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05



 オルガはすべてを灰にすることに決めた。

 つまりは、己の悪事の全てをなかったことにしようと、そう決めた。


 深夜。病院には一人。焼き払うために必要な火種と、燃え広がらないようにするための金属の箱。それを携えて、ここに現れた。入院患者たちは皆眠っている時間帯。宿直の医師も看護師も理由をつけて目的の部屋からは遠ざけてある。


「冗談じゃないぞ。どうして鮮血公爵がこの領地に――!」

 恐れているのは、人狼ではない。オルガはそんな噂を信じてはいない。どうせ、と思っている。どうせただのケチな平民に過ぎない。自己顕示欲が強いだけの殺人鬼。バブラオ=トレジェーデのようないかにもな悪玉は殺せても、自分のような医師を殺せるはずがない。何せ自分はこの街に欠かせない人材なのだ。人を救っているのだ。平民たちにとっては味方なのだ。――表面上は。


 だから焦っているのは別の理由。つい今日の昼方になって王都にいる知人から得た情報。


 鮮血公爵がやってくる。

 この土地に、バブラオの後釜として。


 冗談じゃない。オルガは知っている。鮮血公爵。王国内の荒れ果てた領地に派遣されてくる男。現王の甥。たかだか四十を超えたくらいの癖に、その名が史書で詳細に語られることは決定している。


 極端な粛清趣味。


 鮮血公爵は汚職を決して許さない。自分が治めることになった土地ではまず必ず粛清を始める。制裁を始める。火刑を始める。串刺しを始める。吊るし首を始める。容赦はない。慈悲もない。あの男の辞書に手心という言葉はない。


 悪党は灰も残さず殺される。


「燃やさなくては、早く、早く――――!」

 焦るあまりに早足が金属缶を蹴り飛ばしてしまう。ひいっ、と声を上げたのはそれが鐘の音のように聞こえたから。教会で鳴る鐘の音。公爵の支配は必ずその地の教会を拠点にして行われる。敬虔なる神の徒。それが今は、一番恐ろしい。オルガは急ぐ。急いで入る。院長室。自らの書斎。ダイアル式の金庫。決して外に洩れ出さないように厳重なロックをかけてあるそれを回して、解いて、開いて――――


「か――――」

「不意打ちなんて申し訳ないね、どーも」


 喉を、背中から貫かれた。

 声が出ない。オルガに見えるのは開いてしまった金庫と、自分の喉から生えている獣の爪だけ。振り向けない。耳元で声がする。

「なーんか怪しいと思って、扉の裏で待たせてもらってたのさ。あからさまな金庫。金でも入ってんのかと思ったが、どうもそうじゃないらしいな」

「や、め……」


 オルガの言葉も聞かず、襲撃者は腕を伸ばして金庫の中身を手に取る。紙束。書類。当然、重要なことが書いてある。


「ははあ。なるほどねえ。ここの環境汚染はあんたらの仕込みだった、ってわけか」ぺらぺらと、その書類を捲りあげる音。「公害の程度はあんたらが調査してちゃんとコントロールしてた、と。健康被害は最小限、というよりむしろ最大限。工場勤務年数が増えると昇給で人件費がかさむから、長く続けられないように従業員にダメージを与える。それからできるだけ医療費を高く、多く分捕ることであんたらの懐に流れ込むように……。確かにな。この街の社会保障は機能してないから、病人を出せば出すだけ盛大に商売ができる。かといって税金もちゃっかり搾り上げたいから、健康被害を無視することで他の都市との競合に負けない無茶苦茶な生産体制を……と」


 やめろ、ともう一度オルガは言う。両手を挙げながら、敵対の意思はないと伝えるように。

「わ、私の計画ではない……。すべては、バブラオが……」

「別にそんなこたどうだっていいんだよ」大きく音を立てて、男は書類を机の上に置く。「大事なのは、そう見えるってこと」


 ずぷり、と血肉を巻きこんでオルガの首から爪が抜かれる。神経にやすりをかけられたような痛みにオルガは叫びそうになるけれど、叫べない。もうそれができるだけの発声機能が残っていない。ほとんど過呼吸を起こすようにして床にうつ伏せで倒れ込んだのを、男が爪先で蹴り飛ばして仰向けに変える。


