06
「あれ、店長さん」
カランコロン、とドアベルを鳴らして入ってくるなり、ジャスパーはそう声を上げた。
「お久しぶりですね。あの、もしかして娘さんが……?」
いらっしゃい、と迎え入れたマーカスはグッと親指を立てて応える。
「バッチリだ。教会治療師のお姉ちゃんが肺病の薬を出してくれたよ。多少値は張るが、それでも払えないってほどじゃねえ」
「おー、よかったです。あ、そうそう。いまちょうどそっちの関係の記事書いてるのがうちにいるんですよ。よければちょっとだけお話聞かせてもらってもいいですか?」
おうとも、と答えるとマーカスはジャスパーを席に案内するや、そのまま対面に座る。そして語る。新しく来た医者のエリューがいかに優れた人格者か。彼女の処方してくれた薬がどれほど劇的に彼の娘の身体を癒してくれたか。これからの街の発展に自分がどれほどの期待を寄せているか。ジャスパーは彼の熱意にちょっと押され気味なりながら、そのすべてをボロボロのメモ帳に書きつけた。ハリエッタから直接の指導を受ける記者見習いであるジャスパーの鞄の中には、少なくとも十を超える手帳がしまわれている。
「やっぱり評判いいですね。ゾルゲンホワーヅの一門は」
「そりゃそうだろう」マーカスはジャスパーの言葉に被せるようにして言う。「前のクソ領主からこれだ。教会とズブズブなんて聞いたときにはうんざりしたもんだが、ああいうズブズブなら大歓迎だぜ」
確かにそうですね、とジャスパーは頷く。
「ゾルゲンホワーヅ公爵家。当主のゴドー=ゾルゲンホワーヅがものすごく敬虔な人で、教会に多大な資金援助をしているほか、自身の領地では積極的にその人員を活用した慈善活動を行っている……とは聞いてましたが、ダメですね、僕は。知識としては知ってたんですが、まったくもって実態がわかっていませんでした」ぱたり、とその手帳を閉じて、「教会ってあんなに普通にいい人の集まりなんですねえ。僕、ここの廃墟みたいな場所しか知らなかったからびっくりしましたよ」
いやいや、とマーカスは言う。
「そんなこと言ったら俺だってそうさ。何の期待もしちゃいなかったが、まさかまさかの……ってやつだ。……っと、悪いな、ヴェイン」
テーブルの上に乗せていた腕をマーカスはどける。謝った先には給仕服を着た茶髪の青年。コーヒーとカフェオレを手にして、いえいえ、と柔らかい笑みを浮かべている。カフェオレをジャスパーの前に、コーヒーをマーカスの前に置く。
「これでヴェインさんもハリエッタ先輩から解放ですね」
悪戯めいた笑みでジャスパーが言うと、あはは、とヴェインは困ったような笑い。どういうことだ?とマーカスが訊ねれば、ジャスパーが説明する。店長がいない間は標的がそっちに移ってたんです。
にやっ、とマーカスが笑った。「スミに置けないな、お前も」
「勘弁してください」ヴェインは肩を落として、「もうずーっとコーヒーが薄い薄いって……。おまけにその影響で他の人に出すコーヒーは濃くなっちゃうし。店長がもう一週間帰ってくるのが遅かったら、このお店潰れちゃってましたよ」
「やれやれ。そんなんじゃまだ店は任せらんねえな。……そういえば、今日はそのハリエッタはどうしたんだ?」
「お。訊いちゃいますか、それを」
ジャスパーはあたりをきょろきょろ見回す。それから内緒話をするように手を口の横に当てるものだから、マーカスもヴェインも一緒になって耳を寄せた。
「実はその、ゾルゲンホワーヅの一門に呼ばれてるんですよ……。呼び出しです」
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「ようこそクソッタレの街へ……。とでも言えばいいのかな? 新領主殿」
部屋に通されてまず一言目に発したのがそれ。反応したのはシルフォリオで、剣の柄に手をかけながら一歩踏み出そうとしたのを、隣に座るゴドーに手で制される。
「よしなさい。ただの挨拶だよ。……ご歓迎どうもありがとう。すでにご存じのようだが、私はゴドー=ゾルゲンホワーヅ。この街の新領主だ」
「聞いているさ、鮮血公爵」
ハリエッタの言葉に、ゴドーの右眉が少しだけ動く。横に控える三人の反応はまちまちで、シルフォリオは思い切りハリエッタを睨みつけ、エリューは目を伏せ、トレアはにやにやと笑っている。
「そちらの二人もすでに聞き及んでいるよ。鮮血公爵の懐刀。銀剣のシルフォリオに、癒者エリュー。二人とも教会の大物だ。そろそろ『若手の中で』という言葉が抜けてくるくらいには」
「……そりゃどうも」
「……恐縮です」
「そちらは……」ちらり、とハリエッタはトレアに目をやると「申し訳ないが、存じ上げない。どなたかな?」
「お気になさらず」トレアは人を食ったようなピースサインで答える。「ただの愛人でーす」
ふうん、と彼女を見るハリエッタの目つきは鋭くない。が、当然探りは入れている。ただの愛人ではあるまい。懐刀二人を連れて面会するような場所まで連れてくるのだ。よほどゴドーがこの女に入れあげているというなら別だが、何かしらの特技があると睨んでおいた方がいい。
「それで? その新領主様がしがない新聞記者に何の御用かな?」
「しがない、とは」
ゴドーがわざとらしく驚いて言う。
