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第三話

 学校にも慣れ、友達は松下さんしかいないけれど、それでも普通の生活ってやつに慣れ始めてきた頃。

 まだ死にたくなる夜はある。しかしそれで苦しくなっても、学校に行けば笑えるようになってきた頃。

 五月になって、葉桜が多くなってきた頃。

 私の目の前にギターを持った一人の女が現れた。

「ねぇ、君『ミギワ』だよね」

私と同じ制服。しかし学年を示すリボンが違う。この人は二年生だ。朝の通学路でいきなり声をかけてきた。背負っているのは明らかにギターのケース。首にかかるかかからないかくらいのショートカットの黒髪に、胡散臭そうな笑み。

「な、なんですか」

「そんな怖がんないでよ。あたしは、きみがあのミギワかどうかが知りたいだけなの」

このミギワは私の音楽をやっていた時の私のことだ。わざわざ私を呼び止めるなんてそれくらいの理由しか考えられない。

私が冷や汗をかきながら立ち尽くしていると、松下さんが私を守るように前に出た。

「夜時さんになんか用ですか」

「夜時? ああ、ミギワの本名か」

「あの、先輩が誰か知らないですけどちょっと失礼じゃないですか? いきなり用件も告げず藪から棒に……」

「用件っていうか、単純にあたしはその子がミギワかどうか知りたいだけなんだよ」

ミギワの名を聞くたびにびくりと身体が軋む。

「ごめん松下さん。私、もう……!」

「あっ、夜時さん!」

私はそう言い残して校舎に背を向け通学路を逆行する。背後から私の名を呼ぶ声がするが、もう私は耳を覆いたくて仕方がなかった。汗が吹き出て止まない。通学路を逆走するのが物珍しいのか、みんな私を見てくる。私にはそれが笑われているように思えた。首にかけたヘッドフォンを耳に当てる。静寂だけが私の味方だ。

 お願いだから、お願いだから音楽を鳴らさないでくれ。私を苦しませないでくれ。私は目を瞑った。



「はぁ、はぁ……」

通学路から外れた大きい公園に着く。久しぶりにあんな全力で走った。まだ足に馴染みきってないローファーで靴ずれが起こっているかもしれない。暑い。けれど震えている。これは恐怖だ。

 「げほっ」

私はよろよろとベンチに向かい、身体を投げ出すように座り込む。時計を見ればとっくのとうに始業の鐘が鳴っている時間だった。もう今日は学校に行きたくない。あの人にまた会うのかと思うだけで、あの人が私を知っていると考えるだけで身がすくむ。

「もうやだ……」

情けない声を出しながら顔を手で覆う。誰かの足が指の隙間に見える。

「見つけた」

見上げると、あの人だった。

「ひっ!?」

私は情けない声をあげ、身体を反射的に仰け反らせてしまった。背もたれの無いベンチから転げ落ちそうになる。

「おっと」

彼女は私の腕を引っ張って落下を阻止してくれた。

「危ないなぁ」

「……ありがとう、ございます……」

「それはいいんだけどさ、急に逃げ出さないでよ。なんだかあたしが悪い人みたいじゃん」

「…………」

咄嗟に繕えず黙った。私にとっては悪い人だ。私の平穏を脅かすかもしれないから。

「ま、いっか。なんでもいいや。ねぇ、どうなの? ミギワなんでしょ?」

「…………」

「沈黙は肯定ってことでいい?」

 私は苦々しく口を開いた。

「……たしかに私は汀って名前ではあるけど、でもその人とは……」

「私が探してるのはミュージシャンのミギワだよ。一年ちょっと前くらいに活動休止しちゃった、あのミギワ」

びくり。また震える。その名を出さないでくれ。その名のせい苦しみたくない。

「君の顔を見てすぐピンときた。背が伸びてたし大人っぽくなってたけど、間違いなくミギワだって確信した。もちろん、その声もね」

「……やめてください」

「入学式でゲロ吐いた新入生がいるってちょっと噂になってて、それが国歌斉唱の時って聞いてますますそうだと思った。ゴシップ雑誌の戯言かと思ってたけどね。『ミギワ』の引退理由は音楽を聴くと拒絶反応が起きるっていうの。それで────」

「やめてッ!!」

堪え切れず叫んだ。私たち以外誰も居ない公園に絶叫がこだまする。彼女はすこし面食らったような顔をした。

「やめてください!! 私はもう『ミギワ』なんかじゃない!!」

「…………」

「ミギワを捨てるためにここまで来たのに! やっと、やっと普通になれそうだったのに! やっと音楽を捨てられると思ったのに! なのにどうしてほじくり返そうとするの!?」

彼女は黙って私の叫びを受け止めている。

「私は死にたくない! 私は音楽なんかに殺されるような存在じゃない! だから、だから……ッ!」

私の口から意味の分からない言葉の羅列が飛び出してくる。息継ぎもロクにしないまま叫んだからか、酸素を求めて肩が激しく動いた。彼女は私のそんな姿ををじっと見届けている。