 そして、オルガは見た。


「じ、じんろ――――」

「俺は必ず手口と目的を教えることにしてる――」


 人狼は語る。窓から洩れる月の灯りをその顔の右側――爛々とした獣の瞳孔の中に、金色に光らせて。


「百人殺して食えば人狼は人狼の天国に行ける。……悪人なら、どれだけ殺しても誰も文句は言わねえ。お前が死んでも誰も悲しまない、恨まない、俺を探そうとしない――」

「私は、この街の、ために――」

「本当に思ってるなら大したもんだ」

 右の獣脚がオルガの左脚を砕く。絶叫。


「私を殺せば、鮮血公爵が、必ず……」

「……? どいつか知らねえが、悪人を庇うってことはそいつも悪人だろ。そんときゃそいつも殺すさ。ご心配どうもありがとさん」

「ふ、ざ――――私は、こんなところで――」

「諦めな。自業自得さ」


 鮮血が、夜の青い壁に噴き散る。

 命の終わり。それから人狼の男は丁寧にオルガの死体を解体すると、その臓腑のうちからたった一欠片を指先で抓み取って、二、三度奥歯で噛むと、すぐに飲み下してしまう。


 ごくり、と喉仏が動いた。


「――ぁあ。不っ味……」


 舌の上に残る余韻を振り払うように、人狼は頭を振った。それから、金庫から出てきた書類が決してどこかに紛れてしまわないよう机の上に置いて、壁にはオルガの血を使ってこう書き記す。




――――『制裁執行』




 血の滴ってくるのを布切れで拭きとって、それがどうにか形になったのを見ると、一息。人狼は机に腰かけて、それを眺めて、月光はオルガの死体に降り注いで。


「…………くっだらねえ」


 虚しく、声は溶けていった。







「ああ、ようやく着いた」


 街の教会の手前に、四人乗りの馬車が止まる。一番最初に、そんなことを言いながら青年が降りてきた。染みひとつない白衣に金の刺繍。教会の高位神官の証。腰に携えた長剣を見れば、彼が騎士であることもわかる。


 腰をぐ、と伸ばしながら彼は「んー」と悩ましげな声を上げる。


「やっぱり馬車は苦手だな。今度は蒸気自動車で来ましょうよ」

「だめですよ、シルフォリオくん。あれはまだまだ発展途上で、空気を汚して肺を悪くするんですから」

「堅いですね、エリューさんは」

「堅いとか、そういう問題ではなくてですね……」


 次に降りてきたのは、フードのついた白衣を着た女性。青年よりも小柄だが、年のころは少し上に見える。青年のものとは違い刺繍は入っていないが、青い縁取りを見ればわかることもある。教会治療師の制服。


「私はただ、シルフォリオくんにもっと色々なことに意識を向けてほしくて言ってるんです。せっかくその年で教会騎士になれたんですから、たくさん勉強していけばいつかすごく素敵な人になれると信じてるからこそ……」

「うーん。お説教はありがたいんですけど、僕はただ今の自分の気持ちを誰かと共有したかっただけっていうか……」

「わ、私が会話下手だって言いたいんですか?」

「うん」素直にシルフォリオは頷いて、「まあ、率直に言ってしまえば……」


「わ、ここ空気汚いなー」

 エリューが何かを言い返すよりも先に放たれた言葉は、降りてきた三人目の唇から紡がれた。簡素なシャツとズボンだけの姿は少年めいていたが、声は女のものだった。真っ赤な髪は顎に触れるか触れないかというところで揺れていて、どこか中性的な雰囲気を湛えている。


 彼女はシルフォリオにからかうような笑みを投げかけて、

「素直に言えばいいのに。『お姉ちゃん、ボクとお喋りしてー!』って」

「黙れ」

「ちょ、ちょっと。シルフォリオくん、トレアさんにそんな言い方は……」

「いいよ、別に。生意気な子を相手にしてた方が楽しいし」


 ねえ?とトレアが振り返って呼び掛ければ、最後の一人も馬車から降りてくる。


 雲を衝くような背丈。肩回りはシルフォリオの倍ほども太いが、ただ肥え太ったばかりでないことは服の上からでもわかる。鍛え上げられた身体。古代の勇士を思わせるような均整の取れた肉体。首は太く、髭を蓄えた顎の輪郭にも骨の頑丈さが見て取れる。しかしほつれなく撫でつけられた白髪交じりの髪とモノクルの奥に潜む瞳からは、疑いようもなく理知の香りが漂っていた。


「そのとおり。子どもは元気なのが一番だとも」


 子どもって、とシルフォリオは口を尖らせる。

 もうすぐ成人ですもんね、とエリューがそれに同調する。

 ガキはいつまで経ってもガキなんだよ、とトレアがからかう。


 その三人に笑いかける。

 男の名は、ゴドー=ゾルゲンホワーヅ。



 鮮血公爵の異名を取る、この街の次の領主。




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