第十七話
八月二十九日、日付が変わる前。ほぼ一か月ぶりに泉李の意識が戻った。私は急いで病院へ向かう。
「泉李!!」
病室に駆け込んだ。部屋にはベッドに横たわった泉李しかいない。
「ミギワ」
「せん、り……」
私はベッドによたよた近づき、淵に手をかけ崩れ落ちた。
「はは……なんて顔してんの?」
泉李はやせこけた頬を持ち上げてみせる。私はそれを見て何かが頭から噴き出してしまった。
「ばか! もう明日コンテストでしょ! 練習しないとダメじゃん! いきなり倒れてどういうつもり!? くそ……こっちがどれだけ……っ!」
「うん、ごめんね」
私は溢れる言葉を上手いこと整理することができずにぶちまけてしまう。それでも泉李は微笑んで、柔く私の頭を撫でた。それだけでもう泣きそうだった。
「もう明日はいいよ。イベントなんてたくさんある。コンテストくらい大きなやつなんて、いくらでも────」
「もう、今日になったよ」
私の言葉を遮って言う泉李の視線の先を追うと、病室の壁にかけている時計がちょうど深夜零時を示していた。
「ミギワ、今日のコンテストに出て」
「…………は?」
私は泉李が発した言葉をうまく咀嚼できなかった。
「なに、言ってるの。出れないでしょ。泉李がこんなんなんだから」
「松下さんがいるでしょ」
「美紅が? どうして美紅の名前が」
「私の後を任せてあるから。今まであたしたちがやってきた曲、全部弾けるから大丈夫だよ」
私はその言葉が意味するところをようやく理解して、思わず泉李の胸ぐらをつかみ上げた。
「それどういう意味!? まさか前からこうなるって分かってたっていうの!?」
「なんとなくだけどね」
「そんなの、死にたいって思ってたのと一緒だ!」
「そうかもね」
穏やかな口調の泉李に、私の声は震えた。
「なんで……ッ!?」
「もう、目的は果たしたから」
もう、思い残すことが無いみたいに、一言一言、泉李は紡いでいく。
「オリジナル曲は全部CDに焼いたし、あたしたちが一緒に演奏してる動画もいっぱい撮ってある。それに……ミギワと一緒にいれたから。それでいいんだ」
「なんだよ、それ……」
私はそれを受け止めるわけにはいかなかった。私だけは諦めてはいけないと思った。
「生きてれば、もっともっと一緒に居れるじゃんか……」
「もう今年までの命だよ」
「違うッ!!」
私は叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
「泉李次第で、いくらでも時間は長くなった!!」
「いいんだ、もう」
「なんでよぉっ!」
もう耐えられなくて、私は嗚咽を漏らした。丸まった私の背中を泉李が摩る。
「私たちは、二人でびゃくやじゃなかったの……?」
「そうだよ」
泉李は笑って言った。
「私たちは二人でびゃくやだ」
「じゃあなんで!?」
「もう、びゃくやが明ける時が来たんだよ」
泉李は私を抱きしめた。
「それに、そろそろミギワを開放してあげなきゃ」
泉李の言葉が分からない。私は駄々をこねて首を振った。
「いつまでもあたしの音楽にミギワを巻き込んでちゃ悪い。ほら、あたしミギワの大ファンだからさ。新しくなったミギワ自身のの音楽が欲しいんだ」
「……泉李……」
「今日のコンテストに出て、ミギワ。あたしとの最後の契約」
泉李の視線に囚われる。いつかのあの目だ。逃げるわけにいかない、あの目だ。
私は何も言えずに頷いた。
「うん、良い子」
泉李は私を離した。そして言う。
「あいしてるよ、ミギワ」
私は病室を出た。もう何も考えられなかった。そこからどうやって移動したのか分からない。いつの間にかいつも練習していた河川敷にいつの間にか立っていた。
見上げると、真っ暗闇で、私を押し潰してしまいそうな夜が広がっていた。胸にじわじわとこの夜のような何かが広がっていく。それを発散させるには、もう叫ぶしかなかった。
「うわぁあああああああああああああああああああああああああ!!」
涙が熱くて、火傷しそうだった。
夜が明けてしまった。びゃくやなんて来なかった。
朝十時。コンテストの会場である公園内の講堂に入ると、そこにはキーボードを背負った美紅がいた。
「み、汀」
美紅が近づいてくる。私はたまらず駆け寄って抱き着いてそのまま泣いた。
「泉李が……泉李が……っ!」
「話は聞いてる。深夜に意識が戻ったって」
「もう死ぬって、後は美紅に任せてあるって、それで────」
「汀」
矢継ぎ早に言葉を垂れ流す私を、美紅が遮る。
「興奮してるでしょ。ちょっと落ち着いて」
