気がする。
今にして思えば不憫で可愛いやつだったよ。私の人生じゃ数えるくらいしかなかった、極々普通の学校行事だったってのにさ。
「……お姉さん。今日は楽しみましょうね」
「お、おう?」
結月は実に生温かい、慈しむような目を向けながら握る手の力を強める。
ひんやり冷たく、けれど温かい少女の手。
鈴野はそんな温もりに少しだけ微笑みながら、隙間のない人だらけのエスカレーターを上りきり、その先にある水族館へと入っていく。
「……んげ、五千円。高すぎんだろレジャー施設」
「やっぱり出します?」
「出すな出すな。こういう時はお礼でも言って歳上のお姉さんに奢らせとけ」
「……無職のくせに」
聞き捨てならない言葉を無視しつつ、受付で二人分のチケットを購入する鈴野。
くたびれた財布に入っていた五千円札と引き替えに、水族館らしい魚とペンギンの描かれたチケットを受け取り、いよいよ中へと踏み入っていく二人。
初めてということもあり、実は心の中で結構緊張していた鈴野であったが。
青光の灯る薄暗い通路を歩いていき、やがて広がった景色に思わず喉を唸らせてしまう。
「……すっげえ」
視界の見渡す限り、幾面にも設置された大中様々な水槽。
ガラスと水の中を泳ぐ水生生物達に、鈴野はまるで海の中にでも誘われたような感覚に陥り、だと口も目も開けて立ち止まってしまう。
「……ふふっ。後ろの邪魔なので行きますよ、お姉さん」
そんな鈴野に小さく微笑みつつ、その手を引っ張り歩き出す。
ジャンル毎に区分けされた水槽は、それぞれ異なる生き物を眺めながら、牛歩で館内を進んでいく。
「……でっけえ。共食いとかしないのかなぁ」
「最初に抱くのがそれですか?」
あるときは大水槽に泳ぐ、無数の小魚と大魚の入った水槽の前でそんなことを言いつつ。
「カラフル! カラフルなやつって毒あるんだぜ結月!」
「そうなんですか。ちなみに目の前のこいつにはないらしいですよ」
色鮮やかな熱帯魚の水槽の前でどや顔で話す鈴野に、説明書きを読んで一刀両断する結月だったり。
「カニだカニ! この世の地獄って噂のやつ!」
「それ蟹ですよね?」
あるときは大きなカニの水槽の前で、通じるか微妙などうでもいいことを言ったり。
「深海魚だってよ結月! ……食えるのかな?」
「ここでそれ考えます? 普通さっきのカニとかで思いません?」
見たことのない深海魚の前でそんなことを口に出す鈴野に、何とも言えない表情の結月が呆れたりと。
そんなこんなで少女よりも大人の方が八割増しの熱烈さでエンジョイしつつ、順当に館内を巡ること一時間弱。
当初の目的であった、シャチの着ぐるみを被ったドラねずみなるマスコットのぬいぐるみをお揃いで購入した二人は、袋片手にしながら満足気にベンチで休憩していた。
「いやーすごかったなあのトンネル! クラゲがわらわらって! 気持ち悪かった!」
「褒めてるんですそれ? ……まあでも、楽しかったですね。私的にはペンギンの方が可愛かったと思いますけど」
「ペンギンかー! あいつ泳ぐのは早いんだなー! 意外だったわー!」
楽しげに体を揺らし、入った頃とは別人のようにうっきうきで話す鈴野。
まるで歳を思わせぬ少女の顔であると、結月はそのはしゃぎ様を意外に感じながらも、つい頬をが緩んでしまう。
「……そんなに楽しかったんです?」
「まあな。自分でも意外だよ……って何だその顔、生温かい目しやがって」
「いえ、お姉さんにもそういう一面があるんだなと。……なんか、可愛いなって」
楽しさを、そして悪戯心を滲ませた声色でそう指摘された鈴野。
まるで歳を忘れたように浮かれていた彼女は、頬を赤く染めながら照れくさそうに、にこやかな笑みを向けてくる結月から目を背けてしまう。
「お姉さんもそういう風になるんですね。新発見です」
「うっせ。……そんでどうだよ。機嫌、直ったかよ?」
「んー、まあまあですね。あと半日一緒に遊んでくれれば、私も気持ちよく来週を迎えられると思うんですよね」
笑みのまま、あざとく悩んでますよ感のある声色な結月。
そんな少女の顔にまいりましたとため息を吐きながら、鈴野は結月の頭をくしゃくしゃと少し強めに撫でていく。