「随分な謙遜もあったものだ。聞いているよ。前領主・バブラオ=トレジェーデ。結構な悪人だったらしいじゃないか」
「……まあ、そういう見方もあるな」
「おや。君の意見ではそうではないと?」
「何事にも物の見方というものがある」興味はないが、と言いたげに肩を竦めて、「ヤツだってヤツ自身の目から見れば大した悪人ではなかっただろうさ」
チッ、とシルフォリオが舌を打った。エリューがそれを窘めるような目で見るが、先にハリエッタが反応する。
「何か言いたいことでも?」
「いえ、失礼。ただの癖です」
「そう言わずに」
「……僕はその、悪には悪の理屈があるとか、そういう言い方が心底気に食わない」苦々し気に顔を歪めて、「悪は悪だ。自分の都合で他人を苦しめる人間に同情の余地などあるものか」
ほう、とハリエッタは笑う。獲物を見つけた顔。
「それじゃあ君はその思想と自分の行動を――」
「いやー。若くて眩しいよね、こういう子!」
遮ったのはトレア。視線がこう訴えかけている。うちの子に手を出そうとするのはやめてね。大人しくハリエッタは両手を挙げて引き下がる。別に舌戦でこてんぱんにしてやろうなんて考えていたわけじゃない。この中で交渉事を主導するのはゴドーを除けばこのトレアだということがわかった。それだけで収穫。
「善悪の話も興味深いものではあるがね」ゴドーが言う。「私が褒めたかったのはその悪人の下で生き残ってきた君の手腕だ。報道女王ハリエッタ」
「これはこれは。光栄だな。そんな場末の与太話でしか聞かないような異名で呼んでもらえて」
「いやいや、場末の与太話も馬鹿にならないものだ。何せ悪人が殺されたその日の朝刊にはもう記事が載っている。これは王都にいる精鋭記者たちですら真似できないことだ」
「些細なトリックだよ」とぼけるように、「元からこの街の全員分の追悼記事を用意してるんだ。私がやっているのは引き出しを開けて紙を取り出すだけ。おかげさまで職場での私は散々な言われようでね。『給料泥棒』『もっと足を使って情報を稼がんか』『お茶汲みでもした方がまだ役に立つ』……」
「その追悼記事は、人狼の分も用意してあるのかね」
沈黙。
冷たい視線が、交錯した。
「……初めから狙いはそれか」
「勘違いしないでもらいたい。私は善良な記者に手を出す気はないよ」
「善良……。善良ねえ……」
「なんなら君が持っているその悪人の追悼記事をすべてこちらで借り受けたいところだ。もちろん、彼らが死んだらすぐ返すという条件でね」
「悪いが、」ハリエッタは手で遮って、「体制側にはつかないことにしている。物事に対する批判資格の喪失は、批判能力の喪失よりよっぽど恐ろしいものだからね」
あらら残念、とは窓辺に寄りかかるトレアが溢した。
「まだしているのか。人狼狩りを」
ハリエッタが訊ねれば、トレアが代わりに答える。
「まさか。そんなお伽噺みたいなこと今時してるわけないじゃないですか。ただね、ほら。未だにそういう異端者がのさばってると思われたら嫌でしょう? たとえ見せかけであったとしてもね」
「どうだね、報道女王ハリエッタ。連続殺人事件が起こった翌朝にはもう記事にできている君のことだ。……知っているのではないか? 人狼の正体を」
「見つけてどうする」
ハリエッタが訊ねれば、ゴドーもトレアも答えず、ただシルフォリオの手の内に剣の鳴る音がした。
嘆息して、ハリエッタは、
「残念ながら私も彼……彼女かもしれないが、その正体は知らない。殺人事件の翌朝までに記事を間に合わせている理由も、ついさっきの通りだよ。さすがにこの街の全員分は用意できていないが、人から恨みを買っていていつ殺されても不思議じゃないようなやつくらいは、この街でちゃんと人の声を聞いていればあらかじめ理解できる」
「オルガ医師もですか?」と、エリュー。
「もちろん。この街の工場の大量建設とその陰にある肺病には当然因果関係があるが、それは偶然のものじゃない。バブラオとオルガが結託して、利益を見越してわざと行ったものだよ。自分で起こした病を治すことを善行に含めるというなら、部分的には善人と呼んでも差し支えないが……、まあそれだって、自分で作り上げた病人の半分も治療していないとなっては、あまり賛同を得られる意見ではないだろうな」
言葉を失っているのはシルフォリオとエリューの二人。ゴドーとトレアの二人は、ハリエッタの言葉に嘘がないかを明らかに探っていた。
「……わかった」
けれど結局、ゴドーがそう言って折れる。
「やはり近道しようとするのはよくないな。何事も地道が一番だ」
ほう、とハリエッタはそれを聞く。そして訊ねる。
「地道とは、どういう行動を指すのかな」
「そりゃ皆殺しですよ」
答えたのはトレア。にっこりと笑って。
「悪人を順番に殺していくんです。どこかでは行き当たるでしょう。最後の善人に辿り着くまでに。……ま、もっとも、すぐに行動に移す気はありませんけど」
「……さすが鮮血公爵。やることが違うな」
言って、ハリエッタは踵を返す。もう十分情報は与えたし、奪った。用件も済んだし、ここに留まるもない。
それでも最後に、振り向いてハリエッタは訊いた。ところで、と。
「私はその殺されていく順番の、どのあたりにいるのかな」
答えはない。