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第十話

 数日後。波乱のテスト期間が終わって、五月も終盤に差し掛かった頃。私は美紅に付き合ってもらって学校の屋上へやってきた。泉李から貸してもらったギターを背負いながら。

 「じゃあ、練習するから見てて」

 「お薬飲んだ?」

 「飲んだ」

 「うん、じゃあ見てるから。気分悪くなったらすぐ止めること」

 私がうなずくと、美紅は真新しいフェンスにもたれかかって水が入ったペットボトルへ口をつけた。風が吹いて美紅の髪がなびく。映画のワンシーンのようだった。

 私は美紅の隣で胡坐をかき、ギターを膝の上に置いた。ネックを左手で持ち、右手は弦に添える。肘でボディを叩いてリズムを取りながら、軽く弦をさらう。今までの経験上、集中しすぎなければ吐くほど気持ち悪くなることはない。薬も飲んだし、今日はなんとか無傷で乗り越えたいところだ。

 「立ってやらないの」

 「こっちの方が楽なんだ」

 「……そう」

 美紅は何も言わない。もうとっくに私について色々言いたいことがあるだろうに、そうしてくることもしない。ギターについても何も言ってこない。私との約束を守ってくれている。それはどうしようもないくらいに美紅のやさしさで、私はそれに甘え切ってしまっていた。

 「いてっ」

 ぼーっとしていたら弦を弾いた方の指が変な方向へ擦れた。指先が血に滲み、私はそれを口に入れる。

 「あ! ばっちぃよ」

 「絆創膏持ってたっけ」

 「持ってるから。早く口から出しなさいよ」

 美紅は私の正面まで来てしゃがむ。私が唾塗れの人差し指を出すと、美紅は水を上からどぼどぼかけてティッシュで拭き取った。そして財布から絆創膏を出して素早く巻き付ける。一通り終わった後、私の傷を軽くたたいた。

 「もう。自分からやっといてなんだけど、私別に汀の治療要員じゃないんだからね?」

 「そんなこと思ってないよ」

 「そう? なんか便利屋みたいに思ってない?」

 「思ってるわけないでしょ」

 「ならよかった」

 美紅はいたずらっぽく笑った。

 「ねぇ、どうして白峰さんと一緒にバンドやることにしたの?」

 「……え?」

 不意に投げかけられた問いに、一瞬だけ頭が真っ白になった。なぜなら、その問いの答えは私にも分からないからだ。

 「どうしてって……」

 「だって汀は音楽聞けないのに。白峰さんが、汀とやる理由は聞いたけど、汀が白峰さんとやる理由は聞いてなかったから」

 「……どうして、そんなこと聞くの?」

 「汀は、ちゃんと納得してるのかなって」

 「納得?」

 美紅はうなずいた。

 「私、前に言ったよね。医者になるのしっくりきてないの。医者になる理由に納得できてないから。私が医者になって何をするのか、自分に納得できてないから。親が医者だから、親戚がみんな医療の道に進んでるから。そういう理由で医者なんかやれないよ。それは失礼だ。だから自分で納得できる理由を探してる。じゃあ、汀は?」

 「私は……」

 「薬を飲めば、ある程度吐き気は我慢できるようになるかもしれない。白峰さんの音は聞くだけなら大丈夫なのかもしれない。でも、じゃあそれが汀がギターを弾く理由になるかって言われたら、そうでもないんじゃないの」

 図星だった。私は何も言えず、床に視線を落として美紅から目をそらす。

「白峰さん、本気だよ。汀が寝てる時ちょっとだけ話した。誰がなんて言ったって止まるつもりは無いと思う。あのひとが汀に無理させてることに対して、私は正直言いたいことはある。……けど、あのひとが今やっていることは、あのひとにとってとても大切なことで、譲れないことなんだろうなってことだけは分かるんだ」

 「美紅……」

 「汀はその気持ちを受け止める唯一の存在なんだから、せめてあのひとと一緒にいることに対して納得していてほしいの……」

 美紅はそう言って、少し悔しそうに顔を伏せた。

 「ごめん、こんな言い方しかできなくて。ただ、もしなんとなく続けて白峰さんとステージに出て、それでタイムリミットが来たら後悔するかもなって……」

 「……それは、泉李への同情?」

 「そうだよ」

 泉李が最も嫌がったことを、美紅はそう平然と言いのけた。

 「私は少なくとも明日死ぬ保証が無いから、余命が僅かって分かってる白峰さんの気持ちは分からない。同情しかできない。……酷いと思う?」

 「思わないよ」

 私が頭を振ると、美紅は安心したように目じりを下げた。

 「……お父さんが言うんだ。医者は同情する職業だ、同情して治療するんだって。痛みを分かろうとする職業じゃないんだって。分かった気になることが一番悪だって言うの。私はそれをずっと冷たいことだと思ってた。でも、白峰さんを見て分かったよ。私には自分の未来があと少ししか無いっていう想像は、できない」

 「……うん」

 「白峰さんの意思は、やり方はどうであれ私は尊重されるべきだと思う。汀はどうなの」

 美紅は私を見据えてくる。もう逃げちゃいけない。せめて美紅にだけはちゃんと向き合っていたかった。

 「……はじめは、なんで私がって思った」

 私は話し始めた。

 「私は自分のことにいっぱいいっぱいで、美紅といる毎日をちゃんと生きるのに精いっぱいで、そんな毎日を手に入れるために音楽を辞めた。でも現に今ギターを弾いてて、音楽をやろうとしてる。泉李の言葉に、思うところがあったからかもしれない」

 「言葉?」

 「私が、ずっと過去の音楽に苦しめられてて、でもそれを変えようとしないって」

 「…………」

 「泉李の音に対して拒否反応が無いのは偶然かもしれない。それは分からない。……分からないけど、何か意味がある気がするんだ。何かのきっかけになるなら、私はやるよ」

 「そっか」

 屋上に一陣、強い風が吹いた。私たちのスカートをなびかせ、すぐにおさまる。それは私たちのどうしようもない無力感を逆なでして、私が反撃する暇もなく逃げ去った。

 暫く経って、ようやく美紅が口を開いた。その声音は安心を孕んでいる気がした。

 「それで良いと思ってるなら、何も言わない。汀を信じる。頑張ってね」

 「ありがとう。心配かける」

 「汀が私に心配かけなかった時があるかな」

 「じゃあこれで貸し借りなしでいい?」

 「いいよ。それで手を打とう」

 私は脱力してフェンスにもたれた。美紅は私の正面からすぐ傍に移動して、私の肩に頭を持たれてくる。私はギターの練習に戻った。集中しすぎないように、美紅の頭の重さを肩に感じながら。そよ風が私たちの周りを駆け回ったように感じた。

 五月が終わる。あと、二か月を切った。


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