「え……」
「色んなことがいっぺんに起こって混乱してるんだよ。出番まで時間があるから、ちょっと休もう。ね?」
美紅に手を引かれ、楽屋に通される。美紅が言うにはもう泉李から連絡を受けていて、早めに受付を済ませていたらしい。
「寝ていいよ。毛布もらってきたから」
「ありがとう……」
楽屋のソファに横たわる。なんだか寒い。温もりが欲しい。
「美紅……手……」
「うん」
あったかい。少しだけ安心した。そう感じた瞬間に私は意識を手放し、そして目を覚ました。一瞬しか眠っていないような気がする。
「あ、起きた?」
「あれ……私……」
目の前には私を見下ろす美紅がいた。膝枕されているようだ。
「おはよう。ぐっすりだったよ」
「うん……」
私は身体を起こす。まだ頭がぼーっとする。
「ねぇ、汀。私、白峰さんから頼まれてることがあるの」
「……なに?」
「ライブ中、電話かけっぱにしててほしいって。演奏が聴きたいから」
「……分かった」
「うん」
沈黙が訪れる。段々頭がはっきりしてきて、なんだか泣けてきてしまった。泉李に裏切られた。そのことで頭がいっぱいだった。
「美紅」
鼻を啜りながら呼びかける。美紅は「うん?」とこっちを見た。
「泉李は……生きることを諦めたのかな……」
「……あきらめたんじゃないよ」
「じゃあなんで急に私の隣から離れたのっ!?」
楽屋に私の絶叫がこだました。その行為に意味が無いことなんて分かっている。けれどもそうすることでしか、私は私を保てなかった。
「私と約束したんだ! 今日一緒に出るって! 豊宗祭りが終わっても一緒にやるんだって……なのに……ふざけるなよ……っ!」
美紅の隣で甘えているんだろうか、もうなんの躊躇も無しに涙が溢れてきた。美紅は私の肩を抱く。
「白峰さんは、もう満足なんだよ」
私は顔を手で抑えながらいやいやと首を振る。
「汀に、自分で音楽をやってほしいんだと思うよ」
「私は自分の音楽が大っ嫌いなんだよ!」
私は怒りの矛先が美紅に向いてしまっていることに気付くことができなかった。それでも美紅は黙って受け止めてくれる。
「音楽がここまで私を苦しめるから! 私は音楽を捨てた! だけど……泉李の隣だけは……」
「違うでしょ」
美紅は諭すように言う。
「分かってるでしょ。汀は」
「何が!?」
「音楽が悪いんじゃないって」
私はその言葉に口を塞がれた。
「分かってるはずだよ。分かってて、目を逸らしてるだけだよ」
「美紅に何が分かるの!?」
「分かるよ」
美紅はいつしか涙を浮かべていた。
「分かるよ……」
「なんで、美紅が泣くの」
「汀が辛い顔してるのが辛いからだよ」
「どうして」
「私は、汀に何もしてあげれない自分が憎いよ。でもこれは汀の問題だから」
「…………」
「お願い」
美紅は私の手を握り、祈るように言った。
「白峰さんのことを思うなら、向き合って」
「そんな、こと────」
言いかけたその時、楽屋の扉が叩かれた。もう移動する時間らしい。
「行こう、汀」
「…………無理だ」
「汀!」
「無理だ。こんな状態で……」
「やるの!」
美紅に腕を引っ張られ、無理矢理立ち上がらせられる。そしてそのまま頬を叩かれた。
「白峰さんが待ってるから」
美紅が怒りで語気を震わせる。ここでやっと頭が冷えた。私は大きく息を吐く。
「……分かった。行こう」
ステージの袖に移動する。リハも無しのぶっつけ本番。もう正直コンテストの成績なんてどうでもよかった。スタッフに隠れて泉李に電話をかける。
『もしもし』
「今から出番」
『うん、頑張って』
いつも通りの声音だった。それに腹が立つ以上に安心する。今だけだ。今だけ……。
「色々言いたいことがある。終わったら」
希望を持ちたかった。『終わったら』。無理矢理未来を作り出してでも。
『分かった。待ってるね』
「……ちゃんと聞いてて」
『うん』
通話状態でスマホをポケットに忍ばせる。ステージへ上がった。
怒涛の二十五分間。出番が終わってトイレに駆け込む。美紅に背をさすられながら、思いきり吐いた。それでもなんとか持ち直して会場を出てタクシーを拾う。
「お願い……お願い……」
私は後部座席で身体を折り曲げ、必死に何かに向かって祈った。何を祈っているのかも分からなくなるほど、ただただ祈った。
病院に着くまでの時間が幾万秒にも感じられる。早く、お願い、速く、お願いだから。
病院のエレベーターがやけにゆっくりだ。転びそうになりながら廊下を走る。飛び込むように病室に入ると、泉李はもう息を引き取っていた。