「……音楽辞めたの?」

「捨てた! もう苦しい思いしたくない!」

「……そっか」

彼女は神妙そうに頷くと、背負っていたギターケースを下ろした。そして中から出てきたのはやはりアコースティックギターだった。

「な……何を」

「君が音楽を捨てたっていうのは、まぁかわいそうだけど。そんなことおちおち言ってらんないんだよね」

ギターを構えてじゃらん、と指で弦に触れた。私の喉がヒュ、という音を鳴らした。

「時間が無いの。あたしはミギワとセッションがしたい。さぁ、歌って。ミギワの歌なら全部弾けるから」

「や、やめ────」

「ワン、ツー……」

私の懇願を全く意にも介さず、彼女は弾き始めてしまった。私の大嫌いな音楽。私をこんなにもみじめにさせた音楽──そうであるはずなのに。

「……あれ?」

全く気持ち悪くならない。目の前が真っ赤になって、頭が真っ白になって、何かを吐き出さなければ死ぬかもしれないと思わせる脅迫的なものが無い。何ともならない自分の身体が信じられなかった。今までこんなことは無かった。自分の曲なんて特に遠ざけていたから。

私はいつの間にか、集中の海の中へ自分を投げ出していた。

「流れていけよ。雲は私を知らないわ……」

私の曲を口ずさむ。一年以上使ってなかった喉はカスカスしていて、歌うことができる状態からは程遠い。音程も取れてない。

 ただどうしようもなく身体が覚えている。

 彼女のギターを爪弾く音が鮮明に聞こえる。

 私の本能が叫んだ。それはもしや忌み嫌うミュージシャンの魂かもしれない。もっと、もっと深みへ。この歌はなぜ作られた? なぜこれを歌わねばならない? その答えは全部お前が知ってるはずだ。もっと、もっと、もっと、この歌を歌うために潜れ。えぐれ。お前を────

「うっ!?」

湧き上がる、正真正銘の吐き気と胃液と朝ごはん。耐えられず、私はその場で口から惜しみなく吐瀉する。

「…………」

彼女は立ち上がって私の背をさすってくれる。気持ち悪い。きもちわるい。お礼すら言えないくらいに。私は息も絶え絶えになりながらも彼女を睨んだ。

「……なんで、こんなことしたんで、すか」

「あたしが君と合わせたかったから」

「……もう、こんなことやめてください」

「どうして? できそうだったじゃん」

「苦しい思い、したくないから……」

「そう言って逃げたってどうにもならないよ」

私は彼女を見た。そう言い放った彼女はどこか超然としている気がした。

「ミギワは逃げてるだけだよ。やるべきことをやってよ。ミギワは、それがある人間なんだから」

「そんなの……そんなの、無い」

「あるよ。あたしは無いから、ある人がわかるんだ」

「何言ってるの!?」

私は彼女の手を振り払った。

「もうごめんですよこんなの! 二度と私に話しかけないでください! 先生に報告します!」

「歌ってる時、すごく気持ち良さそうだったよ」

私が背を向けた瞬間、この言葉が届いた。

「わかってるでしょ、自分自身のことくらい。どれだけ目を覆って見ないようにしても逃れられないのは、自分自身が、他でもないミギワ自身が望んでるからだよ。欲してるからだよ」

「……うるさい」

「ちゃんと向き合ったら? そうしたら楽になるよ」

「うるさいッ!!」

私は自分の荷物を持って駆け出した。不快だった。でもなぜかその対象は彼女じゃなくて自分だった。

一直線に家に帰る。学校には行けなかった。

 家に帰ってカバンを投げ捨ててドアを閉めて鍵をかけて口を洗って制服を脱ぎ捨ててベッドに入る。ベッドの中で、私はなぜか泣いていた。眠くはないけれど暗い場所に居たかった。目を瞑ってなにも考えなければどうとでもなると思った。そう思い込んでいたかった。そのことについて、私は無垢でありたかった。

 暗闇の中で考える。どうでもいいやで収まってしまえたらどれだけ楽だっただろうか。布団の中に埋まって身体を折り曲げて息を押し殺した。誰も私のことを見つけないでくれ。私はただ、何もない毎日を選びたいだけなのに。

 そのまま一人だという確信が持ちたかったけれど、タイミングを計ったように電話がかかってきた。松下さんからだ。申し訳ないな、と思った。しかし電話を取る踏ん切りがつかなかった。

カバンの中身が溢れ出している。見覚えのない紙切れが目に入った。そこには『白峰泉李(しらみねせんり)』という名前と、電話番号、それにメッセージアプリのID番号が書かれていた。私はそれをぐしゃぐしゃにしてトイレに流した。


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