第十八話
御大層に包まれた遺書の中には、たったそれだけのことしか書いてなかった。思わず破り捨てようとしたけど、そうしたら化けて出てきそうだったからやめた。
「なにが『いい人生だった』だよ」
耳元のヘッドホンからずっと泉李と歌った曲たちを流している。泉李が死んだあの日から、そうしていないと吐いてしまうようになった。
日常の中の無音が怖い。無音という名の空白の中で泉李との思い出が消えていってしまいそうで恐ろしい。私だけは覚えていなきゃ。たった三か月の間だったかもしれない。けれど、その九十日は私の人生の中で唯一の本物だった。
泉李の葬式と火葬に参列した。やけに晴れ渡った空だった。
夏休みが明けても私は一度も学校へ行っていない。家に籠もってびゃくやの曲を聞く。そうしないと吐いてしまうようになったからだ。そして夜になったら外に出て河川敷でギターを弾く。そうやって毎日を消費していけばいいと思った。
私はもう、何もかもが分からなかった。どうして今、音楽を聴かなきゃ吐いてしまうのか。どうして泉李が死んでこんなに辛いのか。それはきっと答えが出ないものだ。だから答えなんて出さなくていいと思った。
そろそろ日が沈む。夕日の光がカーテン越しに部屋に入ってきた。九月に入って昼はどんどん短くなる。太陽なんて出なければいいのに。
びゃくやなんて無いんだから。
インターフォンのチャイムがヘッドフォンの上から微かに聞こえた。無視しておけばいいと思って、私は変わらず窓の外を見ては音楽を聴いていた。
扉が開いた。美紅が入ってきた。美紅は何か話しかけながら私に近づいてくる。私はヘッドホンの音量を上げた。
「汀!」
ヘッドホンがひったくられる。私は初めて美紅の声を聴いた気がした。
「なんで電話出てくれないの」
私は答えない
「どうして学校に来ないの」
しかし私は答えない。
「何か言ってよ!」
美紅は縋り付くように私の肩を揺らす。
「汀……」
美紅が泣きながら私の胸に倒れこむ。どうして美紅が泣いているのか分からなかった。私はそのまま眠りについた。
次に私が目を覚ましたのは病室だった。個室で、美紅がリンゴの皮を剥いているのがなんとなく分かった。
「汀! 私だよ! ねぇ、見えてる!?」
美紅はナースコールのボタンを押し、すぐに医者と看護師が来た。どうやら栄養失調で倒れて、一日中眠っていたらしい。私の腕には点滴の管が通っていた。
「汀……良かった……!」
私が目覚めてから、美紅はずっと泣いている。そういえば泉李ともこんな風な個室で、コンテストの日、言葉を交わし合ったんだった。
私が泉李に言いたいことってなんなんだっけ。泉李は待ってくれなかった。そう思うと、私は吐いた。吐くものがないから無理矢理吐いたようなものだった。身体が何か別のものに乗っ取られたように急に震え出し、痙攣し、暴れだした。医者や看護師が私を押さえつけ、何か薬を打ったらしい。またすぐに眠ってしまった。
翌朝、無音の病室で目を覚ましてまた吐いた。吐しゃ物の中に血が混じっている。医者の話では吐きすぎて内臓に傷がついたとのことだ。あの時の泉李を思い出してまた吐いた。
もう死ぬかもな。なんとなく思った。死ねば泉李に会えるかもしれない。死後の世界があったらの話だけれど。
泉李は良いなぁ。良い人生だったって言えて。私はお前のせいでサイアクな人生だったよ。出会わなきゃよかった。お前なんかと。
そう呟きたかったけど、喉を動かす気力がなかった。
もう考えたくない。
全部全部音楽のせいだ。
音楽が私を苦しめる。
私が音楽をやっていなかったら、泉李と一緒になることも無かった。
なんで音楽なんてやっていたんだろう。
音楽はずるい。
音楽は着れないし、音楽は食べれないし、音楽は雨風を凌げない。音楽は生きるのに絶対必要なものではない。
じゃあどうして音楽は存在するのか。音楽という表現方法でしか、自分を表せられない異端者がいるからだと、思っていた。