……しっかし本当に図々しく、ガキらしくなってくれたもんだよ。
まだ季節が一個変わっただけだってのに。やっぱり怖いねぇ、思春期の成長ってやつはさ。
「なあ結月よぉ。今の私の配信、楽しいか?」
「……? まあはい。どんな方針でも何だかんだ、私はお姉さんが好きだなってなれるので」
「……そうかよ。じゃあ、来週も楽しみにしておけよ」
無意識に、ふと訊いてしまったの問い。
結月は首を傾げながらすぐに答えたので、鈴野は少しから笑いした後にやれやれと首へと手を当てる。
……ま、こいつに訊いても仕方ねえか。なんせこいつ、厄介ファンだもんな。
まあでも、こういう一癖ある連中に私は支えられてんだ。やりたいことをやりながら、見放されないよう頑張っていかないとな。
「さあて行くか! もう一周して餌やり体験して、それから飯食うから食べたい物考えておけよ?」
「……分かりましたけど、もう一周するんですか?」
「おう! あのクラゲトンネルもう一回観たい。後変な顔の深海魚にチンアナゴ、後は──」
勢いよく立ち上がり、まだまだ足りないとばかりに場所を指折り数える鈴野。
そんな彼女に結月の方がため息を吐き、けれど仕方ないと立ち上がろうとした──。
──その瞬間だった。二人を襲った違和感と、世界から喧騒が消え去ったのは。
「あっ?」
「えっ?」
今までいたはずの人々が煙のように消え去った、魚すらいない静寂の世界。
その中で鈴野は直ぐさま冷静に、結月は若干の動転を隠しきれずにきょろきょろと見回してしまう。
「な、これって……」
「落ち着け。そんで想像通り、ここは鏡界の中だ。……はあっ」
鈴野はため息を吐きながら少し集中し、結月を手で制止しつつ周囲を探りながらこの現象の意図を推測していく。
これは恐らく強制転移。魔法少女を無理矢理鏡界へと放り込む、現実で戦わない方法の一つだ。
だが恐らく、私達を狙ったものではないはず。
もし私か結月を狙うのなら一人のときを狙うはずだし、こんな往来で仕掛けてくるはずがない。
民衆を人質にするのでもない。かといって動揺している合間に仕掛けてくるわけでもない。
ならば当然狙いは別。私達は不運にもそれに巻き込まれただけの、運の悪い魔法少女なのだろう。
しかし妙だ。この私が、魔力の発生すら察知出来なかった。
強制転移は結構な大技だ。それも個人ではなく範囲で絞るなぞ、私じゃ匙を投げるくらいには難易度は跳ね上がる。それを浮かれていたとはいえ私の間合いの外から行使するなど、それこそ永婆さんレベルの芸当だ。
まあ実際の永婆さんならお茶の子さいさいとか抜かすだろうが、あんな例外を片隅にでも置いちゃいけない。あの人は新旧合わせた全ての魔法少女と違う枠組みだからな。
まあでも、実際そこまで離れているはずはない。
せいぜいこの水族館一帯。どれほど広く見積もろうとも、このビル内が範囲の限度だろう。
「……きな臭い。それ以上にむかつくなぁ」
「どうするんです?」
「決まってるだろ。元凶をぼこして目的を吐かせる。そしてその後、謝罪を貰ってその金で昼飯だ」
変身しつつ結月へ手振りで促すと、やれやれと首を振った後、小さな声で「変身」と呟き魔法少女へと姿を変える。
以前よりも滑らかに、一端の魔法少女らしく変身出来るようになった少女をにやつきながら、鈴野はついに魔力を捉える。
下か。急速に離れていきやがる。
そうか。始まりが範囲ギリギリで後はひたすら逃亡してるから距離があるってわけか。
「下だな。ほらいくぞ。昼飯は一グレード上げて考えてとけよ」
「……じゃあ焼き肉で。高いやつ、食べたいです」
「……本当に年頃? 臭いとか気にならないの?」
「なりません。私も邪魔されていらいらしてるんです。さっさと処理してしまいましょう」
補足した複数の魔力を共有すると、結月は少しお怒りで先へと進んでいく。
そんな少女にやれやれと首を振り、鈴野は獰猛な笑みを浮かべつつ。
誰もいないのだしと懐からシガレットを取り出して咥え、回れなかった二周目を名残惜しく思いながら、ゆっくりと彼女の後を追って水族館を後にした。