じゃあ私はどうだったんだろう。私はその異端者だったんだろうか。
今、自分がどう思っているのかも分からない私が、音楽に表すものなんて何もない。
あの時、何をしていたんだっけ。どうして音楽をやっていたんだっけ。
どうして音楽をやろうと思ったんだっけ
美紅にDVDを持ってきてもらった。あるミュージシャンのライブ映像だ。もう活動を休止したミュージシャン。最年少でレコード大賞を受賞。世に出す曲は全てヒットチャート入り。同世代のあこがれの的。
泉李が好きだったミュージシャン。
私が大嫌いなミュージシャン。
「じゃあ、再生するね」
美紅は病室のテレビにレコーダーを繋ぎ、映像を画面に映し出す。それは、『彼女』が初めて武道館に立った時のものだ。
彼女はその小さく若い身体の中に収まりきらないであろう力をギターを通して、そしてマイクを通して発していた。多くの人が彼女の歌に共感し、多くの人が彼女の歌に感情を揺さぶられた。
今、私の流している涙は、いったいどうして流れているんだろう。
特典映像のドキュメンタリーで、いまだに路上で正体を隠しギターを弾いている彼女の姿が映される。撮影者にもう一流のミュージシャンなのに、どうして路上でやるんだと聞かれると、彼女は恥ずかしそうにこう答えた。
「私は、音楽でしかものを言えないんです。だから音楽やってないと、口を噤んじゃうことになる。それだけは嫌なの」
彼女は口下手だった。毎日毎日遅くまで曲を作っては学校に遅れ出席日数もぎりぎりになって、進級するのも一苦労だった。一日中ギターを弾いているか歌詞を書いているかだった。
そんな日々の中、彼女は確かに輝いていた。
休止直前の全国ツアー、ラストの東京ドーム。アンコール前のMCでこう言った。いつもほとんどライブ中話さない彼女の貴重な言葉だった。
「私、いつもこう思うんです。ライブが終わって、この後死んでも後悔は無いって思えなきゃだめって。今こう思います。後悔無いです。最高でした」
そして彼女は活動を休止した。残酷な悪意に晒されているなど微塵も感じさせず、充電期間と称して。
「……ミギワ……」
あの時の私はどう思っていたんだろう。
たしかに苦しかったし、何もかも嫌になった。あの東京ドームは、なけなしの力を振り絞った最後のあがきだった。
だからこそあの東京ドームまでは辞められないと思った。捨てられないと思った。私は音楽でしかものを言えないから。私が音楽をやらないということは、すなわち口を閉ざすということだから。
私の音楽は私のためにあった。他でもない私のためにあった。
東京ドームが終わって、限界を超えた私はやっと音楽を捨てられたんだ。私のためにある私だけの音楽を。それが、私をすり潰してしまう前に。
ミュージシャン『ミギワ』は死んだ。
けれど、夜時汀は生きている。
一年半ぶりに自分の音を聞いて、やっと自分がどんな姿だったか思い出した。
そして気付いた。泉李の音楽が私の生の音を受け継いでいたことを。私がライブ中にやった表情。私がライブ中にやったアドリブ。私がライブ中にやった歌い方。音源に現れない生の私を、泉李は表現していた。
そして言った。「後悔は無い」と。そして「明日死んでもいい」から、死んだ。
「ふざけんな……」
久しぶりに発した私の言葉はそれだった。
身勝手だ。勝手にこっちを巻き込んでおいて、勝手に突き放した。
でもいい人生だったんだろう。後悔は無いんだろう。
私にはあなたが刻み込まれてしまった。
もう復讐を果たした。そういうことなんだろう?
明日、私が死んだら後悔はあるのか。
音楽を捨てたままで、泉李を恨んだままで、美紅を悲しませたままで、明日死んでもいいか。
嫌だった。理由は無い。嫌で、何より泉李にむかついた。
多分、それでいいんだろう。
吐き気はもう感じなかった。